おはようこんにちはこんばんは、江草です。
今日は、時々見かける「ワクチン拒否は正しい知識が前提でないと許さない」という言説の問題点を指摘しておきます。
ワクチン接種を勧めたい気持ちは分かるのですけれど、申し訳ないですが、あまり適当ではない言説だと思うので、それを注意喚起する記事になります。
問題となる言説
さて、個人を批判する意図はないのですが、具体例がないとイメージしにくいと思うので、やむをえず引用として提示しておきます。
医療従事者のワクチン拒否問題、前提となる情報が正しければ各々の判断は最優先されるべきだとは思う ただ当科のスタッフからは「メディアのデマor知識不足によるワクチン拒否」は絶対に出したくない 生後2カ月の赤ちゃんに何本も針を刺す科なのに、その意味を正しく理解してないなんて許しまへんで
https://twitter.com/Nom_nyan/status/1368938260165058561
これな。判断は個人の自由。でも「正しい情報に基づいて」が大前提。 受けたくない理由が「遺伝子が操作されるから」「不妊になるから」などは不可。
https://twitter.com/333march/status/1369069772210507783
たとえば、問題となるのはこれらのような主張です[1] … Continue reading。
善意と正義感、そして専門職としての責任感からの発言と思われ、その気持ちには大変共感はいたします。
江草自身もワクチン接種希望者ですし、また同時に、多くの方がワクチン接種するよう願っております。
しかし、その熱意に水を差すようで申し訳ないのですが、たとえ善意からの主張であったとしても、問題があるならばそれを指摘せざるを得ないのです。
判断は自由と言いながら扱いが非対称的
問題の言説の骨子を簡潔に整理すると、
「ワクチン接種の判断は個人の自由。ただし、判断は正しい情報に基づくことが前提。デマに基づく拒否は許さない」
というところでしょうか。
この言説の問題点を一言で言えば、「判断は自由と言いながら接種希望者と拒否者の扱いが非対称的であること」です。
接種希望者にも「正しい情報に基づいていること」を求めてるか
「接種の判断が正しい情報に基づくことが前提」であるならば、拒否者だけでなく、希望者にも正しい知識に基づいた判断であることが求められてしかるべきでしょう。
しかし、「接種の判断は正しい情報に基づくことが前提」とする言説の中で提示される例は「デマに基づいて接種を拒否をする者」ばかりで、「デマに基づいて接種を希望する者」が出てきません。
どうも、接種拒否者と異なり、接種希望者に対しては「正しい知識に基づいているかどうかを問う姿勢」が見られないのです。
たとえば、さきほど江草も接種希望であると言いましたが、もしかすると接種希望の理由が「フライング・スパゲッティ・モンスター神のお告げだから」かもしれません。
非常に妥当性が乏しそうな理由です[2]フライング・スパゲッティ・モンスター教徒の方には申し訳ないですが。
しかし、もし仮に江草が「接種希望です」と発言したとして、称賛されこそすれ、「正しい情報に基づいているかどうか」を彼らから問われることがありそうにない空気です。
つまり、ひそかにフライング・スパゲッティ・モンスターのお告げに基づいて接種を希望している人は不問になっているおそれがあるのです。
「判断が正しい情報に基づいているかどうか」が大事だとするならば、これは避けねばならない事態のはずです。
本当に「個人の判断は自由と考えてる」とは言えない態度
接種希望者には寛容なのに接種拒否者にはその根拠を問い詰める、と、接種希望者か接種拒否者かどうかで扱いに差を設けてるとなると、それは果たして「個人の判断は自由と考えている」と言えるのでしょうか。
特に、拒否者に対しては「許さない」や「不可」という高圧的な言葉も用いられています。
つまるところ、問題の言説を説く方々は「判断は自由」と言いながら、「接種しろ」という圧力を隠しきれていないのです。
これはおそらく「望ましいのは接種希望者である」という前提が念頭にあるからでしょう。
しかし、「自由だ」と言いながら、その前提を押し付ける圧力をかけるのは決して自由を尊重した態度とは言えません。
有給休暇の理由説明問題との類似
たとえば、同種の問題として「有給休暇取得の理由説明問題」があります。
本来、従業員が有給休暇を取得する際、理由を提示する必要はありませんが、慣例的に有給休暇取得希望者は「休む理由」を職場に説明することが求められてきました。
しかし、最近ではこの「休む理由の説明を求める空気」に批判の声が高まっています。
なぜかと言えば、希望者に取得理由を求めることそのものが、自由な有給休暇取得への抑圧につながるとみなされるようになったからです。
すなわち、「理由の要求」は、「休むことは望ましくない」という勝手な前提を従業員に押し付けているものであり、従業員の自由を尊重した態度ではないというわけです。
ワクチン接種拒否者に対して「正しい理由」を求める態度も同様です。
いくら言葉の上で「判断は自由だ」と言っていたとしても、一方の判断をする側にばかり「理由の説明」を求めるのならば、それは自由を尊重しているとは言えないでしょう。
たとえ社会的に望ましいとしても
とはいえ、有給休暇取得の問題と異なり、一つ擁護できる点があるとすれば、ワクチン接種は「努力義務」とされており、「接種が社会的に望ましい」という前提が既に確立されている、と見ることはできる点でしょう。
確かに「努力義務」という言葉からは「あくまで完全に自由ではない」という含意も読み取れます。
コロナ禍という緊急時に際しては、「全体の利益のためにある程度の自由の制限はやむを得ない」という功利主義的な発想も一理あるのは確かです。
ただ、もし功利主義的な「帰結を重視する発想」によってワクチン接種を強く推し進めたいと言うのだとしても、それならそれでそう言うべきで、あたかも「個人の自由」や「正しさの理解」を重視しているかのように訴えるのは少々誠意に欠ける態度ではないでしょうか[3]そのような欺瞞的態度も含め、良い帰結のために必要な「功利主義的行為」であるという判断かもしれませんが。
実際、たとえ接種が社会的に望ましいとしても、接種を強制する空気を作ることは政府的にも慎重な姿勢のようです。また、ワクチン普及のために発信されてる多くの方々も細心の注意を払って強制的にならないように努めているところかと思います。
そんな繊細な科学コミュニケーションが進んでいる中で、「許さない」「不可」といった高圧的な言葉を含み、判断の自由を抑圧するような内容の言説は、やはり適切ではないのではないでしょうか。
欠如モデルの危険な香り
そして、これは各言説を見ていて言外に感じる印象なのですが、どうも「正しい知識を得たら誰しも接種を希望しないわけがない」という暗黙の前提を置いてるのではないかと思われます。
そうだとすると、これがまたけっこうな問題のある考え方なんです。
「相手が無知だから判断を誤るのだ。われわれの持つ正しい知識を与えれば判断を変えるだろう」という考え方は、科学コミュニケーションの文脈では古くから「欠如モデル」と呼ばれ、特に慎重に扱うべき考え方とされています。
というのも、意外と人の判断は、科学的知識の有無だけでは左右されないことが分かっているからです。
その人はその人なりの知識や知恵をもって判断しているのです。
かの偉人ジョン・スチュアート・ミルも、古典的名著「自由論」の中で、こう語ってます。
ふつう、対立しあう意見は、一方が正しく他方が誤りというより、どちらにも正しい部分がある。常識的な意見に含まれる真理は部分的なものにすぎないため、常識に逆らうような意見も、真理の残りの部分を補うものとして必要なのである。
簡単にわかるようなものでない問題については、一般に流布している意見がしばしば正しいけれども、それが真理の全体であることはめったに、というか、絶対にない。あくまでも真理の一部分にすぎない。
それは全体の大部分であったり、ほんの一部分であったりもするが、ともかくそこでは真理が誇張され、ゆがめられている。本来なら、それに付随し、それに制約を加えるはずの別の真理部分は、そこから切り離されている。
これにたいして、異端の意見は、おおむね、抑えつけられ無視されてきた真理のいくつかが、抑圧の壁を打ち破って噴出してきたものである。
(中略)
ミル.自由論(光文社古典新訳文庫).光文社.Kindle版.
真理を見よと迫って、われわれの目を強引に開かせようとする人は、逆に、われわれに見えている真理が見えていなかったりする。人間のことを冷静に判断する人なら、そんなことについても、憤慨すべきものとは思わないだろう。
片方の持ってる「正しい知識」だけが全てということはないので、お互いの意見に耳を傾けるべきとする文脈です。
そう考えると、「正しい知識を持っていれば当然自分の意見に同意するはず」と考える欠如モデルは、正統・異端、どちらの側であったとしても、傲慢な態度であると言えるでしょう。
それに、人は「ないがしろにされた」「尊重されていない」「バカにされている」と感じると心を閉ざす生き物です。
欠如モデルに陥ると「正しい知識を教えてやろう」という上から目線な態度になりがちで、かえって対立を深める可能性も言われています。
なんなら、そういった「わたしたちの方が正しいですよ」という傲慢な態度に対して、嫌気がさして接種したくなくなってる可能性もあるわけです。
また、もし欠如モデルに基づいて「ワクチン拒否は正しい知識が前提でないと許さない」と言ってるとすれば、「正しく理解した結果、やっぱりワクチンを拒否します」と主張する人に対し、「いや、接種を拒否するということはお前はまだ分かってない、もう一度ちゃんと理解するまで学べ」と結局永遠に食い下がることにもなりかねません。
これは双方にとってあまり建設的な状態とは言えないでしょう。
つまるところ、こうした「欠如モデル」的な態度は問題が多く、「正しい知識を得たら誰しも接種を希望しないわけがない」などといった「欠如モデル」的な暗黙の前提を自分が持っていないかには常に注意深くあらねばなりません。
特に「判断は自由」と掲げているのであれば、なおさら相手の意見を尊重した「対話モデル」的な態度を取るべきで、「許さない」「不可」という言葉遣いは、そういう意味でもやはり傲慢に感じます。
相手が医療従事者ならばこそ
なお、もともとの例は一般大衆ではなく医療従事者を想定されたツイートでした。
なので、「大衆の場合はともかく、医療従事者ならば正しい知識に基づくべきだ」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。
確かにそれはその通りです。
医療従事者は専門職として正しい医学知識を求める姿勢が求められるのは間違いありません。
しかし、専門的知識の有無と、個人的価値判断の是非は別の話で、それを混同してはなりません。
それこそ「欠如モデル思考」に陥っています。
ある医療従事者が「接種したくない」と主張したからといって、ただちにその判断が不適当とは言えないのです。
また、「専門知識を有している」という前提(たとえ建前だとしても)があるはずの医療従事者相手ならばこそ、上から目線なパターナリズムはより正当化されにくく、反発を招きやすいでしょう。
ですので、医療従事者相手の際は、それこそ一般大衆相手の時以上に対等な立場として対話的態度で向かうべきです。
接種を望まない医療従事者に対し「正しい知識でないと許さない」と迫る態度は、むしろよりいっそう傲慢でさえあるように思います。
まとめ
というわけで、ざっと「ワクチン拒否は正しい知識が前提でないと許さない」という言説の問題点を指摘しました。
具体的には、
- 個人の自由だとしながら実際には片方の意見にかなり寄った要求を行っている欺瞞性
- 「正しい知識を持てば接種するはずだ」という「欠如モデル」的な思考の危険性
の大きく二点の問題点を提示しました。
念のため強調しておきますが、この記事で問題にしているのは、接種を勧める時の姿勢の話です。
「ワクチン接種をすべきでない」とか、「ワクチン接種を勧めるべきではない」とか、「正しい知識には意味がない」と言っているわけではありません。
江草も「ワクチンは接種した方がよさそう」と思ってますし、「勧めた方がよさそう」と思ってますし、「正しい知識には意味がある」と思っています。
むしろ、大事なことだと思うからこそ、接種を勧める時の姿勢についても細かいところを気にしているのです。
つまるところ、「ワクチン接種の勧め方」というのはなかなかに繊細な代物です。
「全体の利益」も「個人の自由」も可能な限り尊重するべく、とにかく慎重に丁寧にやってほしいなというのが江草の想いです。
以上です。ご清読ありがとうございました。
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