> [!NOTE] 過去ブログ記事のアーカイブです 能力主義そのものの是非はともかく、社会で求められる能力の内容は変わり続けてきています。 たとえば、人類は歴史上長い間、「強い肉体」を持つものが優秀な者とされていましたが、昨今の高度専門化時代では「知力」が物を言うようになってきています。 社会のヒエラルキーの築き方が、武力による闘争から学歴競争に比重を移してきていることは、まさに社会で求められる能力が変遷していることの象徴と言えるでしょう。 しかし、最近では、ここにまた新たな風が吹いているように感じます。 それは「魅力」という能力の台頭です。 つまり、「剛の者」から「知の者」が奪った地位が、今度は「人気者」に脅かされようとしてるんじゃないかなと。 その担い手を具体的に言えば、インフルエンサーやタレントです。 もちろん、今まででも「人気者」は一定の地位を持っていました。 なんなら「剛の者」だって、社会において立場が皆無なわけではありません。 ただ、少なくともこの間までは最も人気があった能力はあくまで「学力」であって、「肉体的強さ」であったり「魅力」ではなかったはずです。 しかし、ここに来て社会での「魅力」の存在感が増してきています。 お察しの通り、そのきっかけはSNSの発達です。 個人が自身で発信を行えるようになった結果、「魅力」の地位が急上昇してきているのです。 子どもたちが将来なりたい仕事が「YouTuber」になり、インフルエンサーが高級車を何台も乗り回し、そしてその発言の影響力も多大なものになってきているのはみなさんも御存知の通りです。 インフルエンサーやタレントが知的エリートに対抗するような動きを見せているのは、まさに「知力」の時代から「魅力」の時代へのパラダイムシフトの表れと言えるでしょう。 たとえばDaiGo氏や中田敦彦氏など知的さをアピールしたインフルエンサーが人気ですし、逆にゆたぼん氏のように反知性主義を旗印にするYouTuberも出てきています。 これらは今の「知的エリート」が治めている地位を奪おうとしている動きのように思います。 というのも、かつて「知力」も「肉体的強さ」から地位を奪う時に同じようなことをしているからです。 知力を結集して作られた武器や兵器は、一人一人の肉体の鍛錬を凌駕する強力さを発揮しました。 もちろんだからといって、肉体の鍛錬が不要になったわけではありませんが、しかし「武力のフィールド」で「知力」が「肉体」よりも重要になったからこそパラダイム・シフトが起きたわけです。 そう考えると次は、「知力」が得意なフィールドを「魅力」が奪いに来ることがあっても不思議ではないでしょう。 「知力」が得意なフィールドの一つは説得力です。 なにせ「理屈が正しい」のですから、筋道だって理解してもらうことができさえすれば、説得力を有します。 しかし、どうにも現代社会では知的分野が高度に細分化されすぎてしまいました。 そのため、確かに実際正しいのかもしれないけれど、他の分野の人にはさっぱり分からないという状況が多発してきているのです。 つまり、正しさが先鋭化・高度化してしまったあまりに、結果として知的エリートの他人への説得力が弱体化してきているのです。 そのよろけた隙を「人気者」が奪いにきている形です。 誤った主張でも、口が上手で、それっぽく文献や書籍を引用すれば、それで多くの人に対して説得力を持ってしまいます。 それだけで十分、弱った「知的エリートの説得力」を凌駕してしまうことだってあります。 実際、専門家よりもインフルエンサーやタレントの言うことの方に人々がついていく事態も増えてきています。 また、能力主義社会の恩恵で好待遇に恵まれていた「知的エリート」は恨みも持たれやすい立場です。 しかも実際に傲慢な態度を取る「知的エリート」も少なくなかったことから、これぞ反撃のチャンスとばかりに「知的エリート」に反抗する「反知性主義」も勃興してきています。 このあたりは、まさしく先日レビューした書籍『専門知は、もういらないのか』が問題視していたところです。 [20世紀初頭まで、政治や知的活動への参加は一部の特権階級に限られていたが、 後の社会変化で門戸は大きく開かれた。それは人びとのリテラシーを高め、新たな 啓蒙の時代を招来するはずだった。ところが今、これほど多くの人が、これほど大量 の知識へのアクセスをもちながら、あまり学ぼうとせず、各分野で専門家が蓄積して きた専門知を...](https://amzn.to/2TE35vG) [アメリカの大学教授トム・ニコルズ氏による「反知性主義」への警鐘本の読書感想文です。 惜しいところはありつつも、現状の反知性主義問題の整理にとても良い本だと思います。](https://exaray.blog/the-death-of-expertise/) こうした「魅力」の台頭に「知的エリート」もただ黙っているわけではありません。 危機感の表れか、最近ではSNSでの発信に力を入れる知的専門職の人もかなり増えてきているようにお見受けします。 ただ、この動きは、逆に言えば、「知力」を有する「知的エリート」であっても、パーソナリティとして魅力を有することが必要になってきているとも言えます。 つまり、今後はやっぱり「知力」だけでは不足で「魅力」という能力も個人には求められてしまうこと、すなわち「知力」から「魅力」へのパラダイム・シフトが起こりつつあることを、前時代の覇者である「知的エリート」たちも追認していると見ることができるでしょう。 しかし、こうも「魅力」が重要になると、割を食うのが人気がない人たちです。 オブラートに包まずに言ってしまえば要は「嫌われ者」です。 今までは、人気がなくても、魅力がなくても、勉強ができさえすればなんとかなっていたのが、そうもいかなくなってしまっている可能性があります。 事実、「コミュ力が大事」とよく言われるように、発信の世界だけでなく、日常の生活や職場でさえ「魅力」に基づく能力主義は浸透してきているのではないでしょうか。 ましてや、魅力だけでなく、体力もなく、勉強もできない人々はこの社会で、いったいどういう立場に置かれてしまうでしょう。 多分、その悲鳴が「かわいそうランキング」や「弱者男性」、そして「反能力主義」の議論に含まれているのでしょう。 さて、ともかくも地位が急上昇している「魅力」という能力には厄介な特徴があります。 それは他者依存的なところです。 「知力」はまだ、客観的な「論理」という存在が基盤にあるので比較的安定した能力なのですが、「魅力」は違います。 なにせ人から好かれ、慕われてこそ「魅力」です。 しかし、その肝心の人の心というのが移ろいやすく儚い代物なのです。 自分の「魅力」を維持しようと移ろいゆく他人の心に合わせて言動をしているうちに、どうしたって不安定になり自分を見失いやすくなるでしょう。 「いいね」が付くかどうか四六時中気になったり、フォロワー数を増やすことに躍起になり危険で過激な行為に手を出したり、他人の顔色ばかり見ているうちに何かがおかしくなってしまう。 まさに昨今、問題となってる現象ですよね。 こうした「魅力」の他者依存的な性格は、ベストセラー『嫌われる勇気』が提示したアドラー心理学の思想とも逆行するところです。 アドラー心理学が正しいかどうかはさておき、少なくとも、こうも他人任せの不安定な人生になるとすれば、確かにそれは幸せになるのは難しそうに思うのです。 これから本格的に始まってしまうかもしれない「人気者」の時代。 ここまでつらつらと語ってきたように心配な点が山積みです。 さて、私たちはどう泳いだものでしょうね。 以上です。ご清読ありがとうございました。 #バックアップ/江草令ブログ/2021年/5月