> [!NOTE] 過去ブログ記事のアーカイブです 『**オーシャンまなぶ**』というかつて一世を風靡したWebマンガがあります。 [戸塚たくす作品集](https://t-taks.com/) 物理的な暴力を司るバイオルと、言葉の暴力を司るクオラの2人の神が対立している世界。 クオラが支配する島を舞台に、言葉を操って戦う戦士「ウィルコンバッター」たちを描いた、いわば「口喧嘩バトルマンガ」です。 面白いのが、言葉の神クオラが支配する島では物理的な暴力は無効になる一方で、言葉の暴力によって精神が傷つくとそのダメージ分肉体に傷やアザが出現し、なんなら血反吐を吐いたりする、という設定です。 言葉の暴力が肉体的なダメージに変換されるわけですね。 未完のまま更新が止まっており残念ですが、それでもかなり面白い名作です。 眞子さまがPTSDになられたという報道を聞いて、不意に思い起こされたのがこの『オーシャンまなぶ』の「クオラの世界」でした。 [眞子さまが複雑性PTSD状態に 宮内庁公表 医師「結婚巡る誹謗中傷で」 | 毎日新聞](https://mainichi.jp/articles/20211001/k00/00m/040/111000c) 小室圭氏との結婚を巡る騒動の中、押し寄せる誹謗中傷に心に傷を負われたとのこと。 非常に痛ましい話です。 物理的な暴力を世の中で見聞きすることはだいぶ減りました。 昔は横行していた体罰も今ではおいそれとできませんし、かつてはマンガで描かれることが多かった不良生徒同士の抗争なんて今ではおとぎ話のようです。 暴力の象徴たるあのヤクザも社会からの締め付けによりどんどん人口を減らしていると聞きます。 もちろん、まだ完全に消滅したわけではないですが、物理的な暴力の世界はかなり縮小したとは言えるでしょう。 しかし、**私たちの社会は、物理的な暴力が締め出された一方で、逆に言葉の暴力は急拡大しているように思われます。** その象徴が眞子さまです。 なんなら、今回の眞子さまのPTSD報道の記事そのものにさえ、心無い誹謗中傷のコメントがついてる始末です。 こんな悲しい意味で「日本国民の象徴」の役目を果たしていただきたくはなかったのですが。 眞子さまの話に限らず、ネットを開けば、誰かを非難したり、誹謗中傷するコメントを否応なしに目にします。 物理的な暴力はもはやイメージさえしにくくなりましたが、一方で言葉の暴力は日常にあふれるようになってしまっています。 そう、**いつのまにか私たちは言葉の暴力が支配する「クオラの世界」に生きています。** いったいなぜこんなことになってしまったのでしょう。 **インターネットの発達、SNSの普及**といったものが、まずひとつ答えになるでしょうか。 確かにこれらのIT技術革新により、私たちの声の届く範囲は急拡大し、またその拡大のスピードも光ファイバーや電波を通してるだけあって音速を大幅に上回り「光速化」しています。 これらの影響があることはまず間違いないでしょう。 しかし、さらに根本的な要因として、**「言葉には作用反作用の法則が成り立たない**こと」があるように思うのです。 物理的な暴力であれば、暴力を振るった側の拳にも相手に与えた打撃の感触や痛みが残ります。 自分の力によって相手の肉体に刻まれた傷や出血の痕を見れば、自分が行った暴力の効果がおのずとフィードバックされます。 自分の暴力がどれほどのものであったか、加害者側も実感できる仕組みになってます。 でも、言葉ではこうした「反作用」が得られません。 言葉の暴力は加害者側に実感が残らないのです。 加害者側が感じ取れるのは、せいぜいが自身の声帯の震えや、自身が言葉を紡いだキーボードの打鍵音、スマホ画面を人差し指でタップする時のなめらかな触感程度でしょう。 相手に届いた暴力の効果が「反作用」として戻ってこない。 自分の言葉が相手の心をどれだけ傷つけたか、さっぱり分からない。 これによって容易にやりすぎますし、そもそも暴力を振るったことさえも気づきにくい仕組みになっています。 また、厄介なのが、いかに正当な批判や抗議であっても言葉は相手を傷つけうるのに、**「どこからが正当な言葉の力の行使で、どこからが暴力なのか」の基準が定めにくい**ことです。 もちろんグレーゾーンはあるものの、物理的な暴力については「これ以上は暴力だ」という基準にある程度コンセンサスがあります。 人を刺したり、殴ったり、首をしめたりといった行為を暴力と思わない人はまずいないでしょう。 しかし、言葉の暴力は加害者本人だけでなく、第三者にさえも実感を伴う可視化がされないため、客観的な基準が作りにくくなっています。 たとえ言葉の暴力によって追い詰められた被害者が自死を選んだとしても、「本当にそれが加害者側の言葉のせいか」という因果関係が明確には証明できないことがしばしばです。 逆に、被害者側が過度に精神的ダメージを誇張している可能性を疑うこともできてしまいますし、場合によっては本当にそれを疑わないといけないこともあります。 だからこそ、毎度「これは正当な批判である」「いやそれは言いすぎだ、暴力だ」と揉めるのでしょう。 その意味では、反作用が実感できない私たちの「クオラの世界」よりも、言葉の暴力のダメージが肉体のダメージとして可視化される『オーシャンまなぶ』の「クオラの世界」の方が、もしかすると良心的なのかもしれません。 いずれにせよ、**私たちの社会は物理的な暴力から解放されつつある一方で、言葉の暴力と対峙せねばならない状況になっています。** 残酷な「クオラの世界」を私たちはどう生き抜くのか。 このままでは、悲しいかな、各個人が否応なしに「ウィルコンバッター」にならざるを得なくなってしまいそうです。 そんな社会でいいのでしょうか。 以上です。ご清読ありがとうございました。 #バックアップ/江草令ブログ/2021年/10月