ワクチン1回接種案を検討すべき理由と、その上で1回接種案に反対する理由

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おはようこんにちはこんばんは、江草です。

今日は、非難の声が巻き起こっている「ワクチン1回接種案」について、私見を述べます。

結論から言えば、「検討する意義のある案ではあるものの、現時点での1回接種案の採用には否定的」というのが江草の立場になります。

 

自民党のワクチン1回接種案検討に対する激しい批判

先日、自民党内で新型コロナウイルスワクチンの接種回数を本来の2回から1回にする案を検討しているという報道がありました。

 

ワクチン接種“2回をやめ1回に” 自民党内で検討
 新型コロナウイルスのワクチンの供給スケジュールが見通せないことから、自民党は1人が2回接種するのをやめて1回だけ接種することを党内で検討していくことを決めました。  ワクチンについて、河野規制改革担当大臣は「4月までは非常に供給量が限られてくる」と説明しています。  確保状況がなかなか見通せない状況に、自民党の会...

 

この報道を聞いて、「1回接種案」を検討することに、医療関係者を中心に強い非難の声が上がりました。

中には「科学的思考の欠片もない」「医療従事者に対する冒涜」という厳しい声も見られます。

 

この動きに関しては、江草としても気持ちは分かるのですが、少し落ち着いて欲しいな、というのが正直な感想です。

 

ネット上での様々なコメントを見ると、「1回接種案」を検討すること自体に反対する勢いの方が多いように見受けられます。

けれど、本来、様々な可能性を検討すること自体には目くじらを立てる話ではないはずです。

少なくとも、検討する行為のみをもって「科学的思考の欠片もない」「医療従事者に対する冒涜」とまで言うべきではないでしょう。 

というのも、ワクチン1回接種案を検討するべき、もっともな理由は存在するからです。

 

精力的にワクチン接種を推奨されてるインフルエンサーの方々も、あまりこの理由については語られてない様子で残念です。 

 

インターネットの片隅には誰かが語っておくべき大事なポイントだろうと思いますので、江草がこの記事でひっそりと「1回接種案が検討するに値する理由」を記しておこうと思います。

 

では、順番に、まず「なぜ検討に値する案なのか」を整理した上で、次に「1回接種案を採用するのは妥当か」を考えていきましょう。

 

世界的なワクチン供給不足と不公平配分の問題

1回接種案を反射的に否定する前に、必ず知っておくべきなのは、今、世界ではワクチン供給不足とその国家間の不公平配分が問題となっていることです。

 

実際にWHOも警鐘を鳴らしています。

 

新型ウイルスワクチンの公平配分、「壊滅的な失敗」の瀬戸際に=WHO - BBCニュース
新型コロナウイルスのワクチン接種が複数の国で進む中、世界保健機関(WHO)は18日、不平等なワクチン接種政策の影響で、世界が「壊滅的な道徳上の失敗」に直面していると警告した。

 

一言で言えば、ワクチンの需要に供給が追いついていない現状があり、先進国がその強い政治的・経済的影響力を用いてワクチンをかき集め、その結果、途上国がワクチンを入手できない、という不公平が起こりつつあるということです。

 

テドロス事務局長は18日、WHOの理事会で、「率直に言わなくてはならない。世界は壊滅的な道徳上の失敗の瀬戸際にあると。そして、この失敗の代償として、世界各地の最貧国で人の命や生活が犠牲になると」と述べた。

新型ウイルスワクチンの公平配分、「壊滅的な失敗」の瀬戸際に=WHO

I need to be blunt: the world is on the brink of a catastrophic moral failure – and the price of this failure will be paid with lives and livelihoods in the world’s poorest countries.

WHO Director-General’s opening remarks at 148th session of the Executive Board

 

このテーマについては、先日江草も記事としてまとめていますので、ご参考に。

ワクチン配分の倫理的課題
ワクチン配分の倫理的課題という頭が痛い難題について。

 

「限られた医療資源をどう割り当てるか」という歴史的難題

この世界的なワクチン供給問題は、「限られた医療資源をどう割り当てるか」という古今東西で私たちの頭を悩ませている難題に他なりません。

過去には、新型インフルエンザワクチンの時にも同様のワクチン分配の公平性の議論はあったようですし、ワクチン以外でも途上国における抗HIV薬アクセス問題が有名です。

これらの歴史から学べば、往々にして私たちは医療資源の分配を自分たちに都合よく考えてしまいがちだ、ということに十分留意する必要があると言えるでしょう。

 

今回、世界的に貴重にもかかわらず、幸いにして日本国民が入手することができたワクチンです。「それを国内でどう用いるのが最善か」という検討は、不要どころか義務といっても過言ではないのではないでしょうか。

 

↓ご参考までに、「医療資源の分配の倫理学」のテーマの書籍です。面白いです。

誰の健康が優先されるのか――医療資源の倫理学
医療資源は有限で、すべての患者に十分に行き渡るよう配分するのは不可能である。医療資源配分の意思決定はどう行われるべきかを、具体的事例をあげながら倫理学的な問いとして考察。ハーバード大学最先端の研究成果。

 

「1回接種案」に関わる具体的な論点

では、そもそもの「1回接種案」について、具体的にはどういった論点が挙がりうるでしょうか。

大きく分けて、医学的観点、倫理的観点での論点があると思います。

 

医学的観点の論点

個人にとって1回接種よりも2回接種がより良い効用をもたらしていることは、種々の報告からコンセンサスとなっているところですし、これは間違いのない前提です。

しかし、その上で、「ワクチン数が有限である」、特に「限られた人数分しかワクチンがない」という条件下においては、医学的にも「1回接種案」をまだ検討すべき余地はあるように思います。

2つの視点を提示します。

 

「100人中10人が2回接種」vs「100人中20人が1回接種」

まずひとつ。「個人にとって2回接種が有用」と言えたとしても、それを守ることがたちまち「集団にとって最善の戦略」と言えるとは限りません。

たとえば、「100人中10人が2回接種」vs「100人中20人が1回接種」と、どちらがより集団としての感染抑制効果を持ちうるか、という問いは立てられるのではないでしょうか。

この問いに答えを出すには、実際の1回接種のみでの効果を推定できるデータの精査や、高度なシミュレーションが必要です。

特に、「100人中20人が2回接種」vs「100人中40人が1回接種」など、各パラメータも様々な可能性が考えられますので、かなり念入りなパラメータ吟味も必要となるでしょう。

 

供給の目処が立ってから2回目を打つデメリットの評価

もうひとつ。ひとまず1回接種で多くの人への接種を優先しておいて、ワクチン供給の目処が立ってから2回目の接種をしたらどうか、という問いも立ちうるでしょう。

すなわち、個人にとって2回目の接種までの間隔が空くことはどれぐらいのデメリットがあるのかという話です。

接種間隔を空けることのデメリットと、1回のみとしても接種者が多くなることのメリットのバランスをどう見るかというのは、それぞれの医学的知見を集めて議論が可能な論点と思います。

 

倫理的観点の問題

次に倫理的観点の問題です。

原理上も、現実の報告上も、1回接種でもいくらか効果はありそうだと期待できる以上、一部の人に2回打つ方針には、どうしても公平性に関する倫理的課題がつきまといます。

2つの視点を提示します。

 

1回接種が「最大多数の最大幸福」に近い可能性はないか

まずひとつ。「効果が不十分だとしても、より多い人数に接種することを優先した方が倫理的ではないか」という問いが立てられるでしょう。

たとえば、食料の供給が限られている時に、半分の人が満腹になり残りの人が空腹のままとなるよりも、全員が腹五分で我慢する方が公平で倫理的な案だ、と多くの人は感じると思います。

もちろん、ワクチンは食料ではないですし、空腹だと高い確率で死んでしまうでしょうから、状況設定としてはかなり異なります。

ただ、「最大多数の最大幸福」を目指してできる限り多くの人のメリットを重視する功利主義的発想からすれば、今回のワクチン分配問題と、この食料の分配の例は、類似した問いです。

特に、もし仮に「未接種→1回接種」に比べ「1回接種→2回接種」の個人の効用の上昇幅が少なければ、「2回接種にこだわって1回接種を検討しないのは人命軽視である」と功利主義者からは批判されうるでしょう。

 

世界規模の不公正は無視してよいのか

そしてもうひとつの倫理的課題が、冒頭にもとりあげた世界規模のワクチン分配の公平性の問題です。

2回接種の方針となると、日本国内でワクチン接種が行き渡るには単純計算で倍量のワクチンが必要となるわけです。

 

たとえば、ここで冒頭の知念先生のツイートを再掲しますが、

現在感染爆発をしているわけでもない日本

という表現をされています。

 

確かに、ようやく第三波も収まりつつありますし、欧米に比べると絶対的なコロナ被害は少なく抑えられてると言えます。

しかし、こう捉えてしまうと、感染爆発をしているわけでもない日本よりも、感染の蔓延がひどい他国にワクチンを優先すべきではないかという問いが発生しうるのではないでしょうか。

 

たとえば、私たち医療者は「医療現場が逼迫しているので、救えるはずの命を守るために、安易な受診を控えて」とよく呼びかけます。

これと同様に、「ワクチン供給が逼迫しているので、救えるはずの命を守るために、ワクチンの優先度が低い国はワクチン接種を後回しにしてくれないか」と言われる可能性はあるわけです。

いわば、日本はワクチンのトリアージで「緑」だから待機してくれ、と迫られうるわけです。

実際、このコロナ禍は世界規模の災害です。日本以上に緊迫した状況の地域は少なくないでしょう。

そんな未曾有の災害現場の最中、緑タグの患者が「当然2回接種で」と強弁することは果たして許されるものでしょうか。

 

実のところ、今回の件でも「1回接種案を検討するぐらいなら、もっと積極的にワクチン確保に邁進するべき」とした意見をみかけました。

しかし、この意見が有する倫理的課題についてはもう明らかでしょう。

 

現実問題、リソースやキャパシティがどうしたって無限にはなりえないことを考慮せずに、「リソースを拡大すべき」だけ述べて解決策になってると考えるのは、問題の重大な一側面に目をつむってしまっている危険性があり、注意が必要です。

 

この「キャパシティの有限性」のテーマについては、過去に記事を書いています。

「知ってもらいたい」「自分の頭で考えるべき」「義務教育に入れるべき」の罠
「全体のキャパシティが有限であることって忘れられがちだよね」というお話

 

反対するにしても熟議は必要

さて、医学的や倫理的に、これだけの繊細な課題を背景に抱えた「1回接種案」です。

これを即座に却下するのは、なんなら「救えるはずの多数の人命を失いかねない危険な姿勢」「先進国の既得権益者の傲慢な態度」と言われても仕方がない乱暴な反応です。

 

やはり検討ぐらいはしてもおかしくない重要な課題です。

この案に反対するにしても、少なくとも一度丁寧な熟議は必要ではないでしょうか。

 

それでも「1回接種案」に江草が否定的な理由

さて、ここまでこんなにつべこべ書いておきながら、なんということか、「1回接種案」について江草は否定的なのでした。

いやあ、二枚舌のひどいやつですね。

でも一応、江草としても弁解がないではないので、その理由を述べていきますね。

  

手続きの尊重

1つ目の理由は「手続きの尊重」です。要するに手続きは慎重に守る方がいいのでは、ということです。

 

田村厚労相もおっしゃってましたが、コロナワクチンは2回接種を前提として承認されたという経緯があります。

たとえ、さきほどのような様々な問題を考慮したとしても、今すぐに1回接種案に踏み切るとすれば、医薬品の承認手続きの例外的措置を認めることになります。

 

もちろん、政治家というのは、場合によってはそういった例外的な措置を執行する権限も有する方々ではあるでしょう。

しかし、なんでもかんでも思いついたらすぐ例外的な措置をしていいものではなく、よほどの緊急性が高い理由がなくてはなりません。

そうでなければ、法や社会の安定性が保てないですし、政治家の権力の濫用につながります。

 

特に、今回のような医薬品は個人の人命や健康の安全に関わる重要な存在です。他の分野に比べても、原則的な手続きの扱いについては保守的であるべきと思われます。

医薬品の手続きの柔軟さを簡単に認めてしまえば、今回のワクチンについての是非は置いておいても、今後の他の医薬品の承認事例において危険な判断が下されるおそれがあります。

もし全体の利益ばかり見る素朴な功利主義的発想[1]これは実際に、公衆衛生の歴史上、様々な悲劇を生み出した発想ですから、個人の安全性を担保する手続きを緩めることが起きれば、「みんなのためになるから個人の多少のリスクはやむを得ない」などと、個人が容易に犠牲にされうるのです。

 

実際のところ、今回のワクチンの研究や承認の手続きについては、逆に拙速ではないかという批判さえ出てました。

そんな中、急に例外的な措置を認めるほどの状況かといえば疑問が残るところと感じます。

承認手続きは、個人の安全性を担保するために組まれた大事なセーフティネットであり、よほどのことがない限り、尊重し堅持すべきところでしょう。

 

政治家に対する不信感

もう1つの理由は、「政治家に対する不信感」です。

実のところ、多くの人が今回の報道に拒否感を抱いている理由は、医学的効果や安全性への懸念からというより、むしろ本質はこの「不信感」ではないかと感じてます。

 

このコロナ禍のさなかでも、GoToキャンペーン等々の政策のドタバタもあったり、五輪組織委員会をめぐる失言や密室人事など、ほんと色々ありました。

 

これらの騒動を通じて、政治家たちの「コロナに対する楽観的認識」や「不透明かつ不公正なやり口」の印象が、江草を含め、皆に根付いたのは間違いないでしょう。

とかく身内への利益誘導や権力への執着の印象が強いため、今回のことも、本当に「ワクチン1回接種」のメリットを意図した上での検討か、残念ながら疑わざるをえないところです。

ましてや、途上国のワクチン供給問題などという広い倫理的視野で考えてそうにはおよそ見えません。

 

しかも、今回の「1回接種案の検討」の音頭を取っているのが、下村政調会長という話です。

下村氏は「EM菌」や「親学」といった、妥当性に乏しい概念の支持をされていたという、いわく付きの人物です。

できることならヒトではなくコトで判断したいポリシーを持つ江草としても、さすがに嫌な予感しかせず、看過できないところです。

 

以上のことを踏まえると、今回、自民党が検討を始めた政治的動機の清廉さを素直に信じるわけにはいきません。

したがって、この状態で進められる「1回接種案」は到底支持できない、というのが江草の考えです。

 

【まとめ】ちゃんとした検討の場の整備を

もちろん、これらの「1回接種案」に対する江草の反対理由は、江草自身がさきほど挙げた様々な論点への明快な回答にはなっていません。

上でも述べたように、これは大変な難問でありますので、非力すぎる江草にとっては、なんとかかわして保留するほか仕方ないのです。

ただ、やはりそれだけ大事な問題ではありますし、「1回接種案」を検討する場自体は必要だと思います。

 

とはいえ、自民党内での検討というのは、妥当性や透明性の面でかなり不信がありますので、ちゃんとした検討の場を整備していただきたいと考えます。

ワクチンや倫理学に通じた人材も含め幅広い立場からの意見が出て、かつ、透明性のある議論の場であれば、結果的にどちらの結論になるにせよ、「1回接種案」も一度熟議する価値はあるのではないでしょうか。

 

以上です。ご清読ありがとうございました。

 

脚注

脚注
1 これは実際に、公衆衛生の歴史上、様々な悲劇を生み出した発想です

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