人は、知ってしまうと辛いから、わざと知らずに済むように努めたり、知っていても知らないふりをしたりすることがあります。
この橘玲氏の記事で指摘されている「非正規公務員の現実」なんてまさにそういう話でしょう。
2015年、27歳の森下佳奈さんが多量の抗うつ剤や睡眠導入剤を飲んで自殺した。佳奈さんは臨床心理士になることを目指して大学院で勉強し、卒業後、「障害のある子どもたちや何らかの困難を抱える人たちに寄り添う仕事」に就きたいと北九州市の子ども・家庭相談員の職を選んだ。だがその条件は年収200万円程度の任期1年の非正規で、それに加えて上司から壮絶なパワハラを受けることになった。
誰もが知っていながら報じられない「労働者」以前に「人間」としてなんの権利も認められていない非正規公務員の現実【橘玲の日々刻々】

困ってる人の役に立ちたいとの願いから、真剣に学び、いざ職についた人が過酷な待遇の末、自殺に追い込まれた――。
耳をふさぎたくなる、あまりにもひどい話です。
江草自身も過去にある人から、
「優しすぎたためにひどい目にあうんだったら、最初から優しくあるように指導する教育をしなければいいのに。もっと抜け目なく生きるように教えてくれたらいいのに」
と涙ながらに言われて、返答に窮した記憶が蘇りました。
返す言葉がなかったのは、実際にその指摘はもっともすぎたからです。
江草自身、悔しいことに、この世の中は本当にそういう残酷な側面があると思ってしまっていたからです。
「優しい人や善い人が報われるはず」と考えるのは「公正世界仮説」というバイアスで知られています。
残念ながら世界は人の徳には無頓着で、善人だからといって必ずしも報われることはないし、悪人だからといって必ずしも罰が当たることもありません。
でも、やっぱりもっとなんとかならないか、とは思ってしまうのですよね。
自分は善人であり、高い能力があるからこそ、この高待遇にふさわしい、そう思い込めれば気分は良いし、幸せです。
だから、特に成功している人には、耳が痛い話をわざわざ聞かないインセンティブがあります。
知ってしまったら、自分の良心の呵責に悩まされますし、自慢の能力も「たまたま運がよかっただけではないか」と急に色あせてしまうので。
それに、最初から知らなければ、なにかの拍子に責められた時も「だって知らなかったんだ」と言い訳もしやすいです。
それで、時に、人は知らないことを選びます。
なんなら、自分が知らないという事実さえも知らなければ、全く恥ずかしい思いをしなくて済むのです。
だから誰だって知らなくていいなら知りたくない。
でも、それでもできる限り知ろうとすることに何か価値があるんじゃないかなと。
知った上で生きることに何か意味があるんじゃないかなと。
江草個人的にはそう思いながら生きてきました。
ただ、やっぱり無力感もありますし、そう言いながら、他方では抜け目なく動いてる自分自身もいて、自己満足や偽善なのかなあと悩むことは多いです。
どうしても最終的には我が身だったり、家族の安寧を優先してしまいます。
でも、それでもせめて、
この恥や罪の感覚ぐらいは抱きながら在ることが、
自分の恵まれた境遇に感謝しながら生きることが、
知ることのアンテナを広げることが、
嫌な話でも考え続けることが、
ちっぽけな自分にとって何とか最低限できることなのかなと。
それで許されるなんてことはないと思うんですけれど、せめてもの償い的に、と思ってはいるのです。
以上です。ご清読ありがとうございました。
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