昨日、無事(?)閉会式も終了し、オリンピックを総括する記事がちょこちょこ出てきているようです。
今回、江草もこのトレンドに乗っかってみます。
多くの総括は「このオリンピックは成功であったか、あるいは失敗であったか」という点に焦点を当てているようですが、ここではこうした成否については議論しません。なぜなら、何をもって「成功」とするか「失敗」とするかの共通の基準が確立されてない中では成否の判断は不可能ですから。
ただ、そういう「成功か失敗か」というデジタル的な”which”の問いではなく、「東京オリンピックとは何であったか」という曖昧な”what”の問いなら語りえるでしょう。
そして、これこそがこの波乱のイベントにふさわしい総括になると思うのです。
さて、では東京オリンピック2020とは何であったか。
それは「ハレとケガレが同居した歴史的経験」であったと江草は考えます。
冠婚葬祭の「祭」の意義
非日常を象徴する四字熟語「冠婚葬祭」。
この中で「祭」は近年になって存在感が薄れてきています。いわば「四天王の中で最弱」です。
「祭」というのはコミュニティ内の連帯を深めるための儀式です。古今東西に多様な祭りが存在していることから分かるように、人類史において祭りは大きな意義を持っていました。
しかし、個人主義化が進んだ今日では、コミュニティの解体に伴ってその基盤そのものが揺らいでしまっているようです。
たとえば、地域の町内会主催のお祭りも、町内会そのものが弱体化する中で存続そのものに苦慮されています。
また、たとえ各地の名祭であっても、観光資源としての役割の方が目立ってきていて本来の祭りの儀式として参加したり、意味付けを行ってる人は少ないでしょう。
「祭」はコミュニティの連帯の象徴として、世相をよく反映していると言えます。
オリンピックという世界的大祭が出会った障壁
そういう意味で言えばオリンピックは世界規模の大祭です。世界中の無数の国が参加するのもさることながら、4年に一度という稀な開催間隔がその神秘性を高めています。これだけの存在感のある祭りは他に類を見ないでしょう。
しかし、今回のオリンピックで問題となったのはみなさんご承知の通り「コロナ禍」という災いの存在です。
病と死を運ぶ災害である新型コロナウイルスは、いわば「葬」の象徴です。「ケガレ」とも「喪」とも言えるかもしれません。
つまりオリンピックという「祭」が、コロナ禍という「葬」と出会ってしまったわけです。
この衝突が今回のオリンピックの最大の障壁だったと言えます。
すなわち、世界的な「ハレ」と「ケガレ」が同時に登場するという人類史上まれに見る珍事が、今回の東京オリンピックなのです。
人はハレとケガレを同居させないように徹底してる
もともと人は「ハレ」の行事と「ケガレ」の行事を同時に行わないように徹底しています。
たとえば、喪中には結婚式への参列や、年賀状の授受は避けるのがマナーとされていますよね。[1] … Continue reading
あくまで、喜びながら悲しむことはできない。
人はそう割り切って生きてきたところがあります。
ひたすらに「ハレ」と「ケガレ」の同居を徹底的に避けるのが古今東西見られる人の習性と言えます。
ハレとケガレとオリンピック
しかし、そうした人類の想いをあざわらうかのようにオリンピックにタイミングを合わせてやってきたのが新型コロナウイルスという災厄でした。
――お葬式をやってる最中に祭りを開催できるのか。
そういう「ハレ」と「ケガレ」のジレンマが人類に――とくに日本国民に――突きつけられたイベントが今回のコロナ禍の五輪でした。
もっとも、オリンピックそのものもこの「ハレ」と「ケガレ」のジレンマを利用してきた側面があります。
というのは、かの有名な「オリンピック開催中は戦争を休戦する」という平和思想です。
オリンピックという「ハレ」の祭りの間は、「ケガレ」たる戦争は行えないし、行うべきではないというのがその本質と見ることができます。
つまり、オリンピックという「ハレ」の行事を用意することによって、「ケガレ」を避けることを実現したのがオリンピックのひとつの大きな狙いだったわけです。
逆に休戦が実現しえなかった大戦時にはオリンピックの方が中止に追い込まれてることからも、この「ハレ」と「ケガレ」の同居ができないという人間社会の基本原則を見ることができるでしょう。
「ハレとケガレの同居」を容認した歴史的瞬間
しかし、今回のコロナ禍はオリンピックにとって大きな難敵でした。
なぜなら、戦争は相手がまだ人間でしたが、コロナ禍は相手がただのウイルスなので「ハレとケガレを同居させたくない」という人間心理なんてハナから無視されるからです。
祭りがあるからといって進撃を止めない相手に対し、あくまで「ハレとケガレの同居を避ける」という原則を維持するならば、過去の大戦時がそうであったようにオリンピックの方が引くしかないはずでした。
しかしこのあたりは、商業五輪化が進んだためなのかどうかわかりませんが、オリンピックはもはや”too big to fail(大きすぎてつぶせない)”になってしまっていて、コロナ禍にかかわらずGOサインが出たわけです。
これにより世界的な「ハレ」と「ケガレ」が同居するという前代未聞の事態に日本国民は放り込まれることになったわけです。
「ハレとケガレの同居」の矛盾に人々は耐えられない
人類が徹底して避けていた「ハレとケガレの同居」です。
いざ「受け入れろ」と言われても、簡単にできることではありません。
この相反した矛盾を抱えきれない結果、各所で多発した興味深い現象が「五輪開催の是非を巡る衝突」と、「現実認識そのものの改変」でしょう。
とにかく矛盾に耐えられないなら、「オリンピック」と「コロナ禍」を対等に扱うのではなく、どちらかを優位に置くことにすれば矛盾は解消されます。
それは、時には自分の現実認識を歪めてでも。
たとえば、
「コロナはたいしたことないがオリンピックは大事だからオリンピックを開催すべきだ」
「オリンピックはたいした意味はないがコロナは現実の脅威だからオリンピックは中止すべきだ」
とか。
なんとなく聞き覚えがある両論ですよね。
こうした「矛盾の解消」の意図こそが、極端な開催賛成派、反対派ともに共通していた背景心理と見ることができるでしょう。
先日、「オリンピックはパラレルワールドみたいなもの」という五輪関係者のコメントが物議を醸していましたが、まさにその通り、オリンピックを別世界として切断することによって、人々は矛盾に耐えようとしていたのです。
【まとめ】「TOKYO2020」という人々が集団として巨大な矛盾に対峙した歴史的経験
さて、まとめに入ります。
冒頭でも述べた通り、本稿で語りたかったことは、どちらの意見が正しいかということではありません。
実際のところ新型コロナウイルスという強敵に対抗するには何らかの世界的連帯感が必要ではあるわけで、だからそういう意味で今回のオリンピックにも意義がなかったとは言えないでしょう。
しかし、もちろんこれと同時に、文字通り人々が「お祭り気分」になったことで、感染症対策がおろそかになった実害もありえるわけです。
こうした社会的イベントは対照実験もできない以上、「開催してよかったかどうか」はどうしてもはっきりした結論が出せずモヤモヤは残ります。
ただ、少なくとも、こうした相反するものごとの同居を目の当たりにすれば、人々がイライラして衝突したり賛否両論吹き荒れるのは当然であったとは言えるのではないでしょうか。
基本的には人は「ハレとケガレの同居」は徹底して避けるものですから、これだけの規模でそれが実行されたのは、ある意味貴重な経験であったとも言えます。
つまり、「人々が集団として巨大な矛盾に対峙した歴史的経験」として東京オリンピック2020は後世から振り返られることになるでしょう。
この不本意ながらも遭遇した貴重な経験を未来に活かす責任が私たちにはあるはずです。
これが「東京オリンピックとは何であったか」という江草なりの総括になります。
以上です。ご清読ありがとうございました。
脚注
↑1 | 祭りの歴史や実情には江草は詳しくはありませんが、おそらく祭りの参加についても厳格には「喪中かどうか」問われる風習はあるのではないでしょうか |
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