学んだり、成長したい時は、自分を不快な状態に置けと、どこかで読みました。
確かに、そんな気はします。
快適な状態というのは慣れ親しんだ環境に居るだけの場合が多く、新しいものとの遭遇を無意識のうちに避けてる帰結である可能性は否めません。
不快な状態というのは、自分が居たことのない環境に身をおいてみたり、やったことのない行動をしてみたりしている時の心理的サインではあるのでしょう。
江草も、ここんところ毎日ブログ更新する習慣をやってみてます。
この習慣、快適かというと、そんなことはなく、正直ちょっと不快な面は否めません。やっぱり毎日書くのは大変です。考察と執筆で寝不足になってしまってる時もあります。
ただ、毎日書いてることによって、考えが整理され、新しいアイディアも出やすくなりました。わずかながら文章を書く能力も上がったかなという感触もあります。
不快なものに学びがあるというのは、一つの真理だなあと感じます。
ただ、厄介なのは「不快なものなら何でも学びになる」というわけではないことです。
体験として全く学びにならないものはほとんどないとは思いますが、それは「あれはやってみたけど無駄だったことが分かった」という意味での学びもしばしばです。
そういうものを「不快だから学びになってるはず」と延々と続けてしまうと、それは当然無駄なわけです。
「不快かどうか」だけで学びの有無は決まらないと考える方が賢明でしょう。
また、そこに確かに学べる有意義な内容があったとしても、「不快」を通り越して「危険」の領域に至ってる場合もあります。
分かりやすい例は「やりがい搾取」でしょう。「君たちが不快なのは分かっているが、それは成長につながってる証拠だ」などと言って、エラい人が部下などの他人を過度に追い込む行為です。
これは「不快なものが学びになる」のスローガンを悪用、誤用してるわけです。
確かに、人生、学びのために不快なことを許容しないといけない場面は少なくないのですが、その手綱を完全に他人に委ねてしまうのは危険なのです。
もちろん、そうなると、自分の意思で不快な状態に飛び込む勇気が必要になります。
言葉で言うと簡単ですが、これがなかなかできないんですよね。
人間はあれこれ「できない言い訳」をして、挑戦を先延ばししがちな生き物なので。
そういう意味では、厳しい目を注いでくれる他者の存在もやはり必要かもしれませんね。
難しいところですが、「不快な状態」を避けすぎず、かといって自分を追い込みすぎて「危険水域」にまで至らないように、バランスを取るのが肝要なのでしょう。
世の中、新年度になったところです。
今ちょうど新環境で「不快」な状態にある方は少なくないかもしれません。
ちょうどいい機会です。
今の自分が感じている「不快」は、適切な「不快」なのか、ちょっと考えてみると面白いのではないでしょうか。
以上です。ご清読ありがとうございました。
コメント