> [!NOTE] 過去ブログ記事のアーカイブです 池江選手への五輪辞退要望に関連して、あちこちで議論が紛糾していますね。 江草としても思うところがないではないので、個人的な雑感を記しておこうと思います。 耳タコな方も多いでしょうけれど、多少は変わった視点をご提供できるかと。 まず、少し遠回りして、たとえ話から始めます。 人には、相反する選択肢の中からどうしてもどれかを選ばないといけない時があります。 たとえば、5人組の友達グループで旅行先の相談をしている場面を考えてみましょう。 相談の結果、北海道に行きたい者が3人、沖縄に行きたい者が2人になり、行き先の希望が割れてしまいました。 この時、5分の3の日程を北海道に行って、5分の2の日程を沖縄に行けるならそれがいいのかもしれません。 しかし、それは現実的に不可能です。 どちらかを選ばないといけません。 こういうジレンマに人はしばしば悩まされます。 そうは言っても決めないとならないので、最終的に「多数決」なりなんなりで、選択を正当化するロジックを採用して片方に決めることになります。 仮に北海道に行くことが決まったとしましょう。 その「北海道に行く」という選択は当然ながら沖縄成分が皆無なので、見かけ上「北海道10割、沖縄0割」の行動になります。 つまり、この行動選択の結果には、もともとは「北海道6割、沖縄4割」であったジレンマの存在が反映されないのです。 このように、相反する選択の結果というのは、選択が内包しているジレンマを省き、背後にあった苦渋な決断を矮小化して見せてしまう性質を持ちます。 だから、北海道旅行に行く人を見て、北海道に行きたい気持ち100%の人なんだなと判断するのは早計と言えるのです。 ましてや、「彼らは沖縄に行く案を全く考えてない」などと突然批判を始めるのは論外でしょう。 さて、池江選手の話です。 一応簡単に現状をまとめておきますと。 コロナ禍第4波が抑えきれない中、東京オリンピックの開催が迫り、とうとう池江選手といった有名出場選手に辞退を求める声が多数寄せられる事態になりました。 そうした「選手に辞退を求めること」の是非および、池江選手が公式に回答したコメントの内容の是非について、ネット上の議論が紛糾しています。 執筆時点ではそういう状況です。 > いつも応援ありがとうございます。 > Instagramのダイレクトメッセージ、Twitterのリプライに「辞退してほしい」「反対に声をあげてほしい」などのコメントが寄せられている事を知りました。もちろん、私たちアスリートはオリンピックに出るため、ずっと頑張ってきました。ですが、↓ > — 池江 璃花子 (@rikakoikee) [May 7, 2021](https://twitter.com/rikakoikee/status/1390638021943316482?ref_src=twsrc%5Etfw) 池江選手の公式回答ツイートスレッド で、実を言えば、彼女も五輪の開催の是非、自分の出場の是非について考える責任がないとは言えません。 彼女も紛れもなく1億2千万人の主権者たる日本国民の一人です。 だから、彼女も国民の一人として五輪が日本の公益にかなうか考える責任はあります。 本件に関連して「池江選手に責任はない」という意見を時々見かけますが、その程度の多寡の議論こそあれ、「責任はない」と言うのは厳密には誤りです。 ただし、池江選手は「公益を考える責任」がある一方で、当然ながら「個人としての自由や幸福を追求する権利」も同時に持っています。 今回の場合、具体的に言い直せば、「ずっと目指していた五輪に参加するという夢を追う権利」と言えるでしょうか。 こうして、「公益に対する責任」と「自分の夢を追う権利」との間でジレンマが生じます。 このどちらが強いか、あるいは、どちらが重要かは、一概には決められません。 大きな理由の一つとして、一個人の中のジレンマは、旅行先を決める多数決と異なり、数えたり、計ったりすることができないし、そもそも見ることさえできないので、比較が難しいことがあげられます。 しかし、優劣比較は難しくとも、少なくともこの「2つの立場」が人の心の中に存在しているのは確かでしょう。 そう考えると、池江選手の「私は何も変えることができません」としたコメントは、真意はどうあれ、結果として「公益を考える国民の一人としての立場」を切り捨てた発言になってしまっています。 > 私のような選手であれば、ラッキーでもあり、逆に絶望してしまう選手もいます。持病を持ってる私も、開催され無くても今、目の前にある重症化リスクに日々不安な生活も送っています。私に反対の声を求めても、私は何も変えることができません。ただ今やるべき事を全うし、応援していただいてる方達の↓ > — 池江 璃花子 (@rikakoikee) [May 7, 2021](https://twitter.com/rikakoikee/status/1390641326530580486?ref_src=twsrc%5Etfw) この部分に突っかかる批判の声が多いのは、この「公益の切り捨て感」が理由でしょう。 「公益を考える立場」の重要性を大きく見る人であればあるほど、この「公益の切り捨て感」が許せなくなるのだろうと推測されます。 ただ、その「公益の切り捨て感」を問題にするのであれば、逆に池江選手が要望の声を受けて「五輪出場を辞退する」と表明することは、「自分の夢を切り捨てること」すなわち、「個人として自由や幸福の追求する立場」というもう一方の大きな立場を捨てることであることは、改めて認識すべきでしょう。 つまり、相反する二択の選択肢でしかない五輪の進退の決定を要望することは、どうしたって「公益か、個人の夢か」という一個人にとって極めて難しいジレンマの解消を急かすことになります。 要望するに至った切迫した理由はあるにせよ、その残酷さ、暴力性について、要望する者は自覚的であるべきでしょう。 具体的に言えば、池江選手に五輪に関して考える責任はあるにしても、それを急かされることや決断することによる彼女の痛みについて、要望していた側が十分にフォローしているか、配慮をしているかが問われると思うのです。 たとえば、池江選手のコメントを受けて「オリンピック選手は辞退しなくていいけど人を死なせる覚悟を持て」とする主張も見受けられました。 [【追記の追記あり】オリンピック選手は辞退しなくていいけど人を死なせる覚悟を持て主催者側も、マスコミも、なんなら選手たちだってさんざん「日本中に勇気を与えたい」だの「被災地に元気を」だの「こんな時代だからこそ明る…](https://anond.hatelabo.jp/20210508225508) 確かに、厳密に言えば「人を死なせる」――そういう側面があることは否定できません。 しかし、これはオリンピック選手の中での「ジレンマに伴う苦悩」の存在を大胆に無視した主張です。 そう言うのであれば、「覚悟を持て」と発言する者も同時に、選手の大事な部分を切り捨てた――いわば「選手の魂の一部を死なせた」――自覚を持たねばならならないでしょう。 もちろん、そこまでの過激なコメントではない丁寧な言葉づかいでの要望も実際には少なくないようです。 五輪開催による人命への被害を憂いてのことで、確かに善意からのコメントではあるのだと思います。 その気持ちそのものは非難されるべきことではないでしょう。 でも、それでもTwitterの140文字ばかりで、選手の五輪出場を諦めさせるというのは、あまりに軽すぎるのではないでしょうか。 つまり、その気になれば数十秒で書けるツイートで、選手の何年にもわたる多大な努力を捨てさせる要望をするのは、いくらなんでもその重さが非対称すぎるように思うのです。 せめて、「要望をする者」もそれなりの敬意を見せるべきかと思います。 江草には良い具体的な提案までは思いつきませんが、たとえば選手が辞退した暁には「必ず五輪に代わる晴れ舞台の実現に全力で動くこと」を約束するとか、何かそうした要望者の気概を見せる必要はあるのではないでしょうか。 そうでなければ、その140文字は、選手への敬意を含んでると考えるにはあまりに短すぎるでしょう。 続きまして、辞退要望側に対する批判ばかりではフェアではないですし、池江選手に対する擁護意見にも一言。 江草が少々引っかかるのは「選手はそうした辞退の要望を投げかけられるべきではない」という類の擁護の声です。 もちろん、ほとんど強制や恫喝に近い「要求」や「強要」が許されないのは同感です。 また、どんなに丁寧に柔らかく仕上げられた「要望」でさえも、大量に届けば人は傷つくのも事実だと思います。 だからこそ、本当に本当に慎重にするべきことだと思います。 でも、それでも「選手を傷つけるような意見はシャットアウトすべき」と外部の人間が言い切るのは、過保護すぎるように思うのです。 それは、五輪辞退を求める意見が「個人の夢を切り捨てる暴力性」をはらんでるのと同様に、「耳が痛い意見は聞かなくて良い」と選手に促す意見は「選手が外部の声への耳を傾け公益を考える機会を切り捨てる暴力性」を持っていると思うからです。 言い換えれば、選手の「選手としての部分」にしか注目せず、選手の「公益を考える一国民としての部分」を無視している意見のように見えるのです。 いわば、彼ら選手たちを「大人扱いしてない」ように感じるのです。 選手に傷ついてほしくない気持ちは分かります。 誰だって応援してる方々には常に笑っていてほしいものです。 無為に人が傷つけられることがあってはならないのも同感です。 でも、それでも、自分の中の「公益を考える国民の一人としての自分」とどう向き合うかを決めるのはあくまで彼ら選手自身が考えるべきことで、他人が「耳が痛い意見には向き合わなくていい」と勝手に言い切ってしまってはいけないのではないでしょうか。 「彼らを暴力から守ること」は必ずしも「彼らを無菌室に入れること」や「彼らを宝石箱にしまいこむこと」とイコールではないでしょう。 彼らを「いいからいいから。君たちはスポーツだけしていればいいんだから」と言わんばかりに、そうした安全地帯に押し込めることは、それはそれでかえって彼らの中にある「選手でない部分」に対して失礼なことではないでしょうか。 ピンチと聞いて怒涛のように馳せ参じた擁護の声の数々は、確かに彼ら選手を守る「強い盾」でありながら、その一方で、彼らの大人としての自主性の発揮を妨げる「高い壁」のようにも、江草は感じてしまうのです。 以上です。ご清読ありがとうございました。 #バックアップ/江草令ブログ/2021年/5月