プレイングマネージャーのジレンマという民主主義の罠

ドキュメントのイラスト政治

民主主義社会の運営が難しいのは「プレイングマネージャーのジレンマ」があるからじゃないかなと考えています。

 

プレイングマネージャーというのは、いわば監督と選手をどっちも兼ねてる立場のことです。

ときにプレイヤーとして実務に従事し、ときにはマネージャーとして全体の管理もすると。

小規模な事業所の経営者や、中間管理職の人なんかは近いかもしれません。

 

かつての殿様や王様が居るような社会では、一般庶民はみなプレイヤーであったと言えます。

ですが、民主主義社会においては、国民はルールに従って行動するプレイヤーでありながら、国政のことも考えるマネージャーの役割も果たすことが必要になりました。

単純に両方の役割をこなすだけでも大変です。

しかし、それ以上に「役割の切り替え」に関連するトラブルは少なくないんじゃないかなと感じてます。

 

 

プレイヤーとして自分が有利な状況にいる時は、マネージャー顔でルールの見直しを図ろうとしている人たちに対して「ちゃんとルールに従ってプレイしろよ」と要求するインセンティブがつきます。

だって、ルールをそっとしておいたほうが居心地がいいのですから。

 

一方でプレイヤーとして自分が不利な状況にいる時は、プレイヤー顔でプレイをそのまま続行しようとしている人たちに対して「ちゃんと公平なルールになってるか確認しようよ」と要求するインセンティブがつきます。

だって、ルールがそのままだと居心地が悪いのですから。

 

ほんと言えば、自身がプレイヤーとして有利であっても、ちゃんと適切なルールや環境になっているかを考えるのがプレイングマネージャーの理想でしょう。

あるいは、自身がプレイヤーとして不利であっても、それでもちゃんと可能な限り良いプレイをしようと頑張るのも同じく理想なのでしょう。

 

でもこれはこれで、「じゃあどのタイミングでプレイヤーとマネージャーの立場を自分の中で切り替えたらいいか」が分からなくなってしまいます。

かといって、プレイヤー顔やマネージャー顔をあまりに気まぐれ的に使い分けると、それはそれで他の人からは「一貫性のない奴」に映ります。

 

となると、なんとか無理やりプレイヤーとマネージャーの立場を共に抱きながら生きるしかありません。

ですが、多くの人にとってやっぱり同時に2つの立場で考えることは難しく、矛盾に悩むことになってしまいます。

 

結果、「みんながプレイングマネージャーであるべき」という民主主義の理想から離れ、「プレイヤー顔の人たち」と「マネージャー顔の人たち」の対立という2項対立構造に陥りやすくなります。

  

これが江草が考える民主主義社会の「プレイングマネージャーのジレンマ」です。

各々が都合よく立場を切り替えるのが許されるならば、結局は収拾がつかなくなってしまうのです。

大変に悩ましい問題です。

 

 

無理やり対策ぽいものを提示しますと。

同時に2つの立場で考えるのが難しいのであれば、個人の活動として「プレイヤー」として動く時間と、「マネージャー」として動く時間を切り分けるのが当たり前になるしかないかなと思います。

働いてる時やビジネスしてる時のような、何か競争的な活動をしてる時はみなプレイヤーに専念する。

でもオフの時には、みな自身のプレイヤーとしての立場からは離れ、社会全体のことをマネージャーとして考える。

この切り替えが「一貫性がない」「プレイヤーとしての自覚がない」などと非難されず、「自然な動き」として認知されてはじめて民主主義社会がうまくいくように思います。

 

とくに、時間外だろうが休みだろうがプレイヤーとしてのスキルを磨くことばかりが有利な世の中では、みんながみんな四六時中プレイヤーの顔ばかりになってしまいます。

これはけっこう危ういことじゃないでしょうか。

 

もちろん、「言うは易し、行うは難し」なことではありますけれど、民主主義社会の心得として「プレイングマネージャー」であることの自覚はやっぱり大事なんじゃないかなと思うのです。

 

 

以上です。ご清読ありがとうございました。

 

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