哲学は何の役に立つのか

考えてる女性のイラスト哲学

おはようこんにちはこんばんは、江草です。

今日は「哲学は何の役に立つのか」について。

哲学は何の役に立つのか

時々、「哲学は何の役に立つのか」という意見を見ることがあります。

多くの場合、文面そのままでの素朴な疑問というよりは、「哲学は何の役に立つのか(何も役に立たないでしょ)」と、哲学に否定的な文脈で言われます。

大学に職業訓練的な実践的な教育内容を求める空気も強まってる今日このごろですから、「哲学などという役に立たないものより、もっと実用的な学問を学んだ方がいいのでは」というのは当然出てくる意見でしょう。

私、江草自身は全く哲学者ではないので、哲学について語るのはおこがましいのですが、個人的意見を言うと、「『哲学は何の役に立つのか』という疑問自体が哲学してしまってるので、哲学の存在意味の証明とも言える」となります。

「役に立つ」とはどういうことか

哲学の重要な行為の1つに「そもそも」を考えることがあります。

「哲学なんて役に立たない」と哲学を否定する意見を見て、その意見が正しいかどうかを判断するためにまず必要な行為があります。

それは「そもそも『役に立つ』とはどういうことか」を問うことです。

たとえばもし「哲学なんてベロッチョーだよね」と同意を求められたとしたら、まず「え、『ベロッチョー』って何?」って聞き返しますよね。意味が分からないと判断しようがないですから当然でしょう。

なので、同じように「役に立つ」がどういう意味なのかが分からないと「哲学が役に立つかどうか」そもそも判断できないのです[1] … Continue reading

「哲学は何の役に立つのか」と問うた時、「役に立つとはどういう意味か」という問題が同時に発生して、「そもそも」を考える哲学的思考を余儀なくされるという皮肉な状況になるのです。

「哲学」とは何なのか

さらに言えば「役に立つ」だけでなく、「哲学」自体のそもそもを考えるのも、同じく哲学的思考と言えるでしょう。すなわち「『哲学』とは何なのか」という問いですね。

「『哲学』とは何なのか」と広く問う時、その問いの中には「『哲学』は何の役に立つのか」「『哲学』は何の役にも立たないのか」という「『哲学』の特定の性質を問う」問いが自然と含まれます。そして、これはまさしく冒頭の問いです。

なので、「哲学は何の役に立つのか」と問うた時、「そもそも『哲学』って何?」という哲学的疑問の一端に触れてしまっており、その問い自体が哲学しちゃってることになるわけです。

知らず知らず哲学しちゃってる

というわけで「哲学は何の役に立つのか」という問いはそれ自体が哲学しちゃってることを見てきました。

その問い自体が哲学しちゃってるのですから、つまりは哲学しながら「哲学なんて役に立たないぜ」と言ってることになるわけで、なんとも説得力がないですよね。

なので、もし「哲学は何の役に立つのか」という問いにモヤッとしてる方がいらっしゃれば、とりあえず「役に立つってどういうこと?」「どういう基準で役に立つかどうか分かるの?」「それを考えずに役に立つかどうか判断する妥当性はあるの?」と、問いの是非を判断するために当然考えるべき疑問を立てることで、結局はこれも哲学的議論であることを顕にすることから始めてみてはいかがでしょうか。

まあ、おそらく相手には「めんどくさいヤツ」と思われるだけなので、ご利用は計画的にお願いいたします。

予想される疑問点

ちなみに、今回の話を聞いて、「『そもそも』を考えること=哲学的思考」と江草は勝手に決めつけているのではないか、という疑問を持たれた方は鋭いです。

仰る通り、これも当然自明なことではありません。江草としては比較的多く共有されてる観念と思ってはいますが、確かにもっともな疑問です[2]江草自身も絶対とは思ってません。どんどん深堀りしたディスカッションができそうで、ワクワクしますね。

ただ、こうしたことを問うことさえも「哲学」は含有してしまいそうな雰囲気を持っているのが哲学のこわいところ[3]「恐れ」ではなく、「畏れ」に近い意味でで。

普段の生活では皆忘れてるだけで、誰もが「哲学」からは離れられないのだと思います。

 

以上です。ご清読ありがとうございました。

脚注

脚注
1 初めて聞く「ベロッチョー」という単語に比べると、「役に立つ」は何度も聞いたり使ったことがあって馴染みのある単語なので、「分かってる」ように感じています。が、厳密に「役に立つ」とはどういうことかまで踏み込んで考えたことがある方はなかなかいないのではないでしょうか。
2 江草自身も絶対とは思ってません
3 「恐れ」ではなく、「畏れ」に近い意味で

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