> [!NOTE] 過去ブログ記事のアーカイブです 三度目の緊急事態宣言ということで、嘆きの声が多く聞こえてきます。 「この一年何してたんだ」とか、「休業なぜ一律なのか」とか、「ずっと生殺し状態」とか。 ところどころで、いがみ合いも発生しているようです。 こうしたいがみ合いを見ている中で、コロナがつくづく厄介な存在であることを痛感させられます。 コロナ禍が厄介な原因は「誰も加害者がいないのに被害はやたらと薄く広く分布する性質」にあります。 私たちの社会は、実害が起きた時、「加害者が被害者に補償する」という形式で解決することに慣れています。 よく言う「自己責任論」でさえ、「加害者と被害者が同一人物のケース」というだけで、同類の形式です。 しかし、コロナ禍ではわかりやすい加害者がいません。 その上、被害が主に「予防活動」という姿で現れ、それが「健康被害」という実害よりも先行して広範に広がる特徴があります。 実害としての「健康被害」の方が個々として重大なのはもちろんです。 しかし、「予防活動」という「薄く広い被害」も、これだけで十分に生活が立ち行かなくなる人たちもいますし、また、広いだけに合計するとあまりに巨大な被害です。 このため、「この薄く広い被害をどう扱うか」が大きな社会の難題になります。 これは皆さんも現在進行系で実感してるところでしょう。 「加害者が被害者に補償する」という形式での解決に慣れた私たちの社会が、「誰も加害者がいないのに被害はやたらと薄く広く分布するコロナ禍」に対峙する時、何が起こるでしょうか。 大きく分けて3つあると思います。 まず1つ目は「誰もが誰かを加害者にしたがる現象」です。 加害者がいないと落ち着かないので、少しでも落ち度がある者は責めたくなってしまうのです。 その気持ちは分かります。 この緊急事態に、飲み会されてるのを見ると、顔をしかめたくもなるでしょう。 でも、それでもなお彼らは絶対的な加害者ではないのです。 コロナ禍の、絶対的・直接的加害者はコロナウイルスをおいて他にありません。 2つ目は「無実な自分は救済されるべきと誰もが主張する現象」です。 誰もが、「特に悪いことをしていないのに困らされてる自分」は、「無実の被害者である」と感じています。 もともと「被害者は補償される」という慣れ親しんだ感覚があることから、自然と「無実の被害者である自分は救われるべきである」と主張するに至るわけです。 これも、確かにもっともな気持ちです。 ですが、全員が同じように「自分は救済されるべき」と主張し始めるのは、なかなか困った状況ではないでしょうか。 3つ目は「社会の連帯が失われること」です。 これは、1つ目と2つ目をあわせた帰結です。 「自分は無実な被害者なのに誰も補償してくれない、おかしい」という気持ちから、「加害者がいれば補償されるはず、かつ自分の無実も証明される」として、ますます「悪者探し」がエスカレートするわけです。 互いに互いを「悪者認定」しようと虎視眈々と睨み合ってる社会では、協力的な体制を築くのが難しく、必然的に社会的な連帯が崩壊してしまいます。 これは今、日本でも十分懸念される状況ではないでしょうか。 つまるところ、コロナを含む自然災害は、社会に「理不尽の分配」の問題をもたらすのですよね。 もちろん、自然災害は基本的に加害者はいません。 ただ、コロナと違って、地震でも竜巻でも隕石でも、多くの自然災害は、被害者が明確で限定的な災害が多いので、社会が補償することがしやすいです。 また、多くの災害は、ほぼほぼ「被害=実害」というわかりやすさがあり、たまたま被害を受けた「不運な者」に責任を負わせて終わるのが基本形式です。 「不運」が自分の責任になりうると知ってるからこそ、人はしばしば保険に加入するわけです。 一方で「リスク回避のための予防活動」が「被害」として薄く広く分布するコロナ禍では、「実害未満」の「リスクそのもの」が被害の主な形態と言えます。 これにより「リスク」すなわち「不運」そのものを人同士で押し付けあう構図が生まれます。 こうなると、多くの自然災害のように「不運な者のせいにして話を打ち切る」という分かりやすい落とし所がありません。 だからこそ、「不運」すなわち「理不尽」の行方を巡って、こうして社会的にいがみ合いが起きてしまうのだと思います。 私たちの多くは、「無実な者、善い行いをした者、努力した者は、救われるべき」とする「運の平等主義」や「公正世界仮説」的な感覚をもっています。 だからこそ、先にも述べた通り、誰もが「無実の被害者」であるコロナ禍では、誰もが「自分の被害」を受け入れようとしなくなります。 しかし、コロナ禍という厄災が人類社会にもたらしている「理不尽」とは、そうした「善い者が報われる期待」を否定するからこそ「理不尽」なのです。 「理不尽」を誰かが引き受けなければならないのです。 だから、コロナ禍はつくづく厄介なのです。 さて、とてつもなく厄介な代物なのは承知の上で、「この理不尽をどうするべきか」私見を述べますと。 最終的には「理不尽」は政治が引き受けるほかはないと思います。 実際のところ、こんな人類未曾有の危機の舵取りは誰だって難しいはずなので、政治家のみなさんも不運だし、気の毒とは思います。 でも、その理不尽を引き受け、責任を取ることこそ政治家の役割だと思うのです。たとえ、政治家個人としていくら落ち度がなかったとしてもです。 だから、保身に走らず、他人のせいにせず、何なら再選も諦める覚悟で、毅然とした態度でコロナと闘ってもらいたいです。 申し訳ないですけど、頑張っても報われません。なにせ「理不尽」なので。 でも、ここで「自分は悪くない」と主張して責任逃れするならば、それこそ引き取り手を失った「理不尽」の暴力のために社会が崩壊してしまいます。 だからこそ「理不尽」を引き受けてください。 これこそ、政治家の矜持の見せ所だと、江草は思うのです。 以上です。ご清読ありがとうございました。 #バックアップ/江草令ブログ/2021年/4月