おはようこんにちはこんばんは、江草です。
今日は、「白饅頭氏を巡る論争」が盛り上がってるのを見かけたので、それに関して江草の私見を記しておきます。
結論から言えば、自由主義者を自認する江草としては、白饅頭氏の支持はしないけれど、その言説は軽視できないし、異端たる彼の存在に私達は感謝し、反省しないといけないと感じます。
白饅頭氏は、noteで毎日そこそこ長文の月額制マガジンを書いている文筆家です。御田寺圭氏とも名乗ってらっしゃいます。
noteマガジンの月額料金は1000円と安くはないのですが、そこそこの購読者数を有しているらしく、ネット論客としては比較的目立ってる方と言えるでしょう。
江草もフォローさせていただいてますし、月額noteマガジンも一月課金させていただいたこともあります。
過去に氏の著書の「矛盾社会序説」も拝読しましたが、文章は上手く、読ませます。
で、氏への批判の的になってるのが、その反リベラル、反フェミニズム的な言説です。
特に「ポリティカル・コレクトネス」の押し付けに対しては一貫して批判する姿勢を示されています。
また、いわゆる「ポリコレ陣営」に対して、嘲笑的、冷笑的とも言われるコメントをよくされることも、批判の対象となっています。

江草も、そうした氏の冷笑的態度は好ましいとは考えておらず、決して支持はできません。
ただ、毎日noteで長文を書かれているなど、氏は各所で言葉を尽くして主張を記述はしているので、氏に批判したいのであれば正々堂々と氏の個々の言説に対して反論するのが正当でしょう。
もとより「ポリティカル・コレクトネス」に批判的な氏に対して、それこそ「ポリコレ的に正しくない」と人身攻撃を用いて排斥するのは、かえって氏の思う壺だと思うんですよね。
なにより、氏の主張はけっこう鋭い点を指摘している時も多いのです。
氏はとにかく主張の切り口が上手いです。
相手の甘いボールを絶対に見逃さない目ざとさがあり、確実に隙や矛盾点、盲点を突いてきます。
たとえば、先日の「オリンピッグ騒動」。
週刊誌記事の速報があがった時、ネット上では一気呵成に佐々木氏批判一色になってましたが、江草はその様子を見て「これはマズイ」と思ってたんですよね。
たとえ佐々木氏の発言に問題があったとしても、そもそもLINEのやりとりをリークさせることは「反自由主義的」なので、それを黙認したまま佐々木氏を辞任に追い込む動きに対しては、この矛盾を指摘されかねないなと。
すると、案の定、白饅頭氏もそこを問題視した記事を投稿されたわけです。
こうした氏の得意とする「カウンターパンチ」的な戦術はなかなかに手強いので甘く見てはいけません。
たとえば、いわゆるここに「正しい思想」があったとします[1]もちろん真に正しい思想なんて決まりようもないので、「」付けです。
その「正しい思想」を普及させていって、勢力を拡大し、主流派となるぐらいに力を持ってくると、どうしてもその思想をつい誇張して言ってしまう人が派閥内に出てくるんですよね。
あるいは、非主流派の人を揶揄したり、バカにしたりなんてのも出てきます。
勢力が増すと、当然そうした極端な動きが出てくるのが仕方ないところではあります。
で、実際には「正しい思想」と言えど、どうしてもある程度の盲点や弱点があったりします。
これは、自由主義の祖とも言える、JSミルも述べてるところです。
人間の場合もそうだが、政治や哲学の理論の場合も、人気がないときは目立たなかったまちがいや欠陥でも、勢力が増すと表面化する。
ミル.自由論(光文社古典新訳文庫)(p.5).光文社.Kindle版.
そして、そうした思想の弱点を放置したまま、自説を誇張して声高に言うコメントほど目立ちやすいのが今のネット社会なのはみなさま御存知の通りです。
このような「元々の思想から不用意にはみ出た極端なコメント」というのは、批判したい者からすればまさに浮いたチャンスボールです。
それを狙って撃墜するのが、白饅頭氏のカウンター戦術です。
どうしても大所帯になってくると出てくる弱点を突くので「ゲリラ戦術」にも近いところがあります。
事実としてミスを撃たれるので、痛い失点にはなってしまうのです。
だから、そもそも、本来であれば、こうした失点につながるような「甘い動き」に対しては、同志からもちゃんと指摘をしないといけないはずです。
ですが、どうも「結論が自分と同じだったらすぐ賛同してしまう風潮」が世の中にはないでしょうか。
結論や価値観が自分と同じだからといっても、その論証や前提が適切でない場合には、すぐに賛同せず、丁寧に批判し、議論をすべきでしょう。
それをせずに、すぐに「都合のいい結論」に飛びついて賛同し、味方の甘いボールを残したままだから、氏のような批判者に刈り取られることになるのです。
言ってみれば揚げ足取りではあるわけですが、揚げ足をわざわざ取ってくれるのは、しばしば暴走しがちな「正義」の反省材料としての意義はあるように思います。
そういう意味では、自分たちが気づいてなかった問題点を指摘してくれる点で、氏の存在には感謝すらしないといけないとも言えるのです。
にもかかわらず、氏に対して人身攻撃を行い、「なんで野放しにされるのか」などのように排斥に出るのは、特にリベラルのような自由主義の立場からすると相当な悪手です。
これまた、江草が勝手に言ってるのではなくて、JSミルも同様に語ってるところです。
したがって、反対意見がなければ、無理をしてでもつくりだす必要があるけれども、それはなかなかむずかしい。だから、反対意見が向こうから飛び込んできたときに、それを無視するのは、愚かしいというより最悪の行為だろう。
もしも常識的な意見に反対する人がいたら、あるいは、法律や世論が許せばそうしたいと思っている人がいたら、われわれはそういう人がいることに感謝しよう。そして、心を開いて彼らの言うことを聞こう。自分たちの信念を確かなもの、力強いものにしたいのであれば、われわれがひどく苦労してやらねばならない作業を、かわりにやってくれる人がいることを喜ぼう。
ミル.自由論(光文社古典新訳文庫).光文社.Kindle版.
一つの意見だけで真理の全体が説明されることはないから、反対派を含めた多様な発言に耳を傾けることが大事だという文脈の部分です。
さらに、ミルはこうも言っています。
真理の一部分にすぎないものを、真理の全体だと主張し、ほかの真理を絶対に認めないような姿勢にたいしては、断固として抗議しなければならない。抗議する側が、反動で、逆に不公正になることもあろう。この場合の不公正は、相手側の不公正と同様に嘆かわしいものであるが、しかし、それは許容されるべきものである。
キリスト教徒が、異教徒にむかって、キリスト教にたいして公平であれ、と説きたいのであれば、彼らも異教にたいして公平でなければならない。
ミル.自由論(光文社古典新訳文庫).光文社.Kindle版.
※ここは「キリスト教」が「主流派の意見の例」として示されてます[2]現代日本人の視点からすると唐突に思われるかもしれませんが、19世紀のイギリスの本ですので。
つまり、これに従えば、いわゆる「ポリティカル・コレクトネス」が行き過ぎて、異端の意見を絶対に認めないような排斥的な動きに対しては断固抗議すべきとなるでしょう。
確かに昔の偉人ではありますが、くしくも自由主義の祖たるミルの言葉については、リベラル派であるならば重く受け止める必要があるのではないでしょうか。
ですので、白饅頭氏のような批判者に対し、リベラル派が忌々しく感じる気持ちは分かるのですが、本当に「自陣営のやり過ぎたポイント」を責めてくる以上は、目の上のたんこぶとして付き合わざるを得ないのではないでしょうか。
もちろんこれは「寛容のパラドックス」として知られる厄介な問題につながり、一筋縄ではいかないところなのは承知しています[3]氏も分かっててそういう責めにくい立場を採っていると思います。
しかし、そのような難しい厄介なポイントだからこそ、むやみに突撃するのは避け、丁寧に走破する必要があるように思うのです。
それに、弱点を突いてくる彼らをただ排斥したところで、弱点は残ったままです。
弱点をまず着実に自省して、可能な限りより適切な主張になるように丁寧に思考し、議論し、改善していくことが、社会を良くするためには何よりも大事なのではないでしょうか。
以上です。ご清読ありがとうございました。
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