端的に言えばインターネットは開きすぎた。
反インターネット論者としてのひろゆき
メロンダウト氏のこの表現が素敵すぎたので、今日はインターネットに関してのぼんやりした話を。
実を言うと、あんまりメロンダウト氏の記事やひろゆき氏とも関係ないような気がしますが。
Twitterというサービスの最大の罠は「思ったように気軽につぶやこう」という、アットホームな雰囲気を醸し出しておきながら、余裕でその発言が世界とつながってる危険な仕掛けが施されているところでしょう。
寓話『王様の耳はロバの耳』で王様の秘密をこっそり穴にしゃべっていたと思っていたら、それが思いがけず世間に王様の秘密を広めることになってしまったのと似ています。
違うのは、寓話の理髪師は意外にも王様に許されたけれども、Twitterでマズイことを発言した者は普通に人々に袋叩きにあいかねないことでしょうか。
自分としては日記帳に書いてると思ったら、事実上、駅前でメガホンを持って叫んでるようなものだった。
この認知的不協和はなかなかの恐ろしいものと思います。
もっとも、最近ではこの罠は周知が進んでおり、本当に日記帳に書くように気軽につぶやく者はおそらく減っています。[1] … Continue reading
しかし、多くの人が日記の延長線上のような本音を語らないようになった結果、ある種マナーが支配する行儀の良いインターネットになってしまいました[2] … Continue reading。
もちろん、これは良いことなのかもしれません。
しかし、初期のブログ文化を支えたようなインターネット民からすると、あの各々が思い思いに自由に発言し議論を交わしていた「自由な言論空間としてのインターネット」が賑わう夢が潰えたように感じることでしょう。
昨今、往年のアルファブロガーの面々が、ブログ文化の緩やかな衰退を感傷的に眺める投稿を相次いで発しているのは、こうしたことからなのだろうと思います。
振り返ってみるに、多分、江草も含めたあの頃の牧歌的なインターネット民にとって誤算だったのは、広大だったはずのインターネット世界が言論空間的に急速に「収縮」したことなのでしょう。[3]メロンダウト氏の「インターネットは開きすぎた」とは真逆の表現のようですが、実は同じ現象を視点を変えた言い換えです。
SNSという口コミの高速道路の整備と、人口の増加による高密度化で、どんどんインターネットは狭くなったのです。
たとえば、高速道路や新幹線が発達していない時代の日本では、隣の県(藩?)に行くのも一苦労でしたから、隣の県でさえ「遠い異国」でした。
だからこそ、文化も方言も異なっていたのです。
しかし、交通網が整備されて人の移動が容易になれば、隣の県なんてただの小旅行程度です。
通勤や通学で日常的に県をまたぐ人だって少なくありません。
そうして境界を越えて人が交流するようになれば、文化や言葉は混ざり合い、自然と一定のマナーや標準語に収斂していきます。
交通網や情報網の発達で世界中の距離が近くなったグローバル社会において英語が標準語化しつつあるのも同様の現象でしょう。
インターネットも同じで、急速に人の交流が高速化、スムーズ化した結果、「世界」が狭くなり、文化の統一が進んだのではないでしょうか。
また、かつては一部の人しか住んでいなかったインターネット世界に、大半の人口が入植してくるようになれば、当然ぎゅうぎゅう詰めになってきます。
すると、お互いのパーソナルゾーンを侵しあうことが増えて、衝突も増えてきます。[4] … Continue reading
少数の人口であった時には距離を取ったり話し合いでなんとかなっても、あまりに人が増えてくるとルールやマナーによる規範的コントロールが不可欠になってきます。
これもまた一定のマナーやルールに収斂する促進因子になってるのでしょう。
こうしたことで、広大だったはずのインターネット世界は、SNSといういわば「交通網であり情報網でもある高速道路」の発明や、レイトマジョリティも入植したことによる人口密度の急激な増加に伴い、事実上「村落」レベルにまで収縮してしまったのです。
狭いくせに人はやたらいるのに、他に逃げる場所もない、いわばブラックホールみたいな「村落」です。
そして、「村落」だからこそ互いの視線から逃げられず、文化とマナーが統一され、掟も厳しくなるのです。
さすれば、そんなところで、密かに日記帳に書くようなこと、怒られるかもしれない本音は語られなくなります。
もちろん、これはこれで行儀はよくなったのかもしれません。
しかし、盗聴器が仕掛けられてる前提で行うような会話が弾むはずもありませんし、大声で叫ぶ人物とくれば扇動者や宣伝マンにしか思えなくなれば興ざめです。
見た目上で行儀はよくなっても、何かそこにあった素朴な人間的な魂の一部はやっぱり消えつつあるように感じます。
こういう意味で、「自由な言論空間としてのインターネット」を夢見た、かつてのインターネット民の見立ては甘すぎたというか、正直言って的を外していたのでしょう。
別にこれは失敗だったとか、間違いだったということではありません。
もともとそんなコントロールできるような物事でもないのですから。
ただ、何事も予想通りにはいかないものだな、期待通りにいかないものだなと、逆に面白く見つめています。
多分、そういう意味で言えば、今の私たちが抱いてる将来のインターネット像も全然思いも寄らないものになってる可能性はあるでしょう。
でも、それにも失敗とか間違いとかはないにせよ、何か良いものになっていて欲しいなと期待はしてしまいます。
以上です。ご清読ありがとうございました。
脚注
↑1 | それでも声高に叫ぶ者は、もともと目立とうとしてるか、自分の言っていることが真に正しく隠すようなことではないと本気で思っているのでしょう |
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↑2 | もともと代表例としてTwitterの話をしてましたが、Twitterに限らずインターネット全般に同様の「王様の耳はロバの耳」的な性質はあるので、ここからインターネット全般に見られる傾向としています |
↑3 | メロンダウト氏の「インターネットは開きすぎた」とは真逆の表現のようですが、実は同じ現象を視点を変えた言い換えです。 |
↑4 | なにせ独り言を言っていたつもりでも、SNSのシステムがご丁寧に見やすいようにタイムラインにまとめ、他人にリコメンドしてくれるので、簡単に自分の発言が他人のパーソナルゾーンに突撃します |
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