読んだことを隠しておく方が良かったかもしれない。
そう思いつつも感想文を書かざるを得なかったのは、江草の最期の意地なのでしょう。
近藤康太郎氏「三行で撃つ 〈善く、生きる〉ための文章塾 」を拝読しました。
今日は、そういうお話です。
江草は毎日ブログを書いています。思考の習慣づくりによいです。
ただ、毎日書いていると自分の文才の無さにも否応なしに気付かされてしまうものです。
せめてもう少し文章がうまくなりたいと、時々文章術の本を読んでいます。
ここ数ヶ月で何冊目の文章術の本だったか自分でも分かりませんが、今回行き当たった書籍がこの「三行で撃つ」でした。
著者の近藤氏のことは存じませんでした。
ただ、amazonレビューが高評価で充満していたので、購入してみたのです。
近藤氏は朝日新聞社記者のベテランです。最近、急に地方へ移住して、猟師もされてるとのことで、本書内でも猟に例えた表現が多々出てきます。
タイトルにもなっている「三行で撃つ」も、「初発で仕留めないと読者は逃げるぞ」と、まさしく猟をモチーフとしたものです。
そして、本書に江草は初発どころか全ての”弾”をど真ん中に撃ち込まれ、ワンホールショットで”射殺”されることとあいなったのです。
“射殺”はもちろん比喩です。
ただ、心を射抜かれたのと同時に心に”痛み”を感じさせられた点で、まさに”射殺された”と言っていいでしょう。
文章術の本を読むと、多かれ少なかれ自分の文章の不出来さを恥ずかしく思い、”痛み”を覚えるものです。「こういう文章はダメだぞ」という注意点が大体の場合自分の文章にも当てはまるからです。
しかし、いくつか読んだ中でも本書のような「逃げ場を全て封じられる感覚」は初めてで、まさに猟の獲物になったようでした。
「書き出しでつかめ」と素朴な文章テクニックの導入でグッと本書に引き込まれたら最後、いつのまにか「自分の生き方」を問われるところまで追い込まれます。
流行語は、流行しているときに使ってはいけない。なぜなら、みなが使っているから。みなが、その言葉によって、同じような感覚、判断、思考、世界を想起しようと努めているのだから。みなが、判断停止、思考停止をし始めている証左なのだから。
流行語を使うとは、世間に、言葉を預けることだ。言葉を預けるとは、自分の頭を、自分の魂を、世間に預けることだ。うわついて、邪悪で、移り気で、唾棄すべき、しかしこれなしにはどんな人間も生きられない「世間」という怪物に、自分をそのまま預けてしまうことなのだ。
なぜ、わざわざ文章など書くのか。
みなが見ていること、みなが感じていることを、見ないため、感じないためだ。感性のマイノリティーになることが、文章を書くことの本質だ。
近藤康太郎.三行で撃つ〈善く、生きる〉ための文章塾(Kindleの位置No.652-660).CCCメディアハウス.Kindle版.
言葉にならない感情、言葉に落とせない思想は、存在しない。言葉にならないのではない。はなから感じていないし、考えてさえいないのだ。
この本の主張の、根幹であり、要諦であり、最初で最後だ。
近藤康太郎.三行で撃つ〈善く、生きる〉ための文章塾(Kindleの位置No.1178-1180).CCCメディアハウス.Kindle版.
――常套句や流行り言葉を用いた「借り物の表現」は他人や世間に自分を預けているだけ。
――自分で自分の言葉を紡ぎ出せないのであれば、何も感じてないし、考えてない。
本書の全編に渡って強調されるメッセージには、恥ずかしいを通り越して黙り込むしかありませんでした。
こんなことを言われると容易には書けません。他人の表現、流行り言葉、当然日々使ってます。
しかし、自分の言葉で書かなければ「自分が存在しない」という自己存在の危機です。
苦しい局面過ぎて投了したいのに投了することは許されない、指し続けるしかない。
「文章がうまくなりたい」という素朴な願いから、まさかここまで自分を問われることになるなんて。
少なくとも本書を読んでしまった以上、自分の文章と向き合わざるを得なくなってしまいました。
もちろん、素人で、文才もない凡庸な人間の文章が急に変わることは難しいでしょう。
でも、江草は文章が書きたいので、苦しみながらも変えていくしかありません。
なので、早速、本書で学んだことを意識して、ブログの文章のスタイルも変えてみました。
今までとは書き出しが全然違います。
しれっと変えることもできたのですが、それではまだ自分と向き合いきれてないような気がして、ちゃんと変えたきっかけを告白することにしました。
今後とも自分なりに頑張っていきたいと思います。
以上です。ご清読ありがとうございました。
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