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自由資本主義社会の隠れた性質に、「問題が起きないと社会の歪みが解消されない」という性質があります。
たとえば、「物A」が不足している時、「物A」の価格が上がります。価格が上がることで「物A」を生産しようというインセンティブが生まれ、「物A」の不足が解消されます。
お分かりの通り、古典的な「神の手」理論で大変素朴な話ではあります。ただ、このメカニズムが自由資本主義社会の基本原理の一つではあるのは事実でしょう。
この自由社会の自己修復機能を盾に、個人の自由に対する、政府や他者の介入に抵抗するのが自由社会の主なスタンスです。
さて、この原理は、みんなが自由にやっていても、「価格が上がること」――すなわち「わかりやすい問題が起きること」が、「不足」――すなわち「社会の歪みのサイン」になるから大丈夫だ、という理屈です。
しかし、これは一方で、「問題」が起きないと社会が「歪み」に気づきにくいことも意味しています。
物不足にもかかわらず価格が上昇しない場合、あたかも「不足してない」かのように見えるので、その不足を解消しようとする動きが起きにくくなるわけです。
この構造は、マンガ「OL進化論」の一コマが象徴的です。
![](https://i.gyazo.com/eec74fa0840588ed69eb5f33fefe94e7.png)
講談社 秋月りす「OL進化論」 19巻 p108
人手不足を挽回しようと頑張って無理して仕事をこなすと、他者からは「人手が足りてる」と判断されて、人手の補充をしてもらえなくなる、というパラドックスがこのマンガでは上手く描かれています。
つまり、現場でしか気づけない「歪み」がある時に無理して現場レベルで問題を応急処置するのは悪手で、問題をそのまま問題としてストレートに社会に提出する方が「歪み」を根本治療するためには賢明、という現代社会の構造がここにあります。
冒頭で述べた「問題が起きないと社会の歪みが解消されない性質」というのはこの意味になります。
この「問題が起きないと社会の歪みが解消されない性質」。なかなかどうしてやっかいな存在なのです。
たとえば、医療や介護、育児、教育など、いわゆる「聖職」と言われる職種では、この性質が困ったジレンマを引き起こします。
医療現場において、人手不足という「歪み」があったとしましょう。この「歪み」を社会に知らせる「問題」とは何でしょう。
そうです。医療現場で「問題が起きる」とは、すなわち人命や健康に不利益が出ることを意味します。
同様の「問題」の存在をアピールする意図だとしても、さきほどの「OL進化論」のOLさんのように医療職が引き上げると、その不利益を引き受けるのは患者さんです。
患者さんに被害が出ることは医療職自身としても耐え難いことです。その決断にはかなりの心理的障壁が発生します。
また、たとえその罪悪感をはねのけて医療職が問題をそのまま提示することを決意したとしても、世間から「たとえ人手不足だとしても、患者さんを犠牲にするとは何事か」と倫理的非難が巻き起こること必至です。
医療の他、介護や、育児、教育でも、被害を受けるのは高齢者や子どもたちです。彼らに被害が及ぶ伊としたら、極めて大きな問題になるでしょう。
「聖職」がなぜ「聖職」かと言えば、扱ってる仕事がまさしく重要すぎるからです。
しかし、重要すぎるからこそ、容易に問題を引き起こせない。それがひいては「歪みの温存」につながるジレンマを生じさせてしまうのです。
医療については最近のコロナ禍でようやく医療現場の逼迫、リソース不足が省みられるようになりました。
しかし、コロナ禍でようやく問題視されるという展開は、まさしく「重大な問題」が起きない限り、社会が動いてくれないことを示す証左といえるでしょう。
さらにまだ「問題が起きないと社会の歪みが解消されない性質」の厄介さを示す話があります。
さきほどの「OL進化論」のOLさんたちの「問題提起」たる「残業しない」という行動は、いわば「ほっておけば問題提起になるパターン」と言えます。
しかし、世の中には、こうした「消極的な問題放置の姿勢」では上手くいかないケースがあります。
すなわち、ほっておいただけでは社会に波風が立たないために、「積極的に問題提起しないといけない」人たちがいるのです。
いわば、これは「何もしないと問題が起きない」パターンと言えるでしょう。
なので、彼らは「問題を起こすのも一手」となります。というより「問題を起こすしかない」。
伊是名夏子氏のJR車椅子拒否問題が、未だに炎上を続けており、「そのやり方はどうなのか」という批判が盛んに行われています。
確かに、一連のやり取りの後にわざわざマスコミを呼ぶなど、いわゆる「活動家」的な態度は目立ち、彼女が過度に問題を大きくしているように多くの方が感じる気持ちは分かります。
しかし、これは見ようによっては「問題が起きなければ社会の歪みが解消されない」という社会の性質に沿った行動とも言えます。
多くの方が健常者の視点しか持ってない社会では、車椅子の方が我慢していても、「歪み」が認知されず、永遠に何も起きず「歪み」が解消されない可能性はあります。
実際、そのような批判はずっとなされてきていました。
それも、何十年も。
「問題が起きなければ無視される」のであれば、消極的な姿勢では効果がなく、積極的に「問題を起こすしかない」。
長年歪みが解消されないことに業を煮やして、そういう「問題を起こす行動」に出る方が生じるのも、社会の性質から誘導される一つの帰結として無理もないこととも言えるのです。
ですから、彼女の「問題を起こすような態度」を批判するならば――いわゆる「トーンポリシング」をするのであれば。
それと同時に、
「社会の側が彼女たちにそうしたインセンティブを与えてなかったか」
「問題を起こさないように地道に丁寧な活動をされていた方々に十分に耳を傾けていたか」
という耳が痛い問いを、私たちは問われ返されることになるでしょう。
それに答えられないのであれば、彼女の行為にも一定の妥当性があると言わざるを得ないのです。
とはいえ、ここで話を終えると、中立性に欠けるので、もう少し踏み込んだ批判的吟味をしていきましょう。
さらにややこしいことに、この「問題が起きなければ社会の歪みが解消されない」という性質は、「問題をわざわざ起こす」という行為へのインセンティブも生じさせる点も忘れてはなりません。
「歪み」がないところにあたかも「歪み」があるかのように社会に「問題提起」できれば、いわば「不当な利益」を得ることも可能なのです。
つまり、「火のあるところに煙を立たせる」ことを誘発するだけでなく、「火のないところに煙を立たせる」ことをも誘発する厄介な性質と言えます。
そしてこの両者の行為の区別が容易ではありません。
様々な声を見ていると、伊是名氏に対する批判者の多くは、彼女の行為がこの「火のないところにわざわざ煙を立たせる行為」にあたるのでないか、と疑ってると言えるでしょう。
たとえば、「ちゃんと調べれば階段があることは分かったのではないか」「事前連絡をすれば対応してもらえたのではないか」など。
確かに、重要なポイントであり、ここに関しては、伊是名氏側も丁寧な反論が必要となります。
実際、江草も見た限り、少々丁寧でない部分がある印象も受けており、彼女を積極的に支持するとは言い難く感じています。
少なくとも、重要な議論の焦点として、伊是名氏側も、今後ともこの疑問には適切に答えていく姿勢が求められると思います。
しかし、さらにさらにややこしいことに、彼女のような問題提起側にばかり「過失」や「故意の悪意」があったのではないか、と追及することにも問題があります。
すなわち、障害者の方たちにばかり、「無謬性」「聖人性」を求めることが正当と言えるか、という問題です。
実際、私たちは、誰しも時に「大事な情報を見間違えること」もあるし、ちょっと魔が差して「自己中心的に小狡いことをしてしまうこと」もあります。
そうした誤ったことをしてしまうのも、また人間です。
これを否定できる人はいないでしょう。
にもかかわらず、障害者の方にばかり「ちゃんと調べろ」だとか、「ズルをするな」と問い詰めることは、明らかに非対称的であり、まさしく「差別」でもあります。
彼女に「無謬性」や「聖人性」を問うのであれば、これもまた自身に返って、自分はそこまで完璧と言えるか、と問われ返されることになると言えます。
特に、批判者の方の中には、彼女に対し、誹謗中傷レベルといえる、あまりにも心無い言葉を発されてる方も見かけます。
そのような言葉で「彼女の正当性」を批判することは、それこそ「人の振り見て我が振り直せ」なのではないでしょうか。
さて、ちょっと脱線しましたが、以上のようなややこしい話から、「問題が起きないと社会の歪みが解消されない」という社会のバグの厄介さが何となく伝わっていれば幸いです。
この厄介さに対して、社会として抵抗する最も前向きな方法は、「一見、問題が起きてないように見えるところにも問題が潜んでいないか」広く深く観察できる眼を持つことです。
つまり、「自分のことばかりでなく、社会のことに広く関心を持ち、よく考えること」と言えます。
この自由資本主義社会が大事と思うのであれば、これを励行することこそが、この社会に住む私たちの責務ではないでしょうか。
以上です。ご清読ありがとうございました。
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#バックアップ/江草令ブログ/2021年/4月