「会話」の持つ侵襲性と拘束性――やめられない、とまらない、会話前線

会話のイラスト社会

会社のオフィスで電話に出ることに不慣れだったり、不安に思う新入社員が増えてるんだとか。

この理由は、若い人は不特定多数の何者かからかかってくる固定電話を受ける経験が少ないために、固定電話に苦手意識が強い、という説でよく説明されます。

ほんとかどうかは判断できないですが、まあそれなりにもっともそうな説ではあります。

 

 

でもまあ、確かに電話に出るのってストレスありますよね。

江草も、読影室にかかってくる電話を取る時はいまだにやっぱりドキドキします。

誰からかパッとは分からない。何の用件か分からない。急にかかってくる。

こうした不確実性や、急に目の前に現れる感じが、不安を誘うのでしょうか。

 

 

なぜ電話に出るのはストレスになるのかを考えてると、そもそも電話どころか、話しかけられるのもストレスであることに気づきました。

たとえば、デパートに入ってるような服屋さんとか、ちょっと入りづらくありません?

ちょっと見てたら、すぐ寄ってきて店員さんが話しかけてこられるじゃないですか。

もちろん店員さんに全然悪意がないこと、営業上仕方ない行為なのは分かりつつも、自分のペースで商品を見てる時間を急に中断されるストレスがあるんですよね。

だから、ついデパートの服屋さんからは足が遠のいて、店員さんが話しかけてこないユニクロだったり、そもそも店員さんがいないオンラインショッピングで買っちゃったりします[1]最近はコロナでよりデパートに近寄らなくなりましたが

 

 

こうなると、電話に限らず、会話全般に人にとってストレスになる性質が隠されてそうです。

 

その性質とは何かといえば、「会話の持つ侵襲性と拘束性」ではないかと江草は思うのですよね。

 

 

私たちの社会において、基本的には自分のしたくないことはしなくていいし、他人からしてほしくないことをされたら拒否できるとされています。

自由を尊ぶ社会ですし、それはそうでしょう。これは多くの方が特に反対しないところと思います。

ただ、私たちの「会話」に対する態度は、存外この原則に従っていません。

 

たとえば、話しかけてほしくない時に話しかけられたとして。

ちょうど話しかけてほしくない時だからと反応を返さないと、「無視」と呼ばれ私たちの社会では罪深い行為として扱われます。

デパートの服屋さんで話しかけられた時に店員さんをガン無視してる人がいたら、たとえその人が自分のペースで商品を見たい気持ちだったとしても、多くの人は「ガン無視はひどいでしょ」と感じるはずです。

 

つまり、してほしくないことをされたのに、それを完全に拒否すると逆に拒否した側の方が「悪者」扱いになるわけです。これは先程の自由の原則と沿いません。

話しかけてほしくない時だったとしても、まるで反応を返さないのではなく、(たとえ内容が拒絶を意味しているとしても)「今はちょっと話しかけないでください」などのようにせめて一度は応答することがこの社会では期待されています。

ですから、してほしくないことをされても何か必ずアクションを取る義務が発生する点で、会話には侵襲性が伴うと言えます。

(なお、これは「自由を尊ぶなら無視してもいいはずだ」と主張しようとしてるのではありません。話しかけられた時に無視をするべきではないことは、もちろん江草も賛同しています。ただ、自由の原則に沿わないにもかかわらず、この「話しかけられた時に無視をするべきでない」という気持ちを社会の皆が無意識のうちに共有していることの面白さをお示ししたいのです。)

 

 

さらに、会話が始まった後も厄介さがあります。

いったん始まってしまうと、会話って勝手にやめられないんですよね。

たとえば、江草がデパートの店員さんに話しかけられて、一応は話を聞いてみることにしたとします。しかし、この店員さん、江草の服のニーズを聞くどころか、別に欲しくもない商品をどんどん勧めるばかり。

なので、「これはあまり実のある会話でなさそうだ。もう止めたい」と、江草が判断したとします。

でも、だからといって、すぐさま勝手に会話を止めると、それは止めた江草の方が失礼になるんですよね。

この勝手に止めるというのは「もうけっこうです」といった「会話を終了したい意思」を明確にする発言なしに本当に急に止めるということです。

店員さんが話している時に、(もう会話はいいやと判断した)江草が急にスマホを見始めたり、いきなり無言で立ち去ったりすれば、「なんだあの人失礼な」と多くの方は感じることでしょう。

これが面白いのは、たとえ会話を始めたきっかけが店員さんの側であったとしても、話しかけられた側の江草に勝手に会話をやめる権利がないことです。

江草自身が始めたことなら責任を持たなきゃいけないのは分かりますが、江草が始めたわけではない作業にも責任が伴うのです。冷静に考えると不思議で面白い現象じゃないでしょうか。

 

もっとも、こう言うと、そこまで急に止めずに「もうけっこうです」と一言述べて会話を打ち切ればいいじゃないかと思われるかもしれません。

もちろんその通りなのです。

でもですよ、みなさんも幾度となく経験あるんじゃないでしょうか。

会話を止めたくても止められない時。

いや、「止めてくれない時」と言う方が正確かもしれません。

 

まず一つよくあるパターンは、こちらが会話を打ち切る発言をする隙がないケースです。

相手が一方的にずっとマシンガンのように話を続けていて、「じゃあそろそろ」とこちらが言うタイミングがなくて困った時、みなさんもありますでしょう。

「よし話題が切れそうだ、今だ!」と思った瞬間、まさかのミラクルな隙のない話題ドリブルで華麗なディフェンスを決められちゃった時の絶望感と言ったら。

 

もう一つよくあるパターンは、こちらが会話を打ち切る発言をしても、相手が了承せず会話を続けるケースです。

「じゃあそろそろ」とこちらがちゃんと会話終了の意思を明確にしたのに、「ああごめん。でもあとちょっとこれだけは言わせて」と相手が会話を続行し、結局その「あとちょっと」が全然「あとちょっと」でなくって大変な時間を費やされちゃった時。

これもみなさんあるあるじゃないでしょうか。

 

この両ケースとも、なかなかの理不尽さがありますよね。

でも、たとえ理不尽だからといって、本当に会話中に勝手に立ち去ったり無視をすると、これまたこちらの方に道義的な罪が発生するのが、「会話」という行為の厄介なところです。

この罪がこちら側に背負わされるのが分かっているからこそ、こちらもたとえ嫌でも簡単には会話から立ち去れないですし、相手もそれを見越して多少図々しくとも会話を続行することができるのです。

 

しかも、「会話の強制終了」という行為には、たとえ他人から責められなくとも、自分の中で罪悪感を抱かせる魔力があります。

押し売りだったり、勧誘の電話だったり、ナンパだったりの、露骨な声掛け行為。

話しかけられてもすぐ断る人がほとんどだと思います。そして、断るのは当然だと思っているはずです。

でも、それでも、何か感じませんか。

断った後、なんとも言えないモヤモヤした気持ちを。

あれ、分かってても、なぜだか罪悪感が残るんですよね。

理屈ではこちらに非はないはずと思いながらも、それでも「会話を拒絶する」という行為は何かしら気持ちに傷跡を残してしまうのです。まことに困ったことですが。

 

 

こうした「話しかけられた時に無視できない」「会話を始めた後に勝手にやめられない」なんなら「こちらが嫌になっていても相手は半ば強引に会話を続けることができる」というのが、江草の述べた「会話の侵襲性や拘束性」です。

これが、私たちが会話に感じるストレスの源なのだと思います。 

他人から勝手に侵襲を受けて拘束される「会話」という行為は、自由な社会に残された最も身近な不自由の一つと言えるのかもしれません。

 

  

で、冒頭の固定電話恐怖症の話。

おそらくですが、こうした「会話」の侵襲性や拘束性が、自由や不干渉を尊ぶ昨今の人々に、より嫌われ避けられるようになったということでしょう。

 

もちろん、「会話」にそうした厄介な性質があるとはいえ、社会に不可欠な行為であることに違いないですし、メリットもたくさんある行為のはずです。

しかし、特にオフィスの最前線に置かれた固定電話というのは、正直言って雑用的な内容やクレームが多いのも事実でしょう。

だから、メリットが相対的に低く見え、厄介な性質が目立って見える。

ある意味上級者用の仕様です。

結果、新入社員レベルでは、ついつい忌避したくなる気持ちも分からないではありません。

 

 

しかし、実際ストレスはあるにしても、皆がそういう「不確実性に富んだ偶発的な会話」を避けてばかりになっては、なにか社会に歪みを生じるような気もまたするのですよね。

というより、すでに歪みが存在しているような気もしています。

 

現場で様々な要望に振り回される職員とか、クレームに追われるコールセンターの方々とか。

誰かが忌避した「会話」を、違う誰かが担ってる。

――いえ、担わされてる。

 

そんな光景にも見えてしまいます。

 

 

以上です。ご清読ありがとうございました。

脚注

脚注
1 最近はコロナでよりデパートに近寄らなくなりましたが

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