4月1日なので「ウソ」についての話をしましょう。
せっかくのエイプリルフールだからと、ちゃんとウソをついた人はどれぐらいいらっしゃるでしょうか。
案外いないのではないでしょうか。
江草も「何かウソをついてやろう」と一瞬頭には思い浮かんだものの、「何か違うな」とスゴスゴと矛を収めてしまいました。
エイプリルフールというお膳立てがあってなお、ウソをつくことに心理的に抵抗があるのです。
ウソが嫌いな私たち
実のところ、私たちは皆ウソがつくづく嫌いです。
それも、強制されてるのではなく、本心からウソが嫌いです。
ウソをつくこと自体は犯罪ではない
たとえば、ウソをつくことそのものは犯罪ではありません。
もちろん、詐欺とか文書偽造の罪はあります。
けれど、それらはあくまで責任が重く、結果への影響が大きいウソについての規定であって、「ウソそのものが犯罪」とは定められていません。
江草が今「今日のスーパーでチンゲン菜が150円だったよ(本当は100円)」とウソを言っても、しょっぴかれることはないし、罪に問われることもありません。
ルールに書かずともみんなウソが大嫌い
しかし、違法でもなんでもないにもかかわらず、みんなウソが大嫌いです。
たとえば、罪になるような大事なことにはウソはつかないとしても、日常のふとした発言にことごとくウソが含まれてる人間を好む人はいるでしょうか。おそらくいないでしょう。
平気でウソをつける性格として知られる「サイコパス」が、みなに大変忌み嫌われてるのもその証左です。
なぜ私たちはウソを嫌うのか
私たちが法律等で強制されるまでもなく、ここまでウソを嫌う理由はなぜでしょう。
江草の素朴な推測では、コミュニティの秩序を守り、信頼する人物を見極めるための本能的な心理なのではないかと思います。
コミュニティで団結して危険を乗り越えるためには、お互いの言動に対する信頼が必要不可欠ですからね。
「ウソも方便」と言うけれど
もちろん、「ウソも方便」と、場合によってはウソをついてもいい場面があることは、みな知ってはいます。
しかし、これはよほどの理由がなければウソをついてはいけないことの裏返しです。
ウソが基本的に大変嫌われてることは間違いないでしょう。
ウソを嫌いすぎた副作用
ということで、私たちはどうやらウソが大嫌いな模様です。
ただ、江草が思うには、私たちがウソが大嫌いすぎるために、時に、その弊害も出てるのではないかと感じるのです。
つまり、ウソが嫌いすぎることによる「副作用」があるように思うのです。
ウソが大嫌いなのに、ウソをついてしまう私たち
悲しい現実として、私たちはウソが嫌いですが、それと同時に、時にウソをついてしまう存在でもあります。
故意なのはさすがに問題でしょうが、故意でなくてもウソをついてしまうことがしばしばあります。
私たちが不本意にもウソをついてしまうパターンを3つ挙げます。
キーワードは「咄嗟」「勘違い」「結果論」です。
咄嗟
まず、つい具合が悪いことを追及された時などに、咄嗟に何とかその場をごまかそうと、ついウソを言ってしまうパターンです。
誰しも経験はありますよね。
反射的に出た咄嗟の発言なので故意とは言いにくいけれど、自分でもウソの自覚があるだけに、罪悪感もひとしおです。
ついてしまったウソを後から白状するか悩んだり、ウソを塗り固めるためにさらなるウソをついて泥沼化する場合もあります。
勘違い
もう一つは、不注意でウソをついてしまうこと。要は、勘違いです。
その時は本心からそう思って言ったけど、単純な言い間違いであったり、勘違いしていたことが後から分かるケースです。
ウソの発言の時点では、悪意はおろか当の本人もウソと思っていないことになります。
後から勘違いであったことを自分で気づいたり、他人に指摘された時に、血の気がサーっと引く思い、これまた誰しもご経験ありますよね。
結果論
最後の一つは、結果的にウソになってしまったパターン。要は、結果論です。
発言当時は未知の事実だったのに、後から情報や経験が蓄積した結果、発言が誤りだったことが分かる場合です。
結果論だからそれはウソとは言えないのではないかと思われるかもしれません。
ところがどっこい、こういう結果的に誤りだった発言を責め立てて「うそつきめ」と批判する事例は世に少なくないのです。
たとえば、コロナ禍当初「マスクはあまり意味ない」と言っていた医師たちが、後からその有効性が分かってきたために、むしろ「マスクをしましょう」と発言が変わっていきました。
結果的には誤りだったのではないかという指摘ももっともですが、発言当時には分からなかったことなのですから、妥当な姿勢変化でしょう。
しかし、まことに残念で理不尽なことですが、こうした妥当な範囲の発言の転向をとりあげて「ウソつき」と言う者がいるのです。
だからこれも、本人には当然不本意ながら、広義の意味で「ウソ」扱いされてしまう、困ったパターンです。
私たちがウソが嫌いすぎるために生じる困った現象
さて、このように、意図的にせよ、そうでないにせよ、私たちがウソをついてしまうことがあるのは現実です。
しかし、これに「私たちがとにかくウソが嫌い」という事実が合わさった結果、いくつかの困った現象を引き起こしてるように思います。
すなわち、社会的に「ウソ」があまりにスティグマ[1]負の烙印。強力なネガティブイメージがついてまわること化してしまってるがために、私たちは妙な行動を取る傾向があるようなのです。
2つ例を示します。
無理やりな自己正当化
ひとつは、「無理やりな自己正当化」です。
「ウソ」がスティグマ化している以上、他人に「ウソをついてる」と思われたら、信頼されなくなり、社会の中で不利な立場に追いやられます。
ですから、それを避けるために無理矢理でも自己正当化をします。
本当はその時に事実を知っていたとしても「記憶になかった」「忘れてた」などと、「ウソではなかった」ことを私たちは強調しがちです。
時には、あまりにも強引に言い逃れすることもしばしばです。
興味深いことに、自己正当化は他人に対してだけでなく、自分に対しても行われます。
「ウソ」の罪悪感が極めて強すぎるために、「自分はウソをついた」と自分自身で認めることだけでも、本人の心に多大な苦痛を与えます。
なので、その事実を直視することを避けるために、私たちは「自分はウソをついてない」と自分自身を欺くことがあります。
そうすれば、心の安寧が保たれます。
これが、他人に対してだけでなく、自分に対しても行う自己正当化です。
これらの自己正当化の最たるものが、いわゆる「謝ったら死ぬ病」と言われる、「どうあっても自分の誤りを認めず謝らない人」でしょう。
このように、みながウソを嫌いすぎなせいで、少なからぬ人が、なんとしてでも「ウソつき」と言われないことにしがみつくようになってるように感じます。
無難なことしか言わなくなる
もうひとつのウソを嫌いすぎることによる弊害の例は、「無難なことしか言わなくなること」です。
結果論で発言内容が誤りだった場合ですら、「ウソつき」のスティグマを背負わされるのだとしたら、誰しも無難なことしか言いたくなくなります。
つまり、
最初からはっきりとしたことを言わなかったり、明らかなことしか言わない。
もしくは、多くの人が既に言ってることに従った発言をする。
そうした、無難な発言ばかりになります。
このように、社会に「ウソ」を過剰に避ける空気があると、チャレンジ精神の阻害につながるのです。
自分たちの常識も含めて、何事も時には客観的に疑うことが必要です。
しかし、多くの場合、なんだかんだ常識は正しいので、その意味では「常識を疑う」のは分が悪い賭けです。
分の悪い賭けに挑み、常識を試しに疑ってみた結果、「ウソつき」扱いされてしまうのはかなわないので、最初から常識を疑わない方が賢明ということになります。
その結果、まれにある「常識が誤ってるケース」を見出すチャレンジ精神や批判的精神を持つ者が少なくなり、社会に「誤った常識」に伴うひそかな弊害が蓄積するおそれがあります。
ちょっとだけ、ウソとの向き合い方を見直そう
まとめます。
「自己正当化」が過剰だと、建設的な議論が成り立ちません。
「無難な発言」ばかりだと、新たな視点が生まれません。
どちらも、社会にとってよろしくないことのように思うのです。
そして、これは私たちが極端に「ウソ」を嫌ってることが一因にあるのではないでしょうか。
せっかくの「ウソの日」です。
私たちが「ウソ」を過剰に嫌いすぎてないか、今一度考えてみるのはいかがでしょう。
たとえ誤った発言をした者であっても、誠実な態度での発言であり、誤りを認め反省する意思がある者ならば、無難な発言をするばかりの者よりも、むしろ評価されるべきです。
しかし、残念ながら現状では、「ウソをついたかどうか」という減点方式の評価が強すぎて、間違った時に謝ったとしてもたいして許してもらえないために、下手に危険を冒さず無難に過ごす方が有利になってしまってないでしょうか。
もちろん、「ウソつき」を手放しで容認するわけにはいきませんから、バランスは難しいですけれど、ちょっとだけでも私たちの「ウソ」との向き合い方を見直すのは必要なように思うのです。
以上です。ご清読ありがとうございました。
脚注
↑1 | 負の烙印。強力なネガティブイメージがついてまわること |
---|
コメント