> [!NOTE] 過去ブログ記事のアーカイブです 先日また医学部の大規模研究不正が明らかになりました。 [論文142本に不正 昭和大の元麻酔科講師、20年に解雇 - 日本経済新聞昭和大学は29日までに、医学部麻酔科学講座の講師だった上嶋浩順氏が2015~20年に発表するなどした計142本の論文に不正があったと発表した。うち117本に捏造(ねつぞう)や改ざんがあったとして取り下げを勧告。昭和大は20年5月、上嶋氏を懲戒解雇し、監督する立場だった共著者で教授の大嶽浩司氏を降格処分とした。日本麻酔科...](https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE290YT0Z20C21A5000000/) 昭和大医学部元講師の上嶋浩順氏が142本もの論文で不正を働いていたとのこと。 唖然としますね。 この問題の詳細については、研究不正問題に造詣の深い榎木英介先生の記事が参考になります。 [大規模研究不正ふたたび〜医学界は自浄能力を示せるか(榎木英介) - 個人 - Yahoo!ニュース昭和大学が麻酔科医が関わる研究不正の調査を公表した。研究不正があったとされる論文は100報を超える。繰り返される大規模研究不正に、医学界は向き合うことができるか。](https://news.yahoo.co.jp/byline/enokieisuke/20210529-00240304/) 榎木先生もご指摘の通り、日本の医学領域における研究不正は世界的にも悪名高く、論文撤回ランキングで日本人医師が上位を占めているという嘆かわしい状態です。 当然以前からずっと日本の医学界の体質の改善を求める声があったわけですが、今回の大規模研究不正の発覚により、ますます失望が広がったことになります。 しかし、なぜこうも日本の医学領域での研究不正は多いのでしょうか。 榎木先生も上の記事で考察されてるので、それでほぼほぼ十分な気もしますが、江草も勝手ながら私見を述べてみます。 まず、あえて楽観的な仮説にも触れておきます。 というのは、ほんというと「日本の医学界の研究不正が世界に比べて多い」という前提自体を疑うことは可能だからです。 たとえば、諸外国の方が実は日本より研究不正が多いのに、それをかばい合う文化があるとか、よりバレにくい巧妙な方法が取られてるなどして、むしろ誠実に不正を監視している日本の方が研究不正が見つかりやすく論文撤回ランキングが上昇する、というストーリーです。 実際に研究不正は諸外国でも少なからず発生しており、どの国であっても無縁とは言えません。見かけ上の論文撤回数ランキングだけでは実態を正確に反映していない可能性はあります。 ただ、「日本の医学界はむしろ研究倫理に精通しているから研究不正が多く発覚するだけだ」というストーリーにはやっぱり違和感があります。 幸いにして江草自身は人に恵まれて在学中は平和に過ごしていましたが、一方で知人や友人から研究倫理に関わる大学内のひどい話を聞くことが少なからずあったからです(しかも表面化していません)。 これはあくまでナラティブで経験的な話ですので厳密な根拠とまでは言えませんが、そういった話を聞くに、少なくとも日本の医学界が研究倫理に精通しているとは思えないのが個人的な印象です。 また、「論文撤回数が多い悪質な人物がたまたま日本人医師に集中しているだけで日本医学界全体としては不正は少ないのだ」という主張もありえます。 もちろん理論上の可能性としてはありえます。 ただ、これはたとえば「五輪の柔道の競技のメダリストを日本人が独占したとしても、日本は柔道が強いとは言えない」と主張するぐらい現実には不自然な意見ではないでしょうか。 一部の突出した人材(?)が出るのはあくまで突然変異だと切り捨てるよりも、背景には広い裾野がある「氷山の一角」であると考えるのが自然に思います。 それに、もしも実際に研究不正が横行していた場合に医学という学問の体系や存在意義そのものの損失が甚大であることを考えると、あえて楽観的な仮説に乗るのは危険ではないでしょうか。 たとえば、見逃した時の帰結が重大な検査結果は偽陽性の可能性があったとしても慎重に対応するのが医療のセオリーです。 それと同様に、論文撤回ランキングや今回の大規模不正の報道を受けて、楽観的に放置するのではなく、日本の医学界では本当に研究不正が多発しており、不正を促すような構造的な問題が何かあるのではないかと悲観的に捉えることから始めるのが妥当でしょう。 というわけで、前置きが長くなりましたが、ここからは「日本の医学界の研究不正が世界に比べて多い」ということを前提として話を進めます。 研究不正が多発している原因を考える上で、まず押さえないといけないことは、「この原因を特定の個人や教室の問題にとどめてはいけない」ということです。 残念ながら昭和大の調査報告書や日本麻酔科学会の調査報告書による原因分析はどうも「悪質な個人や教室固有の問題」にしようとしているきらいがあります。 [昭和大学『昭和大学における研究活動の不正行為に関する調査結果概要』-(PDF)](https://www.showa-u.ac.jp/news/albums/abm.php?d=3059&f=abm00027815.pdf&n=%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E7%B5%90%E6%9E%9C%E6%A6%82%E8%A6%81.pdf) [日本麻酔科学会『上嶋浩順⽒論⽂に関する調査報告書』-(PDF)](https://anesth.or.jp/img/upload/ckeditor/files/2105_34_700_1.pdf) 榎木先生もご指摘の通り、麻酔科学会の報告書の方は「ほどんどの大学に共通する構造的問題」にも触れていますが、あくまで主因子とはしていません。 確かに、両報告書が言う通り、今回のケースも「倫理観の欠如した悪質な個人や教室」が直接的な原因であったとは言えるでしょう。 ただ、「日本の医学界の研究不正が多い」という前提をふまえれば、すなわちそうした「悪質な個人や教室」が日本の医学界に多いことになるわけで、それならやはり日本の医学界自体に「悪質な個人や教室の発生」を促す背景因子があるのではと疑うところまで踏み込むべきです。 これはたとえば、肝細胞癌を頻回に繰り返す患者さんを診た時に、背景の肝臓そのものに肝硬変などの「肝細胞癌が多発する素地」があるのではと疑うのが自然なのと同じです。 肝細胞癌の発生を見て「この理由は肝細胞が癌化したからだ」とする説明は間違いではありませんが、あまりにも表層的すぎて診療における分析としては十分とは言えないでしょう。 背景に潜む肝硬変などの肝臓自体の要因、さらにはその要因を生んでる肝炎ウイルスなどのより深層の要因へと視線を移してこそ、治療や予防につながる意義のある「診断」です。 その意味では、個人や教室の研究倫理の欠如に要因を求める傾向が強く見える両報告書は、日本の医学界の不正体質に対する「診断」としては残念ながら満足いかないものと思います。 さて、さきほども少し触れましたが、研究不正は日本の医学界だけでなく、古今東西、世界各国や医学以外の他領域でも広く見られる悩ましい問題です。 たとえば、普遍的な研究不正の事例や構造を紹介した書籍としては『背信の科学者たち』が有名ですね。 [背信の科学者たち 論文捏造はなぜ繰り返されるのか?「読み返して驚いた。この本には、捏造をはじめとする、科学者の欺瞞がすべてといっていいほど網羅されている。STAP騒動について議論されているさまざまなことは、この本からみればデジャヴにすぎない」 仲野 徹氏(大阪大学大学院・生命機能研究科教授)。ピューリツァー賞を2回受賞したウイリアム・ブロードと 『サイエンス』『ネイチ...](https://amzn.to/3y6prop) この書籍でも出てきてたかと思いますが、研究不正を促す要因として、”publish or perish”とも称される「業績主義」はよく指摘されます。 つまり、「よい論文を出せないものは去れ」という「生きるか死ぬか」的な研究文化ですね。 「よい論文」が出せなければ研究者としての名誉が失われると同時に、シンプルに生活にも困りうるとなれば、無理矢理にでも――なんなら捏造してでも――「よい論文」を生み出そうとするインセンティブがついてしまうわけです。 こうしたあまりに論文の功績に依った人事評価文化は、研究不正の要因としてだけでなく、本来であれば科学の営みとして大事なはずの「再現性を確認するための他者による追試」を行うインセンティブを失わせたり、地味な成果の研究をわざわざ苦労して論文化しない”publication bias”の要因としても問題視されています。 この”publish or perish”的な研究文化については、これはこれで十分に注目し考えねばならない問題であることは間違いありません。 しかし、あくまでこれは普遍的な要因です。 今回考えている問いは「日本の医学界で研究不正が多いのはなぜか」ですので、世界共通の普遍的な要因の指摘では説明が足りません。 すなわち、不正の促進因子となりうる日本の医学界における独特な構造を見出す必要があります。 結論から言えば、それは「日本独特の医局制度に代表される大学医学部への集権的構造」だと思います。 大学医学部や大学病院の役割として、「研究」「臨床」「教育」の三本柱がよく謳われます。 まず、大学ですから研究するのは当然です。 そして、最新の研究成果を社会に還元するために最先端の医療技術をもって臨床を実践するのも間違いなく大事なことと言えます。 また、若手を教育をするのもこれまた大学ですので不可欠な活動でしょう。最近では新専門医制度の発足により卒後教育における大学の役割も大きくなってきています。 さらに追加して言えば、医局員を地域の医療機関に派遣する大学医局の人事異動制度も暗黙の慣習として広く知られています。法的側面での問題はありますが、これも地域医療の維持、医師の研鑽の場の多様性を保つという意味ではあながち悪いわけではありません。 ひとつひとつを見れば、そこまで変なものではないのです。 ただ、問題なのはこれらの役割を担う権限が全て大学医学部、特に医学部教授という一箇所に集中していることです。 他領域でも研究室のボスによる手柄の横取り問題が知られているように、「研究」という一側面だけに限っても、閉鎖的で集権的な構造の悪影響は言われているわけです。 ましてやこうした閉鎖的な研究室に、「臨床」「教育」さらには「地域医療」の権限まで加わるとなると、それはどれだけ危険なことでしょうか。 最先端の医療技術を学びたい、難しい手技にチャレンジしたい、専門医を取りたい、地域の中核病院に勤めたい。 医師の誰もが抱いてもおかしくないこれらの当然で真っ当な意欲も、教授はもちろん、講師などの教官、さらにはその他の医局員の機嫌を取り、「教室の和」を乱さないようにしないと実現できないのだとすれば、容易に集団思考に陥りうる危険な構造です。 たとえば、たいして研究に携わってない上級医に「君の論文に僕の名前も入れておいて」と頼まれた時、人は断れるでしょうか。 実際、あまり断れてないんです。 これは「ギフト・オーサーシップ」と呼ばれるれっきとした研究倫理上の問題行動ですが、かなり横行しています。(そもそもの上嶋氏の研究不正事件でも多数確認され問題行為として指摘されています) もちろん、「捏造」や「改ざん」に比べれば「ギフト・オーサーシップ」は「これぐらいなら仕方ないか」と黙認しやすい程度の行為ではあります。 ただ、これが蟻の一穴で、本当の悪質な不正行為に手を出す心理的障壁を下げてしまってる可能性はあるでしょう。 また、医学部が「臨床」や「地域医療」に強く紐付いていることからくる、必ずしも研究者志望者ばかりが研究をするわけではない構造も、なおさら研究倫理が出世のために犠牲にされる可能性を高めているように感じます。 たとえば、大学教員ではなく地域の中核病院の部長や院長のポストに落ち着くような「臨床家的な出世コース」に野心を抱いている者の中には、残念ながら、「研究」は出世のために箔をつけるプロセスの一つでしかないと考え「研究」に誠実な態度で向かわない者が混ざるリスクはあるのではないでしょうか。 「研究」それ自体が目的とならず、他目的のための「手段」となる時、不正行為への誘惑はやはり高いものになるでしょう。 江草も他国の状況にさほど詳しいわけではありませんが、こうした集権的な医学部の構造、とくに医局制度は日本独特のシステムであるとは聞きます。 ですので、「集権的な医学部の構造」が、普遍的な要因によらない「日本の医学界で研究不正が多いのはなぜか」の問いに対する解答として十分考えられるのではないでしょうか。 もちろん、教授や医局員がみな良識があれば問題はありません。江草もなにも全ての大学医学部や医局員が集団思考に陥ったり、腐敗してると言いたいわけではありません。 実際、「医局制度はよく批判されてるけど、自分は医局でこんなに良い経験をしたので、医局に入ってよかったと思ってる」と言う意見もしばしばみかけます。 それは確かに真実なのだろうと思いますし、その個人的実感は否定されるべきものでもないでしょう。 ただ、「それは良い医局に運良く当たったからにすぎない可能性」には十分注意すべきです。 自分がホワイト企業に勤めているからといって「会社ってそんな悪いもんじゃないから、労働基準法は必要ないよね」と言うべきではないのと同様に、自分が良い医局に所属しているからといって危険性のある構造を放置していいことにはなりません。 むしろ、自分が良い医局に所属しているとしても、他の医局や大学で問題行為が起きているのであれば――それこそ「医局制度を大事と思う人」ならばこそ――それに対し「医局制度や日本の医学部の構造に見直すべきことはないか」省みることが必要ではないでしょうか。 ではどうすればいいでしょう。 当然ながら難しい問題で、簡単な解決策はありません。 その上で、あくまで素人の一案としての提案をさせていただければ、医学部の権限の集中を緩和する「三権分立」的な仕組みへの構造改革は必要ではないかと考えています。 ご存知の通り、「三権分立」は「立法」「行政」「司法」と主要な権限を分散することで、国家の権限の集中による腐敗や暴走を防ぐための仕組みとして知られています。 「立法」「行政」「司法」はそれぞれ密接に関わっており、一箇所でまとめて行う方が効率がいい面はあるでしょう。それでもあえて「三権分立」を採用することは、権限が集中する危険性について歴史から学んだ人類の知恵の結晶とも言えます。 実際のところ、それがどれだけ機能してるかは疑問の声もあるでしょうけれど、日本政府もこれを採用し、権限の集中による効率性を求めるよりも、その危険性を避ける方を優先しているのは確かです。 医学部でもそうした仕組みを考えることはできないでしょうか。 もちろん「研究」「臨床」「教育」は密接に関わる活動で、完全に切り離すことはできません。 しかし、だからといって闇雲に権限を集中させていいわけではないでしょう。 「三権分立」の精神に倣って、これらの権限の分散はそろそろ考慮すべきではないでしょうか。 たとえば、極論ですが、同じ診療科に関わる内容であったとしても、大学院の研究科としての教授、大学病院の診療科長、医学部の教育を担当する教授は必ず別の人物を立て、かつそれぞれ独自の人事制度で任命されることにするとか。今は基本的に全て同一人物ですし、事実上同じ人事制度の上に乗ってしまってます。 もちろんこれはあくまで分かりやすいように提示した素朴で極端な例ですが、ここまではではなくとも、これに準じたなんらかの権限の分散は必要だと思うのです。 また、「地域医療」に関しても権限の調整は必要でしょう。 医局という密室で決まる不透明な意思決定プロセスで、人事が左右されるのであれば、地域の病院の自治は成り立ちません。 なにより、よくわからない理由で天災のように突然自身の診療に影響を受ける患者さんからすれば納得いかないところでしょう。 時に医局自身が自負するように「地域医療の維持」に誇りを持っているのであれば、なおさらその人事システムの透明性や公正性は確保されるべきかと思います。 なにも極端に民主主義に振って地域住民に人事権を与えろとまではいいませんが、医局の人事システムを法的根拠や透明性を持って整備するというだけでも、「地域医療」における最低限の権限の緩和にはなると思います。 あと、場合によっては任期制も必要かもしれません。 今は医局のボスたる教授はいわゆる”tenure”なので一度なってしまえば、不祥事でも起こさない限り基本的には定年まで代わらないんですよね。 もちろん、これは「学問の自由」を担保するためにも意義がある仕組みなので、一概に悪いわけではありません。 ただ、現状の臨床系医学部教授のように「学問」や「研究」のみにとどまらない強い権限を持つのであれば――ましてや「地域医療の人事権」を持つのであれば――定期的に空気を入れ替える任期制は甘んじて受け入れるべきではないでしょうか。 というわけで、長くなりましたが、ようやくまとめです。 本稿ではまず「日本の医学界に研究不正が多い理由」として「日本の医学部の集権的な構造」を指摘しました。 それに対して「三権分立」の精神に倣った解決策を素朴ながら提示させていただきました。 これだけでもまだまだ十分に議論や考察が必要な難問です。 江草の主張にもいくらでも批判する点はあると思います。 「これが本当の原因ではないか」「こうした方がもっといいのではないか」 江草の案なんて放り捨ててもいいので、どんどん議論されて欲しいと思います。 しかし、もし仮にそのあたりのややこしい話を突破してなんとか日本医学界独自の研究不正の要因が取り除かれたとしても、残念ながら研究不正の問題が消えてなくなるわけではありません。 なぜなら本稿でも何度か書いているように、古今東西、「研究」だけの権限しかない研究現場であってもなお研究不正の問題は十分に頭が痛い課題として君臨しているからです。 つまり、日本医学界独自の研究不正の要因の解消は、ゴールどころか、ようやく研究不正との闘いのスタート地点に過ぎないのです。 逆に言えば、日本の医学界の研究不正の多さは、研究に携わる環境としてスタート地点以前のあまりにも恥ずかしい状況と言えます。 いまだ最前線で医学研究に真摯に向き合ってる友人や知人のことを想うと、江草もこの不名誉な状況には悔しさと憤りしかありません。 ですので。 「なぜ日本の医学界に研究不正が多いのか」 今回の大規模研究不正の一件を無駄にしないためにも、この問いはみなの名誉にかかる喫緊の課題として今一度医学界全員で考えるべきではないでしょうか。 微力ながら本稿がその一助になれば幸いです。 以上です。ご清読ありがとうございました。 #バックアップ/江草令ブログ/2021年/6月