画像診断の効用は測定できるか

医師のイラスト放射線科

おはようこんにちはこんばんは、江草です。

 

今日は、放射線科の主要業務の一つである画像診断の効用の測定問題について、つらつらと考えていきます[1]なお、ブレインストーミング的に、事前の結論の想定や筋立てのないままダラダラと考えを書き連ねてる回になりますので、悪しからず

 

 

昨日、「医療資源の配給」を考える書籍の紹介記事を書きました。

 

全医療者必読本「誰の健康が優先されるのか――医療資源の倫理学」
「医療資源の配給」という大変な難題の議論に挑むための入門書、岩波書店「誰の健康が優先されるのか――医療資源の倫理学」の感想文です。

 

患者の利益の最大化であったり、費用対効果であったり、医療行為それぞれのそうした効用にまつわる要素を考える重要性を再確認したわけです。

 

これを良い機会として、まず江草が翻って考えるならば、やはり身近な放射線科業務でしょう。

 

しかし、実にこの放射線科業務というのが、扱いが厄介な代物なんですよね。

中でも、放射線科における主要業務の一つである「画像診断」が曲者なのです。

 

 

患者の利益の最大化の視点でも、費用対効果の視点でも、いずれにせよそれぞれの医療行為の効用を客観的に見える形で提示できなければ、それが実施するに値する医療行為かどうか、比較検討や議論ができません。 

 

たとえば、関心がある医療行為が手術や薬剤投与であれば、介入の有無の操作や評価項目の設定をすることのイメージは容易です。

現に、手術や薬剤投与の効用を調べるために数多の臨床研究が行われ、幅広く活用されています。

 

 

ただ、放射線科医による画像診断は、検査行為そのものでもなく、患者さんに直接返すものでもありません。

この患者に画像診断を「投与」して、この患者には画像診断を「投与」しない、のように患者ごとに割り当てることで画像診断の効用が見いだせるかというと、どうにも合わない気がするのです。

 

ひとつには、画像診断は、患者さん一人一人に一対一対応するようなprocess的な医療行為というよりは、その医療機関において基盤として存在するstructure的な存在のような印象があります[2]Donabedian model風に言えば

だから、患者さんごとに介入の有無を変えることを想定するにはそぐわないように思うのです。

 

 

また、もうひとつには、評価項目が一つに絞りにくいというのもあるかと思います。

 

たとえば、集団に対して行う医療行為としては、ワクチン投与があります。

ワクチン投与であれば、集団に投与しつつ、集団においてのそのワクチンの標的となっている感染症に関する指標を評価項目に設定することはできるでしょう。

それならば、得られたワクチン有無による感染症にかかるリスクや重症度の違いのデータから、ワクチンがある時とかない時のそれぞれのQALY等の効用が推計できるので、効用の比較検討は十分に現実的に可能な範囲になります。

 

しかし、画像診断では標的もそのように一つに明確化されるものではありません。

確かに、「腹痛精査」であったり、「肺癌疑い」であったり、個々の画像検査の依頼目的はあるでしょう。

でも、腹痛精査なのに肺癌が見つかったり、肺癌疑い精査なのに胆石が見つかったりするわけです。

 

画像診断においては、そういった依頼目的外の診断が頻繁に起こりますし、しかも、それで患者さんが実際に助かることもしばしばです。

さらに言えば、臨床の先生も放射線科の画像診断にはそうした「偶発的な診断」を実際に期待しているように思うのです。

そうすると、集団に対して「投与」した「画像診断」については何を指標とすればいいか的を絞れず、いきなり直に集団の効用指標(QALYでもなんでもいいですが)につなげるしかなくなります[3]なお、感度特異度といった検査性能や、clinical impact … Continue reading

しかし、そんな未整理の大振りな指標では影響する要因が多すぎて、その中のどれぐらいが「画像診断の真の効用」か判断することは極めて難しいのではないでしょうか。

 

 

とすると、せっかく医療資源の配給の問題に取り組もうと思っても、「画像診断の効用」については測定が難しいために、画像診断をどう提供するべきかという議論がハナから進まないことになります。

これは困ったものです。

 

 

また、おそらく、この「効用の測定が難しい問題」は画像診断に限らないでしょう。

 

たとえば、同様に中央部門業務としてしられる病理診断でもそうかもしれません。

さらに、医師業務でない、ソーシャルワーカーさんの配置の効用だったり、電子カルテのインターフェース改良の効用だったりも、測定は困難ではないでしょうか。

 

しかし、だからといってこれらの業務が無駄かというと、誰しも直観的に「無駄ではない、有益なものだ」と思っているはずです。

もちろん、業務に直接携わる本人たちだけでなく、担当業務が別の他の医療従事者たちも思っているはずですし、なんなら、きっと他ならぬ患者さんたちも有益だと思ってくださってることでしょう[4]と信じたいです

 

こうなると、こうした「効用の測定は困難なのに直観的には必要と感じられる医療関連行為」については、いったいどう医療資源の配給の議論の中で扱うべきか途方に暮れざるを得ないように感じます。

 

かといって、医療資源の配給の議論の中で扱うことを諦めてしまうと、それぞれの業務の中に潜む無駄なものや非効率な部分は改善されないまま黙認することになりますし、現実として業務が存在している以上、誰かがその業務のあり方について調整や判断はしないとはいけません。

 

繰り返しになりますが、これはほんと困ったものです。

 

 

ところで、この「測定できないもの」とどう向き合うべきかというのは、現代社会の隠された大きな課題の一つではないかと、最近よく感じています。

 

「測定できないものは管理できない」というドラッカーの名言は至るところで耳にします。

この名言の言うところは確かに正しいのではあるでしょう。

ただ、測定できないものが管理できないからといって必ずしも測定できないものが重要ではない、とも言えないはずです[5]もちろん、同時に、必ずしも測定できないものがすべて重要というわけでもありません

 

にもかかわらず、(この名言を誤解しているのかどうかは分かりませんが)測定できないものは扱いが困難だからと、ハナから向き合うことを諦めたり、軽視してしまっている傾向が今の社会にはないでしょうか。

 

たとえば、「測定できるもの」を扱うビジネスだったり研究の方が、その業績も「目に見えるもの」になりやすいので高評価を受けやすく、人気があります。

その一方で、「測定できないもの」は測定できないだけに、その業績が目に見えにくく、その結果、軽視され不人気となってないでしょうか。

その「測定できないもの」の中にも大事なものが含まれてるはずなのにです。

 

 

……おっと、なんだか、気づいたら画像診断の効用の話からだいぶ離れてきてますね。

でも、ともかくも「測定できないもの」とどう向き合うか、というテーマはけっこう大事なところだと思うんですよね。

一見離れているようでも、そういうところから地道に問題を紐解いていくことが、放射線科の体制がどうあるべきかを考えることにも寄与するのではないでしょうか。

 

 

以上です。ご清読ありがとうございました。

脚注

脚注
1 なお、ブレインストーミング的に、事前の結論の想定や筋立てのないままダラダラと考えを書き連ねてる回になりますので、悪しからず
2 Donabedian model風に言えば
3 なお、感度特異度といった検査性能や、clinical impact caseの拾い上げ等からでも、やはりQALY等の直接的で計量可能な患者の効用の推定に結びつけるのは難しいのではないでしょうか
4 と信じたいです
5 もちろん、同時に、必ずしも測定できないものがすべて重要というわけでもありません

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