「お金」が社会への貢献を測定するための指標だとしたら、「時間」は「その人を大事にしていること」いわば「愛情」の指標になるのでしょう。
ついでに言えば、もうひとつ、「肩書」が実績の指標です。
雑にまとめると、「お金」が市場のロジック、「時間」が共同体のロジック、「肩書」がヒエラルキーのロジックといったところでしょうか。
それぞれのロジックが別の世界を歩んでくれている分には平和なのですが、いかんせんイッツ・ア・スモールワールドなので、往々にして、これらが混じり合って衝突してややこしいことになるのです。
会社に労働時間という「愛情」を注ぐ者を、金銭面や肩書で厚遇したり。
社会における肩書や資格で、もらえるべきとされる報酬が変わったり。
政治家が自身の肩書を維持するために、「あなたたちを大事にしていますよ」と各方面に「愛情」を配り歩くのに必要な「会食」というイベントがやめられなかったり。
誰かに時間を費やす代わりに、お金を払ったり、高価なプレゼントを贈ることで「愛情」を示そうとしたり。
なかなかの混線ぶりです。
この混沌が世の常態としつつも、昨今の情勢を見ると、「人が人と相対すること」の価値、いわば「人が人にかける時間という形での愛情」の勢力が劣勢になっている懸念があります。
「人が人に時間をかけること」を省く代わりに、「稼いでくること」や「働くこと」が、「家族や社会への愛のしるしである」としておきたい、そうした欲求や圧力を感じてしまうのです。
確かに、ある程度、お金で代用可能であったり代用せざるをえない場面はあるにせよ、「自分に向き合う時間を取ってほしい」という人の自然な気持ちをおろそかにはできないように思うのです。
自分は「お金役」、あなたは「愛情役」と分業することが、あたかも賢いことのように、あたかも実現可能なことのように人は振る舞っているけれど、それはかえって愚かで実現不可能な幻想に突入してしまっている感があるのです。
「お金役」に対しては「社会人」やらなんやらと名誉ある肩書が与えられて、「愛情役」に対してはたいした肩書が与えられないのも、この傾向を助長していると思います。
少なくとも、人が人に向き合う時間を取ることはもうちょっと見直されてもいい、そんな風に思います。
以上です。ご清読ありがとうございました。
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