おはようこんにちはこんばんは、江草です。
今日は、よく言われる「ゼロリスク志向」は、それよりも「ゼロ責任志向」と言う方が実態に合ってるのではという話をします。
よく槍玉に上がる「ゼロリスク志向」
今回のコロナ禍で「ゼロリスク」という言葉がよく使われるようになりました。
最近のホットトピックであるコロナワクチンに関する議論でもよく出てきます。
たとえば【日本人は100%の安全性を求める「ゼロリスク志向」が強いので、一度副反応の報道が出るとワクチン忌避に急に傾くおそれがある。】などという使われ方がされます。
なるほど確かに、日本人は慎重というか警戒心の強い方は多いですし、「ゼロリスク志向」というのはそうかもしれないと思わせる言葉ではあります。
しかし、江草は最近この「ゼロリスク志向」というものの本当の姿は「ゼロリスク」とは異なるのではないかと感じるようになってきたのです。
本当に避けてる対象はリスク?
「ゼロリスク志向」というからには、とことんリスクを避ける行動を取るはずです。
しかし、どうもそれが徹底されているようには見えない事例が少なくないように思うのです。
「日本円での預金のみ」のリスクを無視
たとえば、日本人は元本保証の預金が好きで、株式投資をしたり外貨に替えたりといった資産運用に積極的な人が少ないことが知られています。
なんとか国民に投資を促そうと、国もNISAなどの制度を整備していますが、どうにも焼け石に水のようです。
預金にこだわって、金融資産を全部が全部「日本円」という1種類の資産に集中して保有することは、「日本円の価値」が下がるインフレリスクに極めて弱く、全然「ゼロリスク」ではありません。
にもかかわらず、「日本円」の元本保証にこだわる人が多いのはどういうことでしょうか。
もちろん、日本円のみ保有することのリスクに気づいてなかったという人も中にはいるかも知れませんが、かなり多くの人が同様の行動を取ってるところを見ると、どうも「ゼロリスク思考」の人が多いにしては詰めが甘すぎます。
コロナとワクチン、どちらがリスク?
また、コロナワクチンの議論でもそうでしょう。
確かに急に開発された今回のコロナワクチンにはまだ実績がなく、リスクがないと言うと嘘になります。
ただ、同様に新型コロナウイルスも、これだけ世界中で問題になってることから自明なように、もちろんリスクをはらんだ存在です。
「日本円のみでの保有リスク」と違って「新型コロナウイルスのリスク」を知らないという方はさすがにいないでしょう。
要するにコロナもワクチンも、どちらに転んでもリスクなわけで、どうにもゼロリスクにはしようがないのですよね。ゼロリスク志向も何も、今回のワクチンに関しては、リスクの合間を縫って判断するしかないはずなのです。
なのに、【日本人はいわゆる「ゼロリスク志向」だからワクチン忌避が多い】という構図が描き出されるのだとすれば、それは本当は「ゼロリスク」とは何か別物のような気がするのです。
リスクではなく責任を避けてる
で、先日、ある記事を読んだんです。ワクチン忌避に対して警鐘を鳴らしていた記事でした。
その記事についていた、とあるコメントが目を引いたんです。
それは、
「そんなにワクチンを勧めるのなら、ワクチンの副反応が起きた時の責任はもちろんすべて筆者が取るんですよね?」
と、すごむコメントです。
なかなか失礼なコメントですが、これを読んで江草はつかめた気がしたんですよね。
「ああ、みんながゼロにしたいものはリスクではなく責任なのかもしれない」と。
避けたいものが「リスク」ではなく「責任」と考えると辻褄が合う
たとえ副反応が起きた時に誰かに責任をとってもらったとしても、副反応が起きてしまった事実は変えられません。
本当に「ゼロリスク志向」なのであれば「どちらがよりリスクが低いと思うか」を考えたり、「ワクチンはリスクが高い」と自分が考える理由を提示し、議論を深めようとするはずです。
そのあたりを突き詰めていって初めて最大限にリスクを避けることができるのですから。
なのに急に「責任を取れ」という話が出てくるのが興味深いところです。
「責任を取る取らない」と言う話は本来的には「リスク」とは別の話のはずです。
しかし、人々が本当に避けたいものが「リスク」でなく「責任」だと考えると、先の資産運用に消極的な理由も含め、辻褄があうのです。
自己責任で、よく考えて、ご判断を
投資、わりかしみんな勧めるくせに、最後には絶対あの言葉がつきまとうんですよ。
「投資は自己責任でお願いします」
はい。皆さんご存知のこれです。
でも、責任を避けたい「ゼロ責任志向」の人からすると、この言葉がまさしく重いんだと思うんですよね。
ワクチンも同様です。
散々オススメされつつも最後は、
「個人の価値観によりますので、正しい情報を得て理解した上で、よく考えてご判断ください」
とこうなります。
これは「最後の判断は自己責任で」と言ってるのとあまり変わりません[1]ワクチンのような公的管理がされてる代物で全責任が自分ということはもちろんないですが、自己責任から逃れられないことは間違いないわけです。
こうなると「ゼロ責任志向」の人からするとやはり重たい判断になってしまうわけです。
人のせいにしたり保留すれば責任から逃れられる
人が責任から逃れるためには良い方法が2つほどあります。
それは「人のせいにすること」と、「とりあえず何もせず保留すること」です。
ひとつめの「人のせいにすること」は分かりやすいですね。さきほどのように「副反応が起きたらお前のせいだぞ」と他人のせいにすれば、「自分は悪くない」と自分の責任を回避することができます。
もうひとつの「とりあえず何もせず保留する」とはどういうことかと言うと。
投資を少しでもしてしまえば「投資をしなかった時」には戻れません。
ワクチンを受けてしまえば「ワクチンを受けなかった時」には戻れません。
なので、投資やワクチンを受けるという主体的な判断をしてしまった場合、その結果起きた失敗は不可逆的に自分のせいとなってしまいます。
でも、なにもしないでおけば、まだこれから投資する可能性も、ワクチンを受ける可能性も残っているので、「慎重に考え中なだけである」「まだ失敗したと決まったわけではない」と自分の判断の責任を問われる場面を避ける(永遠に先延ばしする)ことができるのです。
たとえば、今、株価がすごく上がっていますが、全資金を銀行に預金していた人の中で、「投資せず保留しているという判断の失敗は自分のせいだ」と本気で頭を抱えている人は極めて少ないと思います[2]多少恨めしくは思ってるかもしれませんが。
逆に、主体的に、株価が下がると損をするような「売りポジション」を取ってしまった人は、自分の判断ミスの責任を自分自身で心の底から問い詰めていることでしょう。
「何もしないこと」の責任や失敗が軽視されすぎでは
結局のところ、人がなぜ「ゼロ責任志向」になってしまうかと言えば、おそらくは、自分の正当性と有能性を保っていたい、信じていたい、という人の特性なのだと思います。
つまり、「自分のせいで悪いことが起きた」「自分のミスで悪い結果になった」ということをとにかく避けたがるのが人というものなのではないでしょうか。
その「ゼロ責任志向」の気持ちが、結果として、投資もしたくないし、ワクチンも打ちたくない、という一見「ゼロリスク志向」に見える行動に表れているのだと感じます。
ただ、本当は「何もしないこと」というのも、まぎれもない「一つの行動の選択」だと思うんですよね。
なのに「何もしないこと」によって起きた「悪い結果」というのは因果関係が見立たないために、その「悪いこと」の責任や失敗から逃れやすいという構造的問題があります。
あまりにも「何かをしたこと」による悪い結果ばかりが取りざたされて、「何もしないこと」の責任や失敗が軽視されるのであれば、「ゼロ責任志向」の私たちがついつい「主体的には何もしないし保留し続ける」ようになるのは当然の帰結でしょう。
もう少し、「何もしないこと」の責任や失敗、そしてそのリスクも注目されてもよいんじゃないかと江草は思います。
以上です。ご清読ありがとうございました。
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