おはようこんにちはこんばんは、江草です。
今日は戸田山先生の「哲学入門」を読み終えたのでその感想を残しておきます。
面白くて、ワクワクさせてくれて、哲学への畏敬の念も抱かせる一冊
今日の本はこちら。
戸田山和久「哲学入門」 (ちくま新書)
待機リスト入りで、江草が積ん読してた本の代表格でしたが、この度ようやく読み終えることができました。
やーほんと、非常に面白かったです。
特に後半は「自由と責任の関係」や「刑罰を正当化できるか」など、現実社会の身近な課題にも近いテーマが多く、ワクワクした気持ちで一気に読めました。
もともと「論文の教室」や「教養の書」、「科学哲学の冒険」などで、戸田山先生の本の面白さは疑ってなかったのですが、この本も江草の中では殿堂入りレベルの楽しさでしたね。
特に「哲学入門」という大変ハードルの高いタイトルでありながら、実際に哲学という学問への奥深さを実感させ、畏敬の念まで呼び起こさせてくれる手腕はお見事という他ありません。
哲学にちょっとでも興味ある人、なんなら興味ない人にもオススメできる一冊です。
テーマは「ありそでなさそでやっぱりあるもの」
内容も少し触れておきますと。
本書のテーマは「ありそでなさそでやっぱりあるもの」です。
なんやねんそれ、となると思いますので、戸田山先生の説明を引用しましょう。
「ありそでなさそでやっぱりあるもの」とは、大雑把に言えば、日常生活を営む限り、あるのが当然に思われるが、科学的・理論的に反省するとホントウはなさそうだ、ということになり、しかしだからといって、それなしで済ますことはできそうにないように思えてならないもの、のことである。
戸田山和久.哲学入門(ちくま新書)(Kindleの位置No.153-156).筑摩書房.Kindle版.
たとえば、「ありそでなさそでやっぱりあるもの」の代表例は「意味」とか「自由」とか「道徳」とかになります。
普段、概念としてこれらはよく使うものの、科学的な視野に立って見ると「そんなもん本当にあるの」と、その存在が疑わしく思えてくる、そういう奴らです。
――でもそれでも「ありそでなさそでやっぱりあるもの」は「やっぱりある」。
これをひたすらに愚直に考察していくことで「哲学入門」という目的を果たすのが本書です。
「意味やら自由が『やっぱりあるもの』だと示すなんて到底不可能でしょ」と思われるかもしれませんが、この本を読むと「さほど考えずに簡単に不可能と思ってしまった私達が悪うございました」と言わざるを得ないぐらい、しっかりとした考察に圧倒されます。
一見して素人でも「無理だ」と思えそうな課題を設定することで、そうした難題に日々挑んでいる哲学という学問の息吹を感じられる素晴らしいテーマ設定だと思います。
ユーモアや例示がふんだんで楽しく読みやすい
でも、だいたい哲学というと、謎の単語がやたら出てきて、小難しい言い回しがいっぱい出てきて、わけわかんない話してるだけなんでしょ、というイメージですが、本書は違います。
他の戸田山先生の書籍を読んだことがある方は御存知の通り、ほんと楽しいユーモアにあふれた筆致をされる方で、本書も例外ではありません。
さすが「入門」と名乗ってるだけあり、新しく出た用語はすばやく説明が加えられますし、みんなが理解にひっかかりそうな箇所では、すかさずちょっと笑ってしまいそうな例示が登場するなど、随所に脱落をさせない、飽きさせないことへの配慮が見受けられます。
もちろん内容が高度なので、どうしても難しい箇所はないわけではないですが、これらの戸田山先生の工夫によって非常に楽しく読みやすい文章になっており、初学者にも安心の作りになってます。
最後はカタルシスとともに奥深さが心に染み入る
しかし、逆に言うとこれだけしっかりと脱落対策がなされていると、読者としても書籍中のロジックや主張について「この本が分かりにくいから分からないんだ」と言い訳ができないという恐ろしさが潜んでるとも言えます。
つまり、この内容が分からないのは、もしくは反論できないのは「本が分かりにくいからではなく、まだ自分が考えつくせてない未熟者だからだ」という現実を読者につきつけてくるんです。
実際、初心者が本を読みながらすぐ思いつくような反論やツッコミは、だいたいがすぐさま戸田山先生によって潰されてしまいます。
だいたいもう、初心者レベルでは完膚なきまでに反論できなくなっていくので、「ぐう」の音もでなくなります。ぐう。
そうして本書は丁寧に1つ1つロジックを積み上げていった結果、最終的に誰しも悩まないことがない「人生の意味とはなんぞや」という大テーマに1つの答えを提示するカタルシスを起こして締めくくられます。
紆余曲折ありながらも、そのパズルが一直線につながって、しかもそれがそうした身近なテーマに終着することで、「なるほどわかった」とまでは言えない自身の未熟さを痛感させつつも、哲学という営みの凄みと奥深さを初心者にも十分実感させられる素晴らしい構成だと思います。
経験帰納主義的な医学研究が拾い忘れてるもの
で、こうした自分では太刀打ちできないレベルの壮大な論理的考察の流れを見せつけられて思うのは、こういう考察は普段私たち医師が親しんでる医学研究界隈では少し忘れられがちな視点じゃないかなということなんですよね。
「エビデンス」「エビデンス」と言われて久しい医学研究界隈ですが、「エビデンス」というのは現実世界のデータを採って分析して結論を導く、経験論や帰納主義に基づいた考え方の概念です。
そうした「エビデンス」重視の考え方のためか、医学研究では、研究デザインやデータの準備の適切さを示す”methods”や、採れたデータや統計解析結果が示された”results”ばかりが重要視されて、”introduction”や”discussion”ひいては”conclusion”の論証の丁寧さが軽視されてる場合が少なくないように江草は感じています。
「この結果からそんな結論言える?」と疑問を抱かせるようなものとか、逆に、とにかくざっくり”further investigation is required”で強い主張を避け続けてたり[1]いつまでもfurther investigationするしかなくなっちゃいませんか。時折なんか少し物足りない気持ちになるんですよね。
ひるがえって、こうした哲学における学問としての営みは、ほんと論証の丁寧さがすさまじいので、対照的だなあと感じるのです。
もちろん、だからといって哲学が偉くて、医学などの科学が愚かだという話ではありません。
戸田山先生も本書で語っているように「哲学にできること、できないことはあって、最終的に決着をつけるのは科学だ」ということなんだと思います。
すでに進化学、動物行動学、霊長類学などが、表象、自由、道徳の進化に関係する知見を積み重ねてくれているのは確かだが、これらの知見を組み合わせ、統合された一枚の絵にしていくためには、全体の大まかなスケッチが必要だ。哲学者はそのスケッチを描く仕事をする。それ自体は、実証的裏づけの欠けた思弁にすぎないかもしれない。しかし、そのラフスケッチに細部を描き込み、経験的検証に耐える世界像に仕上げていく科学者の仕事はそれなしにはできない。
戸田山和久.哲学入門(ちくま新書)(Kindleの位置No.341-346).筑摩書房.Kindle版.
なので、いわば学問の両輪として、どちらが欠けてもいけない、それは前提です。
ただ、哲学側の演繹論証の丁寧さには医学側も見習うところは多分にあるんじゃないかなと江草は少しばかり思うんです。
以上です。ご清読ありがとうございました。
脚注
↑1 | いつまでもfurther investigationするしかなくなっちゃいませんか |
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