ベリーショートコンテンツ時代に、「議論も短時間消費する世の中」にならないか心配してみた

音楽を聞いてる人のイラスト社会

世の中、「コンテンツひとつあたりの所要時間短時間化」の要求が進んでいるようでして。

最近でも、映画作品を2倍速で観る行為が議論になったり、短時間で遊べるswitchゲームのリストが好評だったりと、「できるだけ短い時間で作品を味わいたい」というニーズの高まりが見て取れます。

 

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江草も実際YouTubeで動画を観る時は倍速にすることが多いですし、動画の時間が「30分以上」のものになってくると避ける傾向があるのは否めません。なんなら長い動画はスキップしながら見ちゃったりしますね。

テレビ番組も放送をリアルタイムで観ることはほぼなくなりました。代わりに、録画を高速再生で観ています。みんな早口になりますが、案外問題ありません[1]NHKではもともとがゆっくりな語り口なので、高速再生するぐらいがかえってちょうどよかったり

 

そんなにも忙しいのかと言われると、たしかに忙しいのは忙しいのですけれど、一昔前と比べて格段に忙しくなったかというとそういうわけでもないのですよね。

誰かも指摘されてましたけれど、むしろ観たい作品が世の中に多くなりすぎた――すなわち、フォローすべきコンテンツが溢れすぎたために、一作品ごとに当てる時間を制限しないと回らなくなってきたというのが実情に近いのかもしれません。

その上、最近では倍速再生やスキップ再生が「技術的に可能になった」ことも大きそうです。2時間の映画がどうしたって鑑賞に2時間かかる時代ではなくなったのです。過去にも同様の技術があれば、やっぱり私たちは倍速再生していた可能性は無きにしもあらずかと。

 

 

さて、原因はどうあれ、一作品あたりの鑑賞時間の短時間化のニーズが高まってることは確かなようです。

そうすると江草的に気にかかるのは、「テキストコンテンツ」の行く末なんですよね。

 

テキストサイトや長文ブログが親しまれた時代から幾星霜。

今や一番人気のテキストコンテンツと言えば『Twitter』です。

140字単位と極めて短文で語ることができるTwitterはまさに現在のベリーショートコンテンツ時代の先駆けと言える存在でしょう。

 

Twitterがもともとは日常の何気ないつぶやきを語るための場であったのは皆さん御存知の通りです。

しかし、あまりにTwitterがテキストメディアの主力となったために、日常のつぶやきとはとても言い難い重大テーマさえもTwitterで多くの人が語るようになってきました。

スレッド機能を用いて連投で、「リベラルがどうだ」とか、「ワクチンを打つべきかどうか」とか、「専門医制度がどうか」とか、このような《主張するtweet》よく見ますよね。

別に《主張するtweet》が悪いと言いたいわけではありません。江草も時々はやりますし。鋭い意見に「なるほどな」と唸らされることもしょっちゅうあります。 

ただ、昨今の「ベリーショートコンテンツ」トレンドと合わさって、《主張するtweet》程度で「議論を満足しちゃう空気」が出てくるんじゃないかと懸念してるんです。

 

 

「リベラルがどうだ」とかの政治的な話題とか、「ワクチンがどうとか」の医学的な話題とか、当然ながらめちゃんこ難しいテーマです。

たとえば、本屋に行けば、政治を考え続けてる書籍が山ほどありますし、pubmedを引けばワクチンの効果や最適な運用、倫理的課題を語る医学論文が延々と連なります。

それぐらいの文章量をもってして、わざわざ語ってる人がいるテーマです。そして、そこまでしてですら、まだ解決してない難題とも言えます。

 

もちろん、だからといって、書籍や論文レベルの長文を読み書きしないと、それらのテーマを語ってはいけないと言ってるわけではありません。

そこまでの詳細な議論までは難しくとも、エッセンスを持ち寄って人々の中で語り合うのは民主社会では必要な行為だと思うのです。

ただ、たとえエッセンスレベルだとしても、そうした難しい話題を扱うにはTwitterはさすがに短すぎるのではないでしょうか。

 

さらに、ここに加わるのが冒頭からお示ししていた「ベリーショートコンテンツトレンド」です。 

短文コンテンツでありながらも、Twitterの議論も話のきっかけだったり、考えるヒントとしてでなら有用でしょう。

ただ、みなが「コンテンツ短時間消費のトレンド」に慣れた結果、難しいテーマの議論をも、短文のTwitter上だけで済ませようとしてないか、江草はちょっと心配になってきているのです。

すなわち、Twitterでのやり取り程度で「議論は済んだ」と満足してやしないかを恐れてるのです。

 

短文構造のTwitterでは、多くの場合、「結論」とせいぜいそれを支持する「近距離の根拠」ぐらいしか提示できません。

「根拠の根拠」だったり、「根拠の根拠の根拠」だったり、「暗黙の前提」だったりを、深堀りすることは難しいのです。

「結論と近距離の根拠」レベルでは、それはほぼほぼ「その人の主義主張そのもの」なので、異なる主義を持ってる人からすると「全くもって理解できない。賛同できない」になりがちです。

 

主義主張の対立があるのは仕方ありません。対立があるからこそ議論が必要なのですし。

本来の議論であれば、その対立した時点から、ではどこからならお互い共通に同意できてるのか、と「共通の前提」を探る対話、すなわち「深い層の根拠」を探る旅が必要となります。

しかし、何事も「ベリーショートコンテンツ」として消費するクセがついていると、ここで深堀りすることをせずに、いきなり「議論は物別れに終わった。あいつの意見はさっぱり意味不明だ」などと議論をすぐさま「完了」してしまう恐れはないでしょうか。

 

もちろん、一昔前の人々も、議論が好きだったり、得意だったりする人ばかりではなかったはずです。議論とは名ばかりで、ただの口喧嘩だったり、誹謗中傷だったりもよくあることだったでしょう。

世代が違えど同じ人類ですから、あまりやること、できることは違わないと考えるのが自然です。

なので、理想の議論をするのが難しいのは今に始まったことじゃないとも言えます。

 

しかし、昔は今と違って「他人と議論を開始すること」も難しかったはずです。

TwitterなどのSNSはなく、議論をするにしても基本的には対面が必要だったのですから、市井の人が議論をふっかけることができる相手も限られていたはずです。

でも、今はTwitterがあります。私たちは、赤の他人と容易に議論を開始することができ、そして簡単に短時間で終わらせることができるようになりました。それも、「議論はなされた」という達成感をもって。

 

では、いずれも同じく「理想の議論」はできていないとして。

「まだ議論はしていない」と思っているのと、「もう議論は済んだ」と思っているのでは、どちらが恐ろしいでしょうか。

江草は後者、「もう議論は済んだ」と思っている方をより恐ろしいと感じます。 

たとえば、犬猿の仲の両者がいると思ってください。どちらも互いに相手を見下している状況です。大変に悲しい想定ですが、現実でもしばしば起きてる状況です。

そこで、「まだ議論はしていない」の心理状態だと「あいつは愚かに違いない」という「推定」で済みますが、「もう議論は済んだ」の心理状態だと「あいつは確かに愚かだった」という「確信」に段階が一歩進んでしまうように思うのです。

 

今やTwitterが大衆の「議論プラットフォーム」と化したことと、コンテンツを短時間で消費するトレンドが合わさると、拙速な「もう議論は済んだ」の気持ちが大量に生み出されうる土壌が形成されつつあると考えられないでしょうか。

それはすなわち、「あいつらは確かに愚かだった」という「早まった確信」をも大量に生み出すことを意味します。

これは、世の中の「分断」をいっそう深める危険をはらんではいないでしょうか。

 

 

色々意見はあるでしょうけれど、娯楽の消費において、高速再生したり、スキップ再生したりと、短時間でこなすことは、まだ個人の自由の範囲と言えます。

ただ、議論までも娯楽同様に短時間消費することは危険です。

 

もとより、民主主義社会では「熟議」をすることが大事と言われています。

「熟議」とは文字通り、「議論は時間をかけて熟す必要があるもの」ということを含意しています。

「半熟」や、ましてや調理もせず「生」で喰らって満足してはいけないという警鐘なのです。

 

 

もちろん、ここまで書いたことは江草の推測をふんだんに含んでるので、杞憂かもしれません。心配性なだけかもしれません。

でも、どうも最近、Twitterでのスレッドをベースにして「議論」をした挙げ句、全く話が噛み合わなくて物別れに終わってる人たちの姿を頻繁に目にする気がしてならないのです。

 

過去にブログに書いたものですと、たとえば、これとか。

大脇氏と岩永氏のHPVワクチン積極的勧奨再開を巡る議論が噛み合ってない
噛み合ってない議論を、ひと肌脱いで整理してみました。

 

これが、静かに「マズイこと」が進んでる現れのように感じるのは、江草のただの杞憂でしょうか。

むしろ、杞憂であってくれればよいのですが。

 

 

以上です。ご清読ありがとうございました。

 

脚注

脚注
1 NHKではもともとがゆっくりな語り口なので、高速再生するぐらいがかえってちょうどよかったり

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