マイケル・サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か?』感想文

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話題のマイケル・サンデル著『実力も運のうち 能力主義は正義か?』を読みました。

 

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今や社会を支配していると言って過言ではない「メリトクラシー(能力主義)」を強く批判する本書。

確かに大変面白く、2021年を代表する重要な一冊になると思います。

 

ただ、期待が高かったせいもあってか、個人的にはサンデル氏の論に物足りなさや詰めの甘さを感じる点もありました。

ざらっと一読しただけの印象なので、江草が単に誤読・誤解してるだけで、再読・精読すればまた異なる感想になるかもしれません。

でも、せっかくなので、最初の通読時の感想の記録として、良かった点と疑問に感じた点を混ぜながら以下に記してみたいと思います。

 

 

なお、本書の「解説」でも指摘されてることですが、最初に注意を。

一般的に「メリトクラシー」という言葉は、日本語では「能力主義」として訳され用いられてますが、両者の言葉の指す意味がニュアンスは異なるようです。

英語の”merit”という言葉は、あくまで「顕在化し証明された結果」である【功績】に近く、「人間の中にあって『功績』を生み出す原因と見なされているもの」である【能力】ではないと。

だから「メリトクラシー」も「功績主義」とするのが原義に近く、「能力主義」と呼ぶとニュアンスを取り違えるおそれがあるそうです。

ただ、もはや「能力主義」は書籍のタイトルにもなってますし、厳密な言い換えは難しい場面も少なくないので、本稿では追求するのを諦めて、カジュアルに「能力主義」や「メリトクラシー」の単語を使っていきます。

そのせいで、少しニュアンスがずれる場合もあるかもしれませんが、悪しからず。

 

 

「能力主義」そのものを批判のテーブルに載せた本書の意義

本書の意義は、「能力主義」そのものを明確に批判の対象にしたことです。

一般的な「能力主義」にまつわる議論の文脈は「不公平な能力主義」に対する批判にとどまることが多いので、これは本書の際立った特徴と言えます。

 

一般的な「不公平な能力主義」批判

よく見かける「不公平な能力主義」に対する批判とは、どういうものか。

 

たとえば、「入試での女性差別問題」。日本の医学部でも女性受験生の点数が一律減点されていたとして問題になりましたね。

あるいは「管理職へのガラスの天井問題」。女性の管理職が少ないことは長年問題視されていますが、これには構造的な障壁が隠されてるとする問題です。

または、「社会経済的資本の有無による教育格差問題」。大学入試は公平と言われながら、結局親が高学歴で裕福な家庭ばかりが高学歴になるという「世帯間教育格差の固定化」の現実が指摘されています。これは本当に「公平な競争」なのかと疑問の声が強まってるのはみなさんも感じてるのではないでしょうか。

 

これらに共通する議論の構造はこうなります。

現状を支持する者たちは「すでに十分に公平な競争条件なのだから、実力相応の結果に文句をつけるな。甘えるんじゃない。文句があるなら実力で上がってこい」と主張し、

現状を批判する者たちは「実力を発揮できない社会的障壁が存在しており、公平な競争条件ではない。下駄を履いて有利な条件でのし上がっただけの人たちが自分の実力のような顔をするな」と主張する、と。

つまり、両者は、現在の状況が「個人の実力を測る上で公平な競争ルールになっているかどうか」で対立しているわけです。

 

サンデル氏が「能力主義」そのものへの批判を明示するという衝撃

しかし、この両者の対立は、ある一点については共通していることにお気づきでしょうか。

すなわち、両者ともに「実力があるものが成功してしかるべき」とする「能力主義」そのものは共有しているのです。

批判の矛先はあくまで「能力主義を実現するために公平なルールかどうか」であって「能力主義」そのものではありません。

「能力主義」については批判するどころか、両者とも積極的に肯定してるとさえ言えます。

 

この現状を指摘した上で、満を持して「能力主義」そのものを批判するのが、本書でサンデル氏が行っていることです。

つまり、「たとえ理想的で完全に公平公正な競争条件下であったとしても能力主義の考え方には問題がある」とサンデル氏は主張しているのです。

 

もちろん、能力主義批判そのものは、哲学界隈では古くからある議論です。

しかし、現代社会で当たり前のように君臨している「能力主義」に対し、サンデル氏のような著名な人物が一般向けに、このことをはっきり問うのは大きなインパクトがあるでしょう。

ほとんどの人がまるで疑ってない「能力主義」そのものに対して、踏み込んだ批判を浴びせたことが、本書の一番の意義なのです。

 

 

サンデル氏は「能力主義」の何を問題視しているのか

では、サンデル氏は具体的に「能力主義」の何が問題と言っているのか。

この問題を語るためにサンデル氏が一冊費やしてるわけですから、江草がおいそれと書けるものではないのですが、なんとか重要なエッセンスと思われる部分だけまとめてみます。

 

サンデル氏の語る、能力主義の問題点は大きく3点に集約できそうです。

 

敗者の尊厳を完膚なきまでに叩きのめす

まず一つ目が、「敗者」の尊厳を完膚なきまでに叩きのめすことです。

 

「能力主義」が理想とする「公平で公正な条件下の競争」があるとしましょう。

すると、それはそれで競争なので、勝者と敗者が分かれていくことになります。

この時、「完全に公平で公正な条件であること」が敗者に言い訳の余地を許しません。

つまり、負けたのは「完全に自分のせいである」という疑いようのない生々しい事実を突きつけられることになるわけです。

これはあまりにも残酷な仕打ちで、敗者の尊厳が徹底的に損なわれることになると、サンデル氏は指摘しています。

 

実際、アメリカでの「ホワイト・トラッシュ」と呼ばれる人たち、日本での「キモくてカネがないおっさん(KKO)」や「弱者男性」と呼ばれる人たちの問題など、「白人」や「男性」という、有利な(少なくとも不利ではないと見なされてる)条件下にありながら「競争の敗者」と見なされている者たちの「尊厳の問題」はしばしば提起されています。

たとえ、「完全に公平な競争条件」を確立したとしても、能力主義はこの「敗者の尊厳」の問題を回避することはできないわけです。

 

勝者は傲慢になり、傷つき追い詰められる

一方の「勝者」は、公平な条件下の厳しい競争に打ち勝ったという自負心から、「傲慢になる」とサンデル氏は指摘します。 

 

もちろんこう言われると、「そんなことはない」と憤慨する「勝者」の方々も多いと思います。

ただ、東大生による強制わいせつ事件をテーマにした『彼女は頭が悪いから』という書籍も過去に話題になったように、やはり「勝者のおごり」というものはしばしば発生してしまってると思うのです。

 

サンデル氏の指摘の通り、この「勝者のおごり」の背景に「能力主義」が存在することは否めません。

ましてや「完全に公平公正な競争条件」が成立したならば、なおさら「勝者」は疑いようがない「勝者」で「優秀な者」であると自認しやすいでしょう。

「能力主義」を堅持するならば、この問題も対峙することを避けられないのです。

 

また、それでいて、勝者は勝者で決して幸せではありません。

「能力主義」を掲げる社会は、永遠に競争をし続け、自分の「功績」を提示し続けなくてはならない社会でもあります。

過熱する受験戦争、過労死、うつ、などなど。

私たちが、競争に追われ、傷つき、追い詰められてることを示唆する事例は枚挙に暇がありません。

この「傷だらけのエリート」の現状もまた、サンデル氏は問題として警鐘をならしています。

 

社会の連帯が失われる

そして、敗者が屈辱を覚え、勝者がおごり高ぶった結果、とうとう社会の連帯が失われることになります。

勝者と敗者に分かれた結果、お互いに共感できなくなってしまうわけですね。

すると、共に社会問題に挑む力がなくなり、社会はますます分解していくことになります。

 

裕福な人と、資力の乏しい人は、日々の生活で交わることがほとんどない。それぞれが別々の場所で暮らし、働き、買い物をし、遊ぶ。子供たちは別々の学校へ行く。そして、能力主義の選別装置が作動したあと、最上層にいる人は、自分は自らの成功に値し、最下層の人たちもその階層に値するという考えにあらがえなくなる。その考えが政治に悪意を吹き込み、党派色をいっそう強めたため、いまでは多くの人が、派閥の境界を超えた結びつきは異教徒との結婚よりもやっかいだと見なしている。われわれが大きな公共の問題についてともに考える力を失い、互いの言い分を聞く力さえ失ってしまったのも、無理はない。

早川書房 マイケル・サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か』p321-322

 

実際、昨今、日本でも「分断」の言葉がよく聞かれるようになりました。

「能力主義」に基づく競争が、共感の欠如や、「分断」の推進力になってるのは否めないと思います。

 

まさにこうした「分断」は今現在、アメリカに限らず世界中で起きていることではないでしょうか。

 

この私たちの社会に潜む喫緊の課題を、多数の具体的事例を紐解きながら、はっきりと問題提起したサンデル氏の本書はやはり貴重な一冊といえるでしょう。

 

 

サンデル氏の論に対する個人的疑問点

というわけで、本書は非常に良い本と思います。……思うのですが、読みながら疑問を覚える箇所がいくつかありました。

素人が言うのも恐れ多いところですが、サンデル氏の論の詰めが甘いような気がしてならないのです。

多分、江草の方が間違ってるんでしょうけれど、気になったものは仕方ないので、「何にモヤっとしたのか」をここからは記していきますね。

 

 

「勝者を称賛したい」というのも人の根源的な欲求では

まず、本書では基本的に「勝者への称賛」が悪者扱いされてますが、「勝者を称賛したい」という気持ちは人の根源的な欲求の一つな気がするんですよね。

 

たとえば、オリンピックの優勝選手に金メダルをあげたくなるのは直観的には自然な行いに思えます。最近で言えば、池江璃花子選手の五輪資格獲得には全国から祝福の声があがりました。

でも、そういう時に、自分が金メダルを取れなかった、五輪資格をもらえなかったからといって、「敗者の屈辱」に打ちひしがれるかというと、そうはならないと思うんです。ベタな言葉で言えばむしろ「勇気をもらう」ことだってあるぐらいでしょう。

つまり、こうした場面では、多くの人が、スポーツの優劣と人間・人格的な優劣が「別物である」とちゃんと線引ができ、割り切ることができてるの言えるのではないでしょうか。

 

もちろん、これがいざお金や学歴の話になった途端、「人格的な優劣」の判断に癒着してしまう現実は困った問題です。

ですが、「勝敗」と「人格」の接続を断てているケースがある以上、こうしたお金や学歴の話であっても、「人格的な優劣」につなげずに「勝者を称賛すること」は、現実的に難題ではあっても理論上は不可能ではないはずです。

 

なので、いきなり「敗者の尊厳を損なう能力主義はダメだ」とするのではなく、あくまで「勝者への称賛」と「敗者の人間的尊厳の維持」が共に保てる場面を現実に求めていく態度は間違っているとは言えないのではないでしょうか。

この「人格との接続」が、サンデル氏が批判する「能力主義」そのものだと言えばそうかもしれません。

ですが、江草の感覚では、これは「能力主義」の根本的な問題というよりは、単純に「能力主義」の運用上の問題のような気もするのです。

なんというか、他者あるいは自己の「能力の優劣」との向き合い方の問題ではないかと。

だから、サンデル氏の「勝者を称賛すること」を否定するような論調には少し疑問が残りました[1]サンデル氏も「勝者の称賛」を完全に否定してるわけではないのかもですが

 

 

リベラリズムへの思想的批判なのか実践的批判なのか

この「能力の優劣」と「人格の優劣」を接続しない努力の提案は、なにも江草だけが言ってるものではありません。

実際、「能力の優劣」と「人格の優劣」を接続するなと、ハイエクやロールズなどのリベラルの巨人たちが強調していたことは、サンデル自身も本書で指摘しています[2]ハイエクは「リバタリアニズム」に近い印象ですが、本書では「自由市場リベラリズム派」としてハイエクを扱っています

しかし、そのリベラル思想家たちの姿勢を肯定するのではなく、逆にあたかも「能力主義」の根源かのようにサンデル氏は批判しています。

ここが、江草にはどうも解せないポイントなのですよね。

 

確かに、現実として「能力主義」が君臨して、「勝者」が「傲慢」になってるのはそうでしょう。

でも、巨人たちが言及していることから分かるように、リベラリズムも思想として本来「そうならないよう注意しろ」と言ってはいるわけです。

にもかかわらず、現実としてそうなってるから「リベラル思想」はダメだというのは乱暴な論に感じます。

この理屈はリベラリズム批判としては不十分ではないでしょうか。

 

とくに、p214のあたりの記述は不思議な論の展開に見えます。

経済や学歴の面で優位な立場にある人びとに社会的評価が向けられるのは、ほとんど避けようがない。彼らがそうした優位性を、社会的協力という公正な条件の下で手にする場合はなおさらだ。リベラル派の人びとは、社会のすべてのメンバーが市民として等しく敬意を払われていれば、社会的評価の配分を政治的な問題ではないと答えるかもしれない。どんな技量や業績に称賛の価値があるかを決めることは、社会通念と個人の価値観の問題――つまり、善の問題であって、正の問題ではないのである。

だが、こうした回答は、名誉や評価の配分は最も重要な政治問題であり、古くからそう見なされてきたという事実を見落としている。アリストテレスは、正義が主として関わるのは、所得や資産の分配ではなく公職や名誉の分配だと考えていた。こんにちのポピュリストによるエリートへの反発は、おおむね労働者階級の有権者の怒りに駆り立てられたものだ。つまり、知的職業階級の人びとが大学を出ていない者に向ける蔑視――と彼らが見なすもの――に対する怒りである。善に対する正の優先を強調すれば、社会的評価は個人の道徳観の問題となり、そのせいでリベラル派はおごりと屈辱の政治に目が向かなくなってしまうのだ。

早川書房 マイケル・サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か』p214

この論が疑問なのは、「すべてのメンバーが等しく敬意を払われている」という前提から出発した論なのに、いつのまにか「大学を出ていない者に向ける蔑視」を批判する結論となっているからです。

「蔑視」が生じるなら、それは「敬意が不十分であった」だけではないでしょうか。いつの間にか前提がひっくり返ってるように思うのです。

もちろん実践として、敬意を十分に払うのが難しいというのは分かります。でも、それでは「すべてのメンバーが等しく敬意を払われていること」を目指す考えそのものを否定することにはなりません。

だから、この批判を受けても「そうですね。大学を出ていない者に蔑視を向けることはあってはならないですね」とリベラル派は反論するだけではないでしょうか。

実際、サンデル氏の「社会的評価が向けられるのが避けようがない」という認識は、「現実問題として難問である」という意味であって、思想そのものの「ゴール」の問題ではないわけでしょう。

 

つまり、現状の「リベラル派」が「リベラリズムの基本精神」を忘れて、傲慢になってしまっていると批判するなら確かに分かるのですけれども、思想として致命的欠陥があるかのように批判しているのは言い過ぎのように思うのです(見落とされがちという意味で弱点ではあるとは言えますけれど)。

 

もちろん、思想の問題ではなく、実践上の問題と割り切って、いくらリベラリズムが「全市民へのあまねく敬意」を理想として掲げていても、結局は実現できてないからダメだという論も可能とは思います。

でも、それこそ「実際として目的が達成できているか否か」で判断するという、いわば「思想の功績」を見る立場です。

それはそれで、サンデル氏は一種の「メリトクラシー」に陥ってしまってるのではないでしょうか。

 

  

サンデル氏の素朴すぎる大学入試くじ引き案

話は変わりまして。

サンデル氏は本書の中で、メリトクラシーな学歴競争への対策として、入試にくじ引きを導入することを提案しています。

ある程度の成績以上の者は選ぶけれど、最終的な合格者はもうくじ引きで決めてしまうというものです。

なかなか、わかりやすく斬新な提案なので、ネット上でも物議を醸していました。

 

学歴競争にランダム性を取り入れることにより、コントロール幻想を打破しようとする意図は分かります。

でも、いくらなんでも素朴な発想すぎて、簡単に回避され、解体されるだけなので、あまり意味がないと思うのですよね。 

そもそも、実のところ、(江草も経験者ですが)一部の入試ではすでにくじ引きは存在しています。

それで、じゃあメリトクラシーの対策になるかというと、無力すぎる印象です。

 

まず理由の一つは、クジで受かったという事実をもって「合格者が自分の実力で受かったわけではないことを自覚し謙虚になる」なんてことはおよそ起こりそうにないから、です。

「運も味方した」「努力を天は見てくれていた」「自分は祝福された存在なんだ」的に、結局は傲慢さを帯びるだけだと思います。

なんなら、下手に「神聖さ」を帯びるだけ余計厄介かもしれません。

 

もうひとつの理由は、クジのランダム性の導入に伴い、その学歴なり資格なりの「純粋な優秀さの指標」としての価値が低下した場合、結局はその代わりのものが出てくるだけだと思うからです。

優秀者だけが入れる私塾の入塾歴(「鉄緑会」とか)であったり、有名企業への入職であったり(グーグルとか)、さらなる専門性を謳う資格(専門医制度とか)だったりを、学歴の代わりに誇る人が出てくるだけでしょう。

というか、もはや現在進行系で進んでるとも言えます。

 

だから、サンデル氏の学歴をくじ引きで決める程度の案では、あまりに無力すぎる姑息的な対症療法にすぎないと思います。

これだったら、ブライアン・カプラン氏が『大学なんか行っても意味はない?』で主張している「高等教育は学歴競争のために形骸化しつくしているから、一回リセットするために教育への政府の投資や支援を一旦一切やめる」という過激な策のほうがまだ一理はあるのではないでしょうか。

 

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「労働賛美」という、サンデル氏のまさかの「メリトクラシー的」な結論

極めつけの本書の疑問点は、サンデル氏の、最終的に「労働賛美」に落とし込んだ結論です。

 

サンデル氏も言っているように今のメリトクラシーでは「大卒」「非大卒」で分断の線が引かれています。

そこを「労働賛美」に立ち返ることで、「非大卒の労働者の尊厳」を取り戻そうとする意図はわかります。

つまり、いわゆる職人的労働者やブルーワーカーの方々の尊厳を取り戻そうとしてる意図は分かるのです。

けれども、これはただメリトクラシーの戦線を後方に少し移動させただけにすぎないのではないでしょうか。

ただの「労働賛美」では、結局取り残される人が居ることは見逃せない問題です。

 

「労働賛美」で現行のメリトクラシーに対抗して、うまくいったとしましょう。

確かに、職人的労働者やブルーワーカーの方々の尊厳は取り戻せるのかもしれません。

でも、これは「大卒」「非大卒」で分かれていた分断の境界線が、「働いてる」「働いていない(働けない)」に移動するだけです。

これでは当然ながら、尊厳の線の後方に、賃金労働に従事していない「家庭内ケア従事者」や「障害者」たちが取り残されてしまいます。

こうなると、これらの人たちの尊厳を取り戻すことはできないばかりか、それこそサンデル氏が本書を通じて問題視していた「敗者の屈辱」を強調する効果まで出かねません。

 

いくら「非大卒労働者」の尊厳を取り戻すためと言え、ここまでせっかく徹底的にメリトクラシーを批判しながら、最終的な提案が「新たなメリトクラシーの構造」を持ち込むだけというのは、批判対象と50歩100歩でしかないように感じます。

 

このあたりについては、『ブルシット・ジョブ』で「労働賛美」の危険性に警鐘を鳴らし、ケア活動の重視を提言した、デヴィッド・グレーバー氏の方が慧眼だったように感じます。

 

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結局、メリトクラシーの敗者の尊厳を想うなら、その対策は合格ラインを動かすことではなくて、どう「社会の中での絶対的敗者」を作らないか、どう「競争での勝敗」と「人格的な優劣」との接続を断ち切るか、に尽きるのではないでしょうか。

これこそがメリトクラシーに対する唯一根本的なアンチテーゼになりえると思うのです。

もちろん、難しいことではあるのですが。

 

サンデル氏は現実論者なだけかも

もっとも、クジ引きにしても、労働賛美にしても、「手をつけやすいところからやる」という現実論としては意味はあると思います。

リベラリズムが語るような理想を言っても始まらないから、できるところからやると。確かに地に足がついた話ではあります。

 

しかし、ここまで一冊を通じて散々メリトクラシーの思想的問題を批判したのに、結局ちょっと小手先の対策であったり、メリトクラシーの戦線をずらしてみました、だけで終わってしまうのは、いくら現実的対策と言っても、どうも悲しいというか、寂しいというか、拍子抜け感が否めないのも事実です。

期待が高かっただけに少し物足りなさがあるのが正直なところです。

 

だから、本書におけるサンデル氏はよく言えば「現実論者」ではあるけれど、悪く言えばメリトクラシーの根本解決や正面衝突を「諦めた」ようにも見えてしまうのですよね。

それだけ、メリトクラシーに抗うことが人間社会にとって難しいことと捉えることもできますけれど。

 

 

さて。まとめます。

不完全燃焼感はいくらかありますけれど、これで本書の価値が毀損されるものではありません。江草が勝手にぶつくさ言ってるだけです。

やはり総合的には良書と言え、まさに現代社会に重大な宿題を突きつけた、みなが読むべき本であるとは思います。

 

まだまだ個人的には語り足りない部分がたんまりあるので、今後も折をみて本書を引いて、メリトクラシー関連の話を書くこともあろうかと思います。

よろしくお願いします。

 

 

以上です。ご清読ありがとうございました。

脚注

脚注
1 サンデル氏も「勝者の称賛」を完全に否定してるわけではないのかもですが
2 ハイエクは「リバタリアニズム」に近い印象ですが、本書では「自由市場リベラリズム派」としてハイエクを扱っています

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