なぜ若者は投票に行かないのか

投票のイラスト政治

大きな選挙がある度、投票率の低さが話題になります。

往々にして全体の投票率も十分とは言い難い数字なのですが、若者の投票率が低いことは特に問題視され、「若者の投票率が低いから、高齢者優先のシルバー民主主義になるのだ」「白票でもいいから投票に行こう」などと叫ばれます。

 

実際、江草も若者の投票率の低さが良いとは思いませんし、若者の投票率の向上を訴えることは確かに必要とは思います。

ただ、「若者よ、投票に行こう!」という呼びかけばかりするのは、あまり的を射た対策ではないと感じます。

というのも、そうした呼びかけは、「若者が投票に行きさえすれば解決」すなわち「若者が投票に行かないのが今の政治の問題の根本的原因」と考えてるように見えるからです。

 

確かに現状の政治が高齢者優先(に見える)としたら、その「若者が投票に行かないこと」は一つの原因ではあるでしょう。

ただ、それが根本的な原因かどうかというのは、もう少し深堀りして考えてもいいんじゃないかと思うんですよね。

 

たとえば、ある人の肥満が問題になってる時に、「太るのは食べすぎが原因だ」として、「食べるな!」と言うことは確かに間違いではないでしょう。

でも、こうしたシンプルな対策って皆さんもご経験があるように、あまりうまくいきませんよね。

なぜならその対策では「つい食べてしまう原因」が手つかずのままだからです。

「食べすぎ」の背景には、ストレスだったり、習慣だったり、体質だったり、往々にして「つい食べてしまう原因」が隠されてるものです。

「食べるな」と言われて、意志力だけで食べずに済むなら苦労はしません。

 

それと同じで「投票に行け」と言われて、素直に投票に行くのなら最初から苦労はないのではないでしょうか。 

だから、若者の投票率の低さを憂うならば、まず「ではなぜ若者は投票に行かないのか」を考えることからしないといけないように思うのです。

 

 

……というわけで、本日一番言いたかった問題提起は済んでしまったのですが、言いっぱなしもなんですよね。

あくまで政治学の素人の考察で申し訳ありませんが、以下、「若者が投票に行かない理由」について江草なりの所見をつらつらと述べていきたいと思います。

 

投票参加のパラドックス

さて、こうした投票行動の問題を語る時によく出てくるのが「投票参加のパラドックス」の話です。 

 

「どうせ自分の一票じゃ結果は変わらないし」

投票参加の呼びかけに対して反論するこんな意見をよく聞かないでしょうか。

一見して冷めた意見ではあるのですが、ある意味合理的な発想ではあるんですよね。

 

実際のところ、確かに一票で結果が変わる場面というのは稀ですから、投票に行く手間や時間、誰に投票するか考える労力等々を考えれば、投票なんかほっておいて他のことに貴重な時間や労力を割いた方がマシというのは一理ある考えです。

 

それを実際に指摘している「投票参加モデル」もあるそうです。

これについては素人の江草が説明するより、専門家の説明の方が良いでしょうから、プロの記事の助けを借りましょう。

 「誰が、なぜ、投票に参加するのか」という問いに答えることは、政治システムに対してどのようなインプットがなされているのかを明らかにすることを意味し、これまで政治学では国内外を問わず様々なアプローチから投票参加を説明することが試みられてきた。ここでは、投票参加研究においてもっとも有名なモデルの1つであるライカ-とオーデシュックのモデルを紹介する。ライカーらの投票参加モデルは以下の式によって表わされる。

R=P×B-C+D

 上記の式において、Rは有権者個人が投票によって得られる効用を、Bは有権者が最も好む候補者が当選したときに得られる利得と、最も好まない候補者が当選したときの利得との差を表す。また、Pは投票によってBを得る有権者個人の主観的確率であり、Cは投票に際して生ずる有権者のコストを意味する。最後にDは市民としての義務感(Duty)または、民主主義システムが維持されることに対する長期的な利益(Democracy)を表している。したがって、このモデルでは、有権者はRの値がゼロより大きい場合には投票し、ゼロより小さい場合には棄権するということになる。言い換えれば、投票に行って自分が得をしそうなら投票所に足を運び、そうでないなら棄権するということである。

(中略)

つまり、合理的な有権者ほど選挙では棄権するという理論的な帰結が導かれるにもかかわらず、上述したように実際の選挙では多くの選挙において過半数の有権者が参加しているわけで、理論的な予測と現実とが乖離してしまっているのである。

なぜ有権者は投票に行くのか-効用? 義務感? 学習?-
なぜ有権者は投票に行くのか-効用?義務感?学習?-:研究:Chuo Online : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

 

つまり、合理的に考えれば「自分の一票の価値なんてたいしたことはないのだから」投票に行く必要はないのに、むしろ投票に行く人がこれだけ多くいることが驚きというわけです。

これが「投票参加のパラドックス」です。

投票率の低さを憂いていたのに、むしろ「これだけ投票率が高いこと」の方が不思議がられてるという面白い話です。

 

素直に考えれば、自分の一票でほんとうに政治が変わるかの計算は無視して投票に行く――人はそんな非合理的な性格を持ってることを表していると言えるでしょう。

それが、自分の思いを表明したいからか、社会に対する責任感からかは分かりませんが、人間のこういう計算高くないところは、江草は好きです。

 

社会でなく自分に投資するのが合理的すぎる若者という時代

とはいえ、そうした愛らしい人間の非合理性だけでなく、人が計算高ければ計算高いほど投票には行かない可能性があることもこの「投票参加のパラドックス」は示しています。

 

で、実は日本だけでなく世界的にも若者の方が投票率は低いらしいです。 

「若者は投票しない」って日本だけ? スイスやアメリカだって…
 選挙のたびに聞かれるのが、「若者の投票率が低い」という嘆きです。「やっぱり日本はダメだなあ」なんて嘆きがちですが、世界的に見ると、同じ悩みをもつ国は少なくありません。アメリカの事情や、イギリスで投票率アップに効果があったという取り組みを…

一見して政治の議論が熱そうなアメリカも、案外若者の投票率は低いんだとか。 

この若者の低投票率が世界的な現象であるという事実から、若者が投票に行かない理由は、日本独自の原因というよりは、「若者」という時代特有の原因が作用してるとするのが考えやすいのではないでしょうか。

 

ここで江草の答えを言ってしまうと、「若者にとって、社会ではなく自分に投資するのが合理的すぎること(もしくは合理的と感じられること)」が原因と考えます。

 

紹介した記事もそうですが、こうした文脈では「若者が政治に興味を持ってない」「若者が政治の大事さを分かってない」と言われがちですが、そこよりももっと重大な問題があると思うんですよね。

それは若者という時代が、能力主義的な個人間競争や、サバイバルのための自分の居場所作りの真っ只中にいるという現実です。

 

多分、若者は政治に興味がないとか、政治が大事でないと思ってるわけではないんです。

そうではなくて、それ以上に興味を持たざるを得ず、また、重要視せざるを得ない切迫した個人的課題が目の前にあるから、若者たちは政治どころでないのではないでしょうか。

 

たとえば有権者となる成人前後なんて、半数はまだ大学生で、今後の就職やキャリアアップのことで頭がいっぱいでしょう。他方の就職した者たちも、勤務先でのスキルアップや関係づくりに追われているところでしょう。

こうした若者たちに対して、社会は日頃から「がんばって勉強し鍛錬して一人前になるように」求めるメッセージを発信し続けています。

つまり、「輝かしい未来は個人の努力の中にある」かのように圧をかけ続けています。

そうした中で、若者が何か現状に対して不満があったとしても、「社会を変える」のではなく「自分が頑張ること」で解決するべきと考えるのは致し方ないのではないでしょうか。

 

もちろん、個人が努力することが悪いわけではありません。

実際に若者たち自身にとっても、幸福なことでさえあると思います。

自身の努力が実になって成長を実感することは、間違いなく人生における華の一つでしょう。

ただ、このように「努力は報われる」と言えば言うほど、社会に対して働きかけるのではなく、個人的に努力し自分に投資することが「合理的」となっていきます。

 

すなわち、社会的に個人の努力や能力を賛美すればするほど、「社会ではなく自分に投資するのが合理的」とみなされるようになり、悲しいかな投票率は下がってしまうのではないでしょうか。

 

そう考えると、逆に高齢になればなるほど投票率が高い理由もはっきりします。

なにせ、歳を重ねれば重ねるほど人は「自分の伸びしろ」の限界を痛感するようになります。

高齢者の方に至っては、むしろ自分は今後衰える一方という厳しい現実を目の当たりにします。

そうなれば「自分に投資する」よりも「社会に働きかけること」が生存戦略として重要性を増してきます。

ならば、高齢者は投票に行きますよね。

 

このように、自分の能力や可能性に期待できる若者と、そうでない高齢者という対照的な状況の違いが、投票率の差に表れてると言えるのではないでしょうか。

 

「社会的アイデンティティ」VS「個人的アイデンティティ」

作家の橘玲氏は、人は「社会的アイデンティティ」と「個人的アイデンティティ」という二重のアイデンティティの狭間で複雑なゲームをしていると説いています[1]幻冬舎 橘玲『スピリチュアルズ』

つまり、自分を集団と一体化させ、集団の一員としての「社会的アイデンティティ」を確立しないと集団から排除されてしまうけれど、それと同時に、集団の中で自分を目立たせる「個人的アイデンティティ」も確立しないと集団内での生存競争および生殖競争に勝ち抜けないのだと。

身も蓋もない話ですが、確かに私たちの社会にはそういう側面があることは否めないと思います。

 

そういう視点で言えば、多分、現代の若者は「個人的アイデンティティ」の確立の方に重点を置いているし、置かざるを得なくなってると言えるでしょう。

だからこそ「社会的アイデンティティ」の発露とも言える投票行動が後回しになってるのではないでしょうか。

 

鶏が先か卵が先かみたいなもので、若者が「個人的アイデンティティ」を重視したから、政治が若者を見放したのか、政治が若者を見放したから若者が「個人的アイデンティティ」を重視せざるを得なくなったのかは区別は難しいです。

ただ、おそらくは両方の要素がもともとあって、それでいてお互いにポジティブフィードバックをかける悪循環に陥ってるように思います。

 

さすれば、この悪循環を断ち切ることが肝要なはずです。

 

もちろん、確かに「若者よ投票に行け」と言うことも、この悪循環の対策に効果が無いとは言いませんが、あまりに表層的であり、どうにもそれだけでは弱いように感じてしまいます。

 

多分、まずもって必要なことは、若者が互いに生存競争にまみえなくて済むような心理的安全性の確保ではないでしょうか。

普段からなんでもかんでも「自助努力」「自己責任」と言えば言うほど、若者は自衛のために「個人的アイデンティティ」に走らざるを得ないでしょう。

だから、おそらくこれは大きな選挙の時に思い出したようにちょっとキャンペーンをするだけでは解決できない極めて厄介な問題で、若者の安全を確保し、誰も見放さないぞとする姿勢を日常的に社会的に打ち出すことしか、対策は難しいのではないでしょうか。

 

 

以上です。ご清読ありがとうございました。

脚注

脚注
1 幻冬舎 橘玲『スピリチュアルズ』

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