コトよりもヒトを見て判断するヒトがいるというコト

会話のイラストクリティカルシンキング

「誰が話しているかではなく、何が話されているかで判断しよう」

とは、よく言う話です。

「ヒトではなくコト」などとも言われます。

 

江草もヒトではなくコトを大事にしようと心がけてる派ではあるのですが、これがなかなか難しい側面があるのですよね。

というのは、ヒトではなくコトを大事にしようと考え始めたらすぐさま、「コトよりもヒトを見て判断するヒトがいるコト」に気づくからです。

 

 

ヒトがコトでなくヒトで判断する時

ヒトがコトでなくヒトで判断する時はどういう時があるでしょう。

 

分かりやすいのはコトで判断する能力がそのヒトにない時です。

自分で判断する能力がないのであれば、誰に頼って判断するか――すなわちヒトで判断せざるを得なくなります。

 

これに対して「自分の頭で考えろ」とか「リテラシーを付けろ」というのは簡単です。

確かに可能であれば「判断能力を付ける」のが望ましいのは間違いありません。

しかし、現実として「判断能力を付ける」のが難しい場合があるのが厄介なのです。

 

また、「判断能力があっても判断しない場合」さえもありえるのでさらにややこしい話になります。

 

どうして、ときにヒト判断にならざるを得ないか、説明していきます。

 

ヒトには得手不得手がある

まずひとつはヒトには得手不得手があるというコトです。

簡単に大学入試レベルの数学をスラスラと解けるまでにすぐに上達するヒトもいれば、頑張っても解けるようにならないヒトもいます。

分かってるヒトからしたら「なぜ分からないのか分からない」レベルだとしても、やっぱりそのレベルにも到達できない人がいるのは不思議な話ではありません。

だから何事においても、どうしても「判断できないヒト」がいるコトは想定せざるを得ません。

 

学ぶ動機や余力がないと厳密な判断はできないし、しない

もうひとつは学ぶ動機や余力がなくてはヒトはその判断能力を身につけないし厳密に判断しようともしないというコトです。

たとえ、もしきちんと学んだとしたらその判断能力を身につける素質を持っていたとしても、有限な存在にすぎないヒトはなんでもかんでも学ぶことはできません。

同様に、もしきちんと精査するならば正確な判断をすることができる能力があったとしても、ヒトはなんでもかんでも精査する余力はありません。

だから、たとえ優秀な人物であったとしても、自分が判断能力を身につけなかった分野や、精査する余力がない事項については、ヒトに頼って判断せざるを得ません。

 

たとえば、医師がなにか医学雑誌の論文を参考にする時、その著者、査読者、編集者をヒトとして信頼していると言えます。

著者が不正なく誠実に論文を記し、査読者や編集者がその内容を丁寧に吟味したと考えているからこそ、その論文をコトとして受け入れてるのです。

なので、これはある種のヒト判断であることには違いありません。

もちろん、さらに続けて、「これまで良い研究成果を掲載してきていたという事実(コト)があるからこそ、この雑誌を信頼している」と主張することはできます。

ただ、じゃあ、その「これまでの良い研究成果」というのを全て厳密に精査したか、となるとそれが可能なヒトはおよそいないのですから、どこかでヒト判断がどうしても入ってきてしまいます。

 

コト判断は大事なのはもちろんのこと、ヒト判断も軽視できない

これはあくまで「ヒト判断の混入が避けられない」と言ってるのであって、「全てはヒト判断だ」と言ってるわけではありません。

コト判断が大事な点は否定していません。

ただ、結局のところ何事も完全にコトだけで判断するのは難しいからこそ、「ヒトはヒトにも頼ってるコト」は認めざるを得ないのです。

個々の状況や能力に応じてこの程度は変わりうると言えど、このコトから、ヒト判断を軽視するのは適切ではないとは言えるでしょう。

 

 

「あいつらはコトが分かってない」とする批判の罠

して、ヒトは「能力がない」――端的に言えば「無能」――と言われると反発する存在であるというコトはおそらく多くのヒトは同意されるのではないでしょうか。

 

そうすると、主義主張が異なる相手に対して、「あいつらはコトが分かってない」などと、ヒトとして「無能」扱いした場合、どちらが「コト」として正しいか否かはさておき、それはこちら側の「ヒト」に対する不信感を呼び起こすはずです。

すなわち、相手側の「ヒト判断」の基準に対してネガティブな効果を与えるわけですから、よりこちら側の主張を受け入れてもらい難くなると言えます。

最悪の場合、いくらこちらの主張の「コト判断」が適切であったとしても、それ以上に相手側がこちら側に抱く「ヒト判断」における不信感が強くなりすぎて、どうしても納得してもらえない状態に陥る恐れがあります。

これは、ヒトが「コト判断」だけではなく「ヒト判断」の要素も大事にしている限り、十分にありえる事態です。 

 

相手に納得してもらわなくていい、相手を説得しなくていいのであれば、それでもいいかもしれません。

しかし、本当に大事な主張なのであれば、やはり相手に対して説得力を持つ主張の仕方を考えるべきなのではないでしょうか。

すなわち、説得的な主張を意図するならば、その主張がコトとして妥当なのはもちろんですが、主張者がヒトとして反感を持たれないコトもまた重要になってしまうのです。

 

 

だから「あいつらはコトが分かってない」「あいつらはリテラシーがない」などと、相手の「ヒト」としての能力だったり信頼感だったりを非難するのは、やはり得策とは言えないでしょう。

特に「ヒトではなくコトが大事」と思うならば、なおさらそうした人格攻撃には慎重にならないといけません。

 

なぜならそれは「コトではなくヒトを引き合いに出すコト」そのものだからです。

「ヒトではなくコトが大事」と言いながらヒトを非難するコトは、いわば「言行不一致の矛盾」であり、かえって発言者のヒトとしての信頼感を失うものです。

これは相手方だけでなく、傍観してる第三者にさえも不信感を抱かせえます。

 

相手の「ヒト」としての価値をわざわざ毀損しにいく行為が、コトを大事にする「議論」ないし「科学」の文脈においてご法度になっているのはこのためなのです。

 

 

 

ところで、こういう江草の話を皆さんに納得していただくには、江草自身のヒト信頼が不足しているかもしれませんね。所詮、無名の匿名ブロガーですし。

その分、できる限りコト的には頑張って書いているつもりですが、その辺り力及ばない時は、江草の不徳の致すところでしかありません。

申し訳ありません。

 

 

以上です。ご清読ありがとうございました。

 

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