選択的夫婦別姓を支持する論法の注意点

クリティカルシンキング

おはようこんにちはこんばんは、江草です。

今日は、選択的夫婦別姓の議論を見ていて気になった論法についてのお話。

 

江草は選択的夫婦別姓支持派です

丸川大臣をきっかけに、選択的夫婦別姓に関する議論が高まってますね。

 

一応、前提として冒頭に書いておきますが、江草も選択的夫婦別姓支持派です。

 

女性の先生方の医師免許の姓変更の大変さや、論文業績等々の名前の不一致問題などの苦労話を見るにつけ、そりゃ選択的別姓がいいでしょとは思っています。

 

なんなら、もはやみんながみんな、アカウント名やら、ユーザー名やら、ハンドルネームやら、個人が100の名前を持っていてもおかしくない時代です。

なので、姓どころか名前もある程度自分で好きに決められてもいいんじゃないか、なんて思ってる自由主義過激派ですらあります。

 

どうも気になる、選択的夫婦別姓を支持する論法

しかし、そんな選択的夫婦別姓支持派の江草ではありますが、支持派の方々がよく使う論法でどうも気になってしまうものがあります。

 

それは

「反対派にまで別姓にしろと強制してないのだから、同姓にしたい人は同姓にしたらいいじゃないか。別姓を選択したい人の選択を邪魔する必要はないだろう」

という論法です。

 

これ、割とよく見かけるのですが、反対派の主張に対しての適切な反論になっていないので、議論の際に用いるのはあまりよくないんじゃないかと思うのです。

 

反対派の主張をすり替えてしまっている

まず、落ち着いて整理してみましょう。

 

「選択的夫婦別姓」に反対する人の基本主張はなんでしょう。

 

そう、「夫婦別姓を選択できてはいけない」ですね。

 

厳密に言えば「全員夫婦別姓であるべきだ派」も「選択的夫婦別姓」に反対するはずですが、そういう派閥は極めて少なそうなので、今回は無視しましょう[1]さらに厳密にはもっともっと色んな可能性がありますが、記事の本題からどんどんはずれていくので今回は省略します

ですから、「選択的夫婦別姓」に反対する人は「夫婦別姓を選択できてはならず、全員夫婦同姓であるべきだ」と主張していると言えます。

当たり前のようですが、ここを押さえるのが肝要です。

 

さて、こうした「全員夫婦同姓であるべきだ」と主張する人に対して、「あなたは同姓にしたらいいでしょ」と言うのは適切な反論になっているでしょうか。

なんか変ですね。

これは、「全員夫婦同姓にするべきだ」と主張する人に対して、いつの間にかその主張を「自分は夫婦同姓でありたい」にすり替えて応答してしまっているのです。

 

もっとシンプルに言えば、

A「xだけでなく、xとyで選択可能にしたい」
B「いや、全員xであるべき」
A「あなたはxを選んだらいいでしょ。私はyを選ぶから」

と、応じてるようなもので、議論が噛み合ってないのは明白でしょう。

 

もちろん確かに「選択的夫婦別姓」を「強制的夫婦別姓」と勘違いしている人が存在している可能性も否定はできません。

だからといって、「あなたは同姓を選べばいいだけ」と声高に主張しつづけるのは、「反対派は強制的夫婦別姓制と勘違いしている」と決めつけており、相手を「愚か者」と前提しているように聞こえかねません。

そうなると、反対派も「支持派は相手の主張を聞く耳も持ってない」と応じる口喧嘩に発展してしまう危険性があります[2]もう発展しちゃってそうですが

 

「当人たちの問題なのだから邪魔せず自由に選ばせて」の罠

また、今回の支持派の主張に含まれる「当人たちの問題なのだから邪魔せず自由に選ばせて」というロジックも、気持ちとしては江草も大筋で共感するものですが、これはこれで限界があることは知っておくべきでしょう。

 

「なんでも自由選択で良いか」というのはけっこう厄介な話なのです。

 

例えば、バイク乗りの方が「運転中にヘルメットをかぶるかどうかは自分の問題なのだから自由に選ばせて欲しい」と主張したとして、どう思われるでしょうか。

「いや、ヘルメットかぶりなさいよ」と思われる方が多いのではないでしょうか。

でも、ヘルメットをかぶらないでリスクを帯びるのは基本的に本人です。なぜそれを本人に自由に選ばせてはいけないのでしょうか?

 

ヘルメット着用義務の議論ほど極端なものでなくても、他にも、選択の自由を認めるかどうか難しいケースは多々あります。

 

たとえば、

喫煙はしてもよいかどうか。

出生前診断は自由化してよいか。

危険な冬山登山は好きに行っていいか。

緊急事態宣言中に飲みに行くのはどうか。

 

いかがでしょう。

 

これらについては、意見が分かれる面もあるのではないでしょうか。

おそらく、選択の自由を認める時は「本人の勝手の範囲」と考えてるし、選択の自由を認めない時は「選択解禁による社会への悪影響」を懸念してると思います。

 

これらの例でさえ全て自由で良いと考える人も、相当なリバタリアン[3]自由原理主義者でなければ、この世の何かしらは「それはさすがに自由選択はまずいのでは」と思うものもあるはずです。

 

だから結局のところ、このような、私たちが「さすがに自由選択はまずい」と思うものごとを見た時の気持ちが、選択的夫婦別姓反対派の人たちが「選択的夫婦別姓」を見た時の気持ちなのではないでしょうか。

そういう気持ちの人に「あなたは同姓にすればいいでしょ」と言い切るのは、「あなたはヘルメットをかぶればいいでしょ」と言われているように聞こえるはずです。

これでは、彼らに「いや、そういう問題じゃないのですが」と拒否反応や反発心が生まれてくるのも仕方がないでしょう。

 

個別事例で丁寧に議論するしかない

というわけで、「同姓にしたい人は同姓にすれば」という論法の危険さはなんとなく感じ取っていただけたのではないかと思います。

 

つまるところ、これは各自の理想の社会像を追求するために「どこで自由の境界線を引くことにするか」を考える線引き問題なのです。

各自の価値観に左右され、どこが正解か一意に決まってるような問題ではないのですから、個別事例ごとに皆で十分に語り合うしか仕方のない問題です。

 

ですから、選択的夫婦別姓の支持を広げるのであれば、選択的夫婦別姓制によるメリットと意義の提示、選択的夫婦別姓制になることによる反対派の懸念の解消、などを愚直に丁寧にやっていくしかないのだと思います。

なにごともコツコツやるしかないということでしょうね。

 

以上です。ご清読ありがとうございました。

脚注

脚注
1 さらに厳密にはもっともっと色んな可能性がありますが、記事の本題からどんどんはずれていくので今回は省略します
2 もう発展しちゃってそうですが
3 自由原理主義者

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