藤井聡、木村盛世共著の『ゼロコロナという病』読みました。
amazonセールを物色していたら、売り上げ上位だったので気になってふとポチってみたのです。
今回はこちらの読書感想文を記していきます。
総評
両氏の対談形式で進む文体で、話し言葉なのもあり読みやすく、2時間程度で軽く読める本です。
テーマはタイトルから分かる通り「新型コロナウイルス感染症」についてです。
しばしば聞かれる「ゼロコロナ」戦略に対し、両氏が歯に衣着せぬ物言いで強く批判されています。
もしそんな冷静な議論ができなければ、どれだけワクチンが普及し、重症者数が大幅に抑止されようとも、僅かな感染拡大が確認されるだけでこれからも何度も自粛要請が繰り返されることとなるでしょう。それだけはなんとしても避けねばならない───本書はそういう願いを込めて、出版するものです。
藤井聡;木村盛世.ゼロコロナという病(Kindleの位置No.47-50).産経新聞出版.Kindle版.
実際、両氏の主張にも理がないわけでもありません。
似た言葉として「ゼロリスク」信仰がよく批判されるのと同様に、「ゼロコロナ」を目標にするのは無理筋であるという批判は当然出てくるべきと思います。
私たちは「ゼロコロナ」を目指すべきなのか、そもそもそれは実現可能なのかどうか、というのは議論すべき喫緊の課題であることは同意します。
ただ、肝心の両氏の論が粗すぎるために、全体として説得力を欠いた本になってしまっています。
また、本書では人格攻撃的な言説が多々見られることも問題でしょう。
たとえば、今回のコロナ禍で時の人となった西浦博氏、尾身茂氏、岩田健太郎氏などに対し、明確に名を挙げてかなり批判的な言説がなされています。
しかもそれを煽っているのが、あろうことか専門家と称する人たち。2020年2月、3月時点で恐怖を煽った人たちが、この一年間得られた事実データをほとんど参照しないまま、全く同じような論調でずっとコロナの脅威を喧伝し続けているようにしか見えません。
代表的な方々の名前を挙げれば、厚生労働省のクラスター対策班のメンバーで、「8割おじさん」で知られる西浦博京都大学教授、政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会の尾身茂会長、あるいは2020年にクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス号」での日本の対応を全世界に公開した岩田健太郎神戸大学教授らです。
彼らは、一般の人々が持つ恐怖心や「なんか怖い」という空気を忖度して、それらしいデータを出し、恐怖を煽ってきたようにしか思えないんです。
藤井聡;木村盛世.ゼロコロナという病(Kindleの位置No.137-144).産経新聞出版.Kindle版.
もちろん、それらの批判に妥当な根拠があればまだ許されるかもしれません。
でも、どうもこのあたりの論拠も弱いまま「決めつけ」での発言が目立つように思います。
本書も部分的にはけっこう大事な問題提起もされてはいるだけに、このあたりが残念に感じました。
以下、個別項目についてコメントを記していきます。
イマイチな点
まず、本書のイマイチな点を挙げていきます。
メインの主張の根拠が弱すぎる
一番致命的なのが両氏のメインの主張である「ゼロコロナ」批判の根拠が弱すぎることです。
藤井氏は「自粛と感染防止の関連性がないこと」を、木村氏は「コロナは風邪ウイルスの一種であること」を根拠に、「ゼロコロナ」を目指して自粛を厳にすることを批判しています。
しかし、この根拠がどうにも納得しがたいレベルに留まっているのです。
これで「自粛と感染者数減少の関連性がない」と言える?
まず、藤井氏の主張から。
藤井氏は緊急事態宣言の前から感染者数が減っていることをもって、緊急事態宣言を出すことの無意味さを指摘し、ひいては自粛を促すことへの批判を展開していきます。
いずれにしても、時間差をしっかり考えた上で「感染日」を想定し、その上で宣言効果を確認すると、毎回毎回、次のような実態が見えてくるんです。一回目の時も二回目の時も、そして三回目の時も、いずれも「感染日」ベースで見ると宣言なんか出す「前」から感染者数が減り始めていて、ピークアウトした「後」で、宣言が出されているんです。毎回毎回このパターン。ってことはつまり、感染者数が減っていくようになるのは、緊急事態宣言を出したことが原因じゃないんです! 宣言なんかとは無関係に、「勝手に」「自然に」感染者数は減っていく、っていうのが、日本のコロナの感染拡大・収束パターンなんです。
藤井聡;木村盛世.ゼロコロナという病(Kindleの位置No.397-403).産経新聞出版.Kindle版.
この流れで藤井氏が引き合いに出すのが下に引用する(図4)です。

しかし、藤井氏には申し訳ないのですが、この図は「自粛が感染防止に意味がない」どころか、逆に「自粛が感染防止に役立ってる」ように見える人が多いのではないでしょうか。
なにせ3月後半から移動量が減るのに沿って感染者数が減ってるわけですから、これでどうして「自粛が無意味」という結論になるのかわかりません。[1]本来、感染者数は指数関数的に増えることを考えると、増加の加速度が落ちてるだけでも減速効果があると見ることもできそうですし
もちろん、だからといって「自粛が有効である」とも断定できないのは確かです。背景因子が色々考えられるわけですから、そこは慎重な吟味が必要でしょう。
しかしながら、この図を見て「自粛が無効である」と断定する方がよほど不自然ではないでしょうか。
また藤井氏の「緊急事態宣言を出す前にピークアウトしているから宣言は無意味だ」という主張も、妥当とは言い難いです。
なぜなら、みなさんご存知の通り、「緊急事態宣言」は「緊急」という名前とは裏腹に、「出そうか出すまいか」みたいな議論を時間をかけて散々やって、ようやく「では○月○日に緊急事態宣言を出します」と予告するものだからです。
つまり、緊急事態宣言が実際に発効する瞬間以前に、「緊急事態宣言を出さなきゃいけないぐらいの状況」というメッセージがこれでもかと世間に向けて発せられるわけで、宣言前に否応なしにすでに人々の緊張感は高められているわけです。
ですから、宣言前にピークアウトするとしても別に矛盾はありません。
かといって、「出す出す」と言いつつ急遽「緊急事態宣言を出さない」とすれば、それこそ「狼少年」で、人々が納得しないでしょうから、宣言を出す意味はやはりあると言えるのではないでしょうか。
また、他国との比較した論も粗いと感じます。
死者数の推移で見れば、日本と台湾・韓国の差なんて、欧米との差と比較すれば微々たるものなのに、「自粛」レベルは全く違う。日本人だけが過剰にコロナに反応して、強烈に「自粛」したわけです。逆に言うと、韓国や台湾は、大して「自粛」なんかせずに、コロナを乗り切っているけれど、日本はコロナに騒ぎ倒して「自粛」しまくったわけです。
藤井聡;木村盛世.ゼロコロナという病(Kindleの位置No.416).産経新聞出版.Kindle版.
たとえばここに投薬せずに病気Xが治ったAさんとBさん、投薬して病気Xが治ったCさん、という3人の患者がいた時に、AさんとBさんの2人が投薬せずに治ったからといって、Cさんに投薬することが無意味だったとは言えないでしょう。
それこそ、AさんとBさんとCさんの個別具体的な患者特性(patient characteristics)を詳細に分析して初めて言えることです。
もっとも、現実社会では明確な対照研究ができないので、強い結論を出すのは非常に難しくなります。
少なくとも、同様の理屈で、台湾と韓国が「自粛」しなかったからといって、日本の「自粛」が無駄だったと断じるのは拙速な結論でしかないといえます。
フランスは日本より厳しいロックダウンを実施しても、一向に感染者が減らなかった。ということは、ロックダウンはやっても意味がないんですよ。
藤井聡;木村盛世.ゼロコロナという病(Kindleの位置No.852).産経新聞出版.Kindle版.
こちらも同様に論理的妥当性を欠いてます。
フランスが「自粛」をしても効かなかったからといって、日本での「自粛」が無意味とは断定できないでしょう。
もちろん、自粛や緊急事態宣言の有効性については詳細な批判的検討がなされるべきです。
「自粛」が無意味だったと断じることができないのと同様に、「自粛」が有効であったと断じることも難しいからです。
やはり過剰な部分、無駄な部分があった可能性は十分ありえます。
そういう問題提起としては藤井氏の論も興味深いのですが、いかんせん論が粗いまま牽強付会に「自粛は無意味だ」としてしまってるので、説得力を欠いてしまっているのです。
江草は昨年にも藤井氏の記事に批判を加えたことがありますが、氏の論の甘さはその時からあまり変わってないように思います。
(参考までにその時のnote)

風邪ウイルスの一種だったらなんなのか
さて一方の木村氏です。
木村氏は本書の中で再三「新型コロナウイルスが風邪ウイルスの一種であること」を根拠に、「自粛」への批判を展開しています。
この新型コロナウイルスは、新しい風邪のウイルスであることが分かってきました。
藤井聡;木村盛世.ゼロコロナという病(Kindleの位置No.120).産経新聞出版.Kindle版.
繰り返しになりますが、新型コロナウイルスは新しいタイプの風邪です。風邪をゼロにするなんて考えは無茶苦茶です。2021年6月現在、政府の分科会は新規感染者を200人に抑えるよう言っています。日本医師会は1日100人です。この数字は、30万人に1人しか風邪をひいてはいけないという計算になります。風邪をひく人が30万人に1人しか許されない、ということになりますから、「どうかしているんではないですか」と聞きたくなります。これを日本国民が受け入れているとしたら、正常な思考回路が、恐怖のあまり働かなくなってしまったのではないか、と疑ってしまいます。
藤井聡;木村盛世.ゼロコロナという病(Kindleの位置No.231-236).産経新聞出版.Kindle版.
一見するといわゆる「コロナは風邪」論的に見えるのですが、木村氏の名誉のためにもちゃんと加えておくと「コロナはただの風邪ではない」とも木村氏は言及しています。
それにはまず、コロナについて「分かっていること」と「分からないこと」を整理する必要があります。「コロナはただの風邪、恐るるに足らず」とする人たちもいますが、私はそれはちょっと言いすぎだと思っています。
藤井聡;木村盛世.ゼロコロナという病(Kindleの位置No.818).産経新聞出版.Kindle版.
これらを鑑みて整理すると、「コロナはただの風邪ではないけれど風邪ウイルスの一種ではあるのだから、風邪をゼロにするような考えは無茶苦茶だ」というのが木村氏の主張となります。
しかし、これはやっぱり妥当ではないでしょう。
なぜなら必ずしも「同種[2]厳密には「科」のようですがのウイルスであれば同様に扱うべき」とは限らないからです。
たとえば、悪名高いエボラウイルスの中にも、致死性の高いザイールエボラウイルスというタイプと、人に無害なレストンエボラウイルスというタイプがあることが知られています。
つまり同じウイルスの一種だとしても、大きな特性の違いを持つことはあるわけです。
大きな特性の違いがあるならば、同じウイルスの一種だからといって同様の扱いをしていいとは限らないでしょう。[3] … Continue reading
つまり、「風邪ウイルスの一種だから」を根拠にできるのは、あくまで「他の同種(科)のウイルスと同じような特性である」との共通認識が示された時だけです。
しかし、木村氏自身「コロナはただの風邪ではない」と認めてしまっています。
それならば、「風邪ウイルスの一種だから」などと漠然としたまとめに頼る論ではなく、「SARS-CoV-2[4]新型コロナウイルスの正式名」は「SARS-CoV-2」として語らねばならないでしょう。
特に、これだけ社会問題化しているウイルスなのですから、このあたりの論拠にはウイルス固有の繊細な議論が不可欠に思います。
前提が不安定なために残念ながら全体的に説得力がない
このように、藤井氏、木村氏両氏とも本書における主張の最大の前提がそもそも議論が多分に残る結果となってしまっているので、本書全体が説得力を失ってしまっています。
これは非常にもったいないです。
やはり、メインの主張の礎となる最も重要な箇所だけに、もう少し頑健で丁寧な論拠の説明があるべきだったかと思います。
他にも粗い論が多数
さらにその他の細かい点でも粗い論が多々見られます。
中でも気になるのは自己矛盾してしまっている主張。いわゆる「ブーメラン」です。
他人を批判しながら、実は自分もしてしまっているというやつですね。
以下、細かいところですが問題がある箇所をいくつかピックアップしてツッコミを入れていきます。
たかだか専門家
そんな重大なこと、たかだか感染症のことしか知らない専門家が狙ってやっていいとは、僕には到底思えません。
藤井聡;木村盛世.ゼロコロナという病(Kindleの位置No.201).産経新聞出版.Kindle版.
西浦氏が8割の人流削減を要求したことについての批判ですが、それならば、藤井氏にも「たかだか公共政策論やリスク心理学しか知らない工学者」と同じ批判が言えるのではないでしょうか。
完全にすべてのことを修める人物など存在しえない以上、こうした専門分野に過度にこだわる批判方法は適切ではないでしょう。
しかも、藤井氏は他の箇所で「素人が専門家に意見してはいけない」という風潮も批判しており、態度に一貫性が感じられません。
ゼロリスク?ゼロコロナ?
2021年2月、小学校5年生が持久走の際、マスクをつけていて死亡するという痛ましい事件が起きましたが、これは「ゼロコロナ」を目指し、医療に負担をかけない、という分科会、日本医師会に踊らされている世論が生んだ悲劇だと思います。流行当初からWHO(世界保健機関) は運動時のマスク着用を禁止しています。新型コロナウイルス感染症を「ゼロ」に近づけることばかりに目を奪われると、新型コロナ重症化や死亡以上の悲劇が起こることになってしまいます。
藤井聡;木村盛世.ゼロコロナという病(Kindleの位置No.242).産経新聞出版.Kindle版.
確かにこれは痛ましい事件です。
しかし、こうした稀な悲劇[5]少なくともコロナ死亡例よりは少ないでしょうを取り上げて、あたかも「ゼロ」にしないとならないと示唆するような言説は、いわゆる「ゼロリスク」な発想であって「ゼロコロナ」の発想と、構造としては違わないのではないでしょうか。
この事件を理由に「ゼロコロナはおかしい」と言う時には、「その判断」によってまた別の悲劇が起きうることを忘れてはならないでしょう。
もちろん、こうした事件を「仕方ない」とあっさり割り切れと言ってるわけではありません。
いずれにしても悲劇が避けられないのであれば、いわゆる「トロッコ問題」のように、心を引き裂かれるような厳しく悩ましい判断が迫られることになります。
だからこそ、「ゼロコロナ」だろうと「ゼロリスク」だろうと、安易な判断をしないように、私たちは議論を丁寧に進めないといけないのです。
若者一律自粛の是非
下宿して一人で暮らしている大学生であれば、感染が命にかかわるような高齢者との接触さえ持たなければいいわけなんですから、若者全員に一律の「自粛」を課す必要はない。
藤井聡;木村盛世.ゼロコロナという病(Kindleの位置No.889).産経新聞出版.Kindle版.
必ずしもそうとは言えません。
高齢者が完全に若者に触れずに生活できるわけではありません。
たとえば、介護施設なんかがいい例ですが、高齢者の生活は、若者や、少なくとも中年層の協力なくしては成り立ちません。若者と接触せずに暮らせる高齢者ばかりではないのです。
で、若者が自粛を取りやめれば、若者同士の交流で結局高齢者と接点がある「若者」に感染が至る可能性はあるわけです。
藤井氏の主張もひとつの意見としてはありえますが、「若者の自粛の必要はない」と言えるかはけっこう難しいところだと思います。
オリンピックボランティア医師がいるなら医師はヒマ?
ところが、オリンピックのボランティアには、多くの医師が集まったのですよ。大会期間中に競技会場で働くボランティアのスポーツ医師を200人程度確保しようとしたら、約280人が応募していることが2021年5月 11 日に分かったと読売新聞が報じました。つまり時間的余裕がある人が多いということだと思います。
藤井聡;木村盛世.ゼロコロナという病(Kindleの位置No.1761).産経新聞出版.Kindle版.
「実は暇なくせにコロナ診療に対応する医師が少ない」と批判してる文脈ですが、さすがにスポーツ医師とコロナ対応医師は診療内容が異なりすぎるので無理筋な批判でしょう。
ダイアモンド・プリンセス号の論文がない?
ところが、日本は「ダイヤモンド・プリンセス」に関する論文を一つも書いていません。もし、諸外国なら『ランセット』『ネイチャー』などの一流誌にシリーズで論文を書いていたはずです。検証は後の人たちがウイルスと戦っていくために絶対必要なわけですよ。それを後世に残さないのは他国ではあり得ないのです。
藤井聡;木村盛世.ゼロコロナという病(Kindleの位置No.1790).産経新聞出版.Kindle版.
あったような気がして、pubmed検索したらやっぱりありました。
Lancet本誌じゃないからダメってことでしょうか。[6]この一例見つけて満足したので、Lancetで皆無かどうかまでは深追いしてません
ダイアモンド・プリンセス号の岩田氏のYouTube告発批判
感染症の専門医なら、そんなことをしていないで、データを取り、論文を書くことが重要と思います。それが感染症専門医のやるべきことです。騒ぐのは誰でもできるじゃないですか。
藤井聡;木村盛世.ゼロコロナという病(Kindleの位置No.1797).産経新聞出版.Kindle版.
しかし、こんなことを言う前に、感染症の専門医で、「ダイヤモンド・プリンセス」に乗り込んだのであれば、データくらいちゃんと取りなさい、という話なのです。
藤井聡;木村盛世.ゼロコロナという病(Kindleの位置No.1805).産経新聞出版.Kindle版.
岩田先生を一躍有名にした「ダイアモンド・プリンセス号」の告発動画についての批判です。
データもなにも「追い出された」という告発なのですから、追い出された岩田先生に何ができたと言うのでしょうか。
しかも、
そのことを伝えるために、コロナ流行開始時から書籍や雑誌、テレビやラジオ、ネットでも(僕が個人的には、字数が制限されすぎて誤解されることは100万%確実だからっていうことが理由で長らく忌み嫌ってきた) ツイッターまで使って、連日情報を発信してきた。
藤井聡;木村盛世.ゼロコロナという病(Kindleの位置No.2157).産経新聞出版.Kindle版.
と、本書内でも別の箇所で藤井氏が自身のSNS発信を正当化されているのですから、岩田先生が公益のためにYouTubeで発信する決断をされたことは批判できないでしょう。
認知的不協和に陥ってないでしょうか
他にもまだまだおかしい箇所はありましたが、今回はこの辺にしておきます。
しかしここまで論が甘いところがあると、
これを「認知的不協和」と言います。自分の言っていることが嘘だとすると具合が悪いので、「自分の主張こそ真実なんだ」と思い込み、認知を形成するようになるんですよ。
藤井聡;木村盛世.ゼロコロナという病(Kindleの位置No.378-379).産経新聞出版.Kindle版.
せっかくこう書かれてるわけですから、ご自身たちも「認知的不協和」に陥ってないか、念のため確認はされてみてもいいのではないでしょうか。
良かった点
と、ここまで多数の批判を加えていてなんなのですが、本書にはうなずかされる主張も多々ありました。
それをいくつか紹介していきます。
メディアの報道のあり方の批判
本書ではワイドショーを始めとしたメディアの報道に対して「危機を煽っている」と何度も強く批判をされています。
多くの医療従事者の間では「ワクチン不安を煽っている」として報道のあり方がやり玉に挙がることが多いので、ちょっと向きは異なるのですが、メディアの報道に問題があるという点では地続きでしょう。
今回のコロナ禍で、こうした専門知と社会の存亡が関わる問題に関しての報道のあり方に様々な課題が出てきたことは間違いありませんし、本書の問題提起はごもっともであると思います。
有事に対応できない政府の批判
「え、あと一年以上もこの状況が続くんですか」「2週間がヤマだと言ったのに、あれは嘘だったのか」と思う人も出てきます。こうしたムラがあると、「ヤマが去るまで頑張ろう」と思っていた人が、再度の宣言で心が折れてしまったり、逆に政府の警戒のアナウンスがオオカミ少年的にとらえられ、「またか」「もういいだろう」と抑圧に慣れてしまうこともありますから、かじ取りは非常に難しい。
藤井聡;木村盛世.ゼロコロナという病(Kindleの位置No.620).産経新聞出版.Kindle版.
行きあたりばったりの短期的視点の施策ばかりで、長期的視点に欠けた政府対応に対しての批判ももっともだと感じました。
オリンピックをめぐるドタバタが象徴的ですが、ころころと政府の言うことやることが変わる事が多く、国民の不信感を呼んでるのは間違いありません。
「自粛」を呼びかけておきながら五輪は強行する矛盾した姿勢への批判も、多くの人が共感するところでしょう。
また、藤井氏、木村氏両氏の実体験から来る政府や官僚に対する批判の箇所は貴重な指摘に感じました。
両氏の指摘の通り、難しい「有事」に対する日本政府の対応力の無さは、喫緊の課題と感じます。
公衆衛生は感染症対策だけではない
「コロナ対応の問題は経済か、感染防止かの二択ではない。経済は公衆衛生に含まれるんだ」というお話です。経済苦で命を落とす人、長引く自粛で精神疾患に至ってしまう人、すべてのリスクと感染リスクを見渡しながら、対策を決めていくのが本来の公衆衛生だとおっしゃるわけです。特定のリスクだけ考えるのは公衆衛生の観点を欠いた、単なる「感染症対策」に過ぎないと。
藤井聡;木村盛世.ゼロコロナという病(Kindleの位置No.628).産経新聞出版.Kindle版.
これは全くその通りで、仰るとおり感染症のリスクだけ考えるのは「公衆衛生」としては不十分と言えます。考えねばならないのは、経済のこともそうですし、倫理のこともそうでしょう。
「公衆」すなわち「社会」とは複雑怪奇だからこそ、公衆衛生は難しいのです。
にもかかわらず、「感染症コントロール」の側面だけつい見てしまってるような言説は、医療従事者にも少なくないので、そうした一面的な意見に対する両氏の批判は重要なご指摘だと思います。
しかし一方で、民間の医師を取りまとめる日本医師会の会長で、病床数を確保して「分母」を増やすことができる立場にいる中川氏が、自らは努力をせず、「医療崩壊」という言葉で国民を脅し、「自粛」を強要する。「自粛」をしない国民に対して「医療が逼迫する。コロナ患者だけでなく、他の病気で治療を必要としている人たちの命も危険にさらしている。どうしてくれるんだ」と「上から目線」で恫喝する。 「我々は崇高な仕事をしている。それ以外の国民は黙って我慢してろ」と言わんばかりの、この特権意識はどこからくるのか。
藤井聡;木村盛世.ゼロコロナという病(Kindleの位置No.1264).産経新聞出版.Kindle版.
とくに、この日本医師会長の中川氏の言動の傲慢さについての批判も全くその通りで、これこそ「感染症対策」しか見ていない医師の一面的な視点を表してるように思います。
公衆衛生において、医師や医療はもちろん中心的な位置を占めるものではありますが、それでも「全て」ではありません。
この謙虚さを医療者は決して忘れてはならないでしょう。
政府の経済施策や補助金の不足への批判
政府の経済施策や医療への補助の不足に対する批判も賛同します。
長いので申し訳ないですが、本書の中で最も大事な指摘の一つと思うので引用します。
「命か経済か」という二者択一を迫って、「カネの話の経済なんかより、命が大事だろ! だから自粛シロ!」なんていう風潮に乗っかった「自粛警察」がいましたが、実は経済にも命がかかっているんです。同じ命である以上、コロナで死ぬか、自殺で死ぬかは当人には区別はありません。コロナによる死を抑えるために自殺者が増えるようなことはあってはならない。だからせめて政府が直接手を伸ばせる経済対策、例えば補償の提供や消費税の減税に関しては、どれだけやってもやりすぎということはない、と警鐘を鳴らしていましたが、政府は一向にこういう意見を聞き届けない。給付金は 10 万円を一回配っただけ。消費税減税なんて全然やらない。飲食店の休業要請に伴う補償金だって、全然足りてない……。こんなお寒い補償状況じゃ、「とにかく自粛シロ!」なんていう話は「死ね」って言われているに等しいっていう状況の人が、今、日本中にたくさんいる。しかも一年以上経ってみて、コロナの被害状況もだいたい分かってきた以上、「過度な自粛をやめて、自粛の水準をもっと適正化してできる範囲で経済や社会を動かせ!」という意見は暴論でも何でもない。
藤井聡;木村盛世.ゼロコロナという病(Kindleの位置No.912).産経新聞出版.Kindle版.
確かに本書の主張の根拠は不十分な面がありましたが、この主張はとても大事だと思います。
結局の所、なにも補償もない中で「自粛しろ」というのは「死ね」と言ってるのと同義なのは確かです。
コロナがいかに危険であろうとも[7] … Continue reading、そうした経済的な補助が足りないならばどこかで打って出るしかない。
それはやはり否めない現実だと思います。
合わせて、コロナに対応する医療キャパシティが拡大しない原因を政府の補助の不足にあるとする指摘も賛同です。
しかしそうした問題を放置したのは政府ですよ。コロナ対応をすれば一般の患者が減って経営が苦しくなる、その上、コロナ感染症が小康状態になれば患者が少なくなり、圧倒的な経営赤字となる、っていう状況は去年(2020年) からその筋では誰もが知る周知の事実だったのです。だから政府は「コロナ対応に協力してくれてありがとう」と補助金を出し、むしろ協力した方が採算が上がるような制度をつくっておかなければならなかったのです。最初はともかく、感染が少し下火になっている間に制度だけでも作っておけば、秋から冬、冬から春にかけての感染者増の時期を乗り切れたはずです。
藤井聡;木村盛世.ゼロコロナという病(Kindleの位置No.1345).産経新聞出版.Kindle版.
もちろんお金だけ配ればなんとかなるというものでもないのですが、コロナ患者診療よりもワクチン接種バイトの待遇がはるかに良い現状がバランスを欠いてるのは確かでしょう。
某大学病院もコロナ対応の設備を整えるためにクラウドファンディングを行っていたりしました。
そんな大病院がわざわざ民間から寄付を募らないとコロナ診療が回らないようでは、おかしいでしょう。
以前から医療キャパシティの拡大が不十分であるという批判は多く聞かれますが、医療機関だって無い袖は振れないわけですから、政府からの医療機関への補助が十分であったかは大事な論点だと思います。
他にも良かった点
他にも、本書では
- 若者の大学生活の不遇への同情
- 死との向き合い方
など、賛同できたり、考えさせられる記述は少なくありませんでした。
ところどころ、こうして良いことをおっしゃってるところはあるだけに、つくづくメインの論での甘さがもったいないなと感じます。
【まとめ】リスク判断をどうすり合わせるかが課題~
まとめます。
藤井氏、木村氏の両氏は「厳格な自粛が続くこと」に危機感を抱いた結果、本書で「そこまでコロナは危険ではないので厳格な自粛をする必要はない」と示そうと試みられたのだと思います。
しかし、残念ながら論証の妥当性が不十分なため、その試みは課題が残る結果だと感じました。
ただ、結局の所、こうした「リスク判断」を社会でどうすり合わせるかというのは難しいものです。
なぜなら、人それぞれで「リスク判断」はどうしたって異なってしまうからです。
だから別に藤井氏や木村氏の「コロナは危険ではない」という感覚が誤りだというわけではありません。
よく言う、コップに半分入ってる水を「多い」と見るか「少ない」と見るかは人それぞれというやつですね。
とくに、「政府からの経済的補助や補償がない」という条件を所与と考えるとすれば、「厳格な自粛」を求める「ゼロコロナ戦略」を「かえって危険」と批判する両氏の主張も一理あると思うのです。
また「厳格な自粛生活」を続けることによる人間性への脅威の指摘ももっともでしょう。
ただ、もちろん「ゼロコロナ戦略」を支持している方々も、こうした面を無視しているわけではないと思うのです。
経済への影響、人間的生活の喪失を鑑みても、今を乗り越えるしか社会は存続できないと考えてるからこその発想なのではないでしょうか。
だから、つまるところやっぱり今回の危機の「リスク判断」の見積もりをどうすり合わせるかの課題に帰着せざるを得ないように思います。
それに必要なことは、地味ではありますが、あくまで丁寧な対話と議論でしかないと江草は思うのです。
どうしたって人はそれぞれ立場や状況が違うので、見えてるものが異なります。
その上ですり合わせを行うには、とにかくコミュニケーションするしかないはずです。
いまだにコロナのリスク判断で互いに人格攻撃をするほど人々が割れてるとするならば、それはコミュニケーションが十分ではないのだと思います。
というわけで。
本書『ゼロコロナという病』は欠点は多数あるものの、昨今の時事ニュースは捉えている新鮮な本ですし、どちらかというと主流派ではない意見を知ることができる点で、「ゼロコロナ」を支持している人も支持していない人もリスクコミュニケーションのきっかけとして読むには面白い一冊ではあると思います。
以上です。ご清読ありがとうございました。

脚注
↑1 | 本来、感染者数は指数関数的に増えることを考えると、増加の加速度が落ちてるだけでも減速効果があると見ることもできそうですし |
---|---|
↑2 | 厳密には「科」のようですが |
↑3 | もっとも、たとえ人に無害だからとはいえ、いつ毒性を持つかわからないので、レストンエボラウイルスを適当に扱っていいわけではないでしょうけれど |
↑4 | 新型コロナウイルスの正式名 |
↑5 | 少なくともコロナ死亡例よりは少ないでしょう |
↑6 | この一例見つけて満足したので、Lancetで皆無かどうかまでは深追いしてません |
↑7 | ここをあくまで「コロナはそこまで危険ではない」とするのが本書のメインの論でしたが、たとえその論がなくても――すなわち「コロナはけっこう危険」と前提したとしても――生活が立ち行かないなら動かざるをえないわけなので、この引用箇所の主張については理が通るのです |
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