おはようこんにちはこんばんは、江草です。
今日は、「悪意のない差別」という難題について。
あるお父さんの吐露
あるお父さんが保育園で受けた対応に対し、その悔しい気持ちを吐露したエントリを拝見しました。

この方は保育園の入園説明会に夫婦で訪れたけれど、
「じゃあ奥様にご説明しますんで、旦那様はあちらでお子様と一緒に遊んでてください」
と言われ、まさかの蚊帳の外扱いになってしまったと。
とっさのことで、ついその場は同意してしまったものの、この方は育児にコミットしてる自負があるだけに、「俺は入園の説明を聞きに来たんでは?」と後から怒りがこみ上げてきたと言います。
しかし、その怒りの感情とともに生じた彼の複雑な心境が印象的です。
あのときキレ返してたらこんなに重たい気持ちになってないのよ。
てかキレる必要さえなかったのよ。
「僕も一緒に話聞きたいんですけど横座ってていいですか?」
これだけ言えばよかったのよ。喧嘩腰になる必要もない。波風も立たずに誰も不幸にならなかったのよ。
なんであの時自分はちゃんと「説明を聞きたい」と主張できなかったのか、と自責の念にかられているこの方の苦悩が感じられます。
「悪意のない差別」の象徴的エピソード
このお父さんの体験談は「悪意のない差別」の厄介さを象徴しているエピソードと思います。
この体験談のポイントは大きく2つあります。
保育園における父親差別
まずは、「保育園における父親差別」の問題です。
この話を見る限りでは、この保育園の職員の方は「保育園の説明を聞くのに熱心なのは母親で、父親はつきそいで来てるだけだろう」という先入観があっただろうと予想されます。
これは疑いなく父親差別です。
この保育園の事例に限らず、「ママさん向け」に特化した育児情報ばかりが世の中にはあふれており、「育児をする父親」の存在が忘れられがちな育児業界の風潮については、父親差別として批判の声は増えてきています。
ただ、差別と言っても、これが「悪意のない差別」であろうことには注意が必要と思います。
歴史的に最近まで育児に積極的な父親が少なかったというのは事実です。
長い経験の中で、そうした「父親が育児に消極的な社会環境」に自然と保育園の職員が適応してしまったのは致し方のないこととも言えます。
ですからこれは、「統計的差別」であったり、なんなら「いつもの癖」とも言えるような、「悪意のない差別」であり、まず保育園の職員さんには悪気は全くなかったことでしょう。
差別的な対応にとっさに反応できなかったこと
もう一つのポイントは「このお父さんがそうした差別的な対応にとっさに反応できなかったこと」です。
確かに、後からこの方は職員の非礼な対応に対し、怒りと悔しさを覚えてはいます。
しかし、こうした差別的な対応に、どうして彼はつい従ってしまったのでしょうか。
これはこの問題を読み解く上で大事な点と思います。
彼が反応できなかった理由は、これがまさしく「悪意のない差別」であったからだと江草は考えます。
「悪意のない差別」にとっさに対応するのは難しい
「悪意のない差別」というものはとっさに対応するのが難しい厄介な代物です。
この体験談の状況を想像してみてください。
保育園の職員さんなんて、人による差はあれど、基本的に友好的で親切丁寧な態度で接してくださるものです。
ですから、問題の「お父さんはあちらで」というセリフも、笑顔で友好的な態度とともに差し出されたセリフと思われます。
そんな友好的な態度で促された時、それがたとえ差別を内包している対応だったとしても、とっさに「いや」と否定的な態度を示すことができる人は、かなり少ないのではないでしょうか。
そうした場合、つい相手の顔を立ててひとまず従ってしまうのが人情というものでしょう。
しかも、保育園の説明会という場面で、こちらも「これからお世話になる相手方に失礼のないように」と構えているでしょうからなおさらです。
顔が見えない時には批判は言いやすい
ネット上では、こうした差別的なエピソードに対しては、差別を批判する声が容易に生じます。時には過度に攻撃的になる人さえいます。
ネット上で、このように人々の批判感情が燃え上がりやすいのは、顔が見えない相手には人は厳しい態度を取りやすい、という性質のためと言われています。
逆に言えば、顔が見える相手には人は厳しい態度は取りにくいこと、の裏返しでもあります。
リアルでも、自分に対し攻撃的な態度であったり、自分を嫌っていることがありありと分かる相手に対してであれば、とっさに反撃することは容易でしょう。
しかし、敵ではないはずの友好的な態度の人物から、悪気が全く感じられない形で非礼を受けた時、とっさに反応できず飲み込むのは、とてもありそうなことではないでしょうか。
「悪意のない差別」こそ厄介で根深い
このように「悪意のない差別」は、非攻撃的な態度が伴うという性質のために、指摘し難く、うやむやになりやすいという特徴があります。
しかし、この性質こそが「悪意のない差別」を厄介で根深いものにしています。
「悪意のない差別」は減らず、広がるばかり
「悪意のない差別」を行っている側は、悪気がないので指摘されなければ自分が差別をしたことに気づくことはありません。つまり、その対応を改める機会がないのです。
そして、その後も引き続き「悪意のない差別」を無意識的に継続することによって、「悪意のない差別を抱いた社会文化」を維持し、場合によっては強化していってしまいます。
たとえば、さきほどの体験談の例で言えば、「父親はあちらで」という発言に「父親差別」の性質が内包されていたことを指摘されなかったその保育園の職員は、今後も「母親中心」の前提での保護者への対応を続けることでしょう。
人間は周囲の人に影響されるものですから、その「母親中心」の対応を見た他の職員も同様に「母親中心」の対応になりやすいですし、新しく来た職員に広がることだってありえるわけです。
誰にも悪気がなく本当の悪人がいない中で差別が減らず蔓延する様は、無垢の人々を媒介に広がるコロナのパンデミックのようでもあります。
指摘されたとしても受け入れがたいおそれ
さらに言えば、「悪意のない差別」を行ってしまった人が、その事実を指摘されたとしても、容易には受け入れがたいおそれもあります。
人は「よかれと思ってやったこと」を否定されると、反射的に怒りを覚えやすいもの。
たとえば、よかれと思って自発的に皿洗いをして「洗い物やっといたよ」と告げたとして、その返しが「洗い方が汚い」だったら、その指摘が妥当だったとしても、なんだかムッとしませんか?
なので、まずその行為に感謝を告げて敵対的でないことを示して、その上でその行為の問題点であったり改善点であったりを、しずしずと丁寧に指摘しないと、人はなかなか反省点を受け入れないのです。
これはなかなか高度な技術であり、初対面で、とっさに、しかも自分の怒りを抑えたままこれを繰り出せる人は非常に稀であることは間違いないでしょう。
「悪意のない差別」に注意しよう
このように非常に厄介な「悪意のない差別」。
善い人たちでさえ、いえ、善い人たちだからこそ、やってしまいやすいことなので、本当に対応が難しいです。
では、「悪意のない差別」を減らすために、せめて何ができるでしょう。
「悪意のない差別」を受けてしまった時に備えて、とっさの場面でもうまく丁寧に対応、指摘できるよう訓練する。そしてそれと同時に、私たち自身1人1人も自身の中に「悪意のない差別」が隠れてないか注意することが大事だと思います。
「差別をしてない人」というのは絶対に存在しないですし、「自分は差別をしてない」と信じている人ほど「悪意のない差別をしている」おそれが極めて高いです。
難しいですが、コツコツと気をつける他ありませんね。
以上です。ご清読ありがとうございました。
コメント