> [!NOTE] 過去ブログ記事のアーカイブです サンデルの新刊『実力も運のうち 能力主義は正義か?』も出まして、メリトクラシー(能力主義、功績主義)の罪に注目が集まっています。 メリトクラシーとは、簡単に言えば、「能力がある者が成功すべき」とする社会的価値観です。 サンデルはメリトクラシーに伴う敗者の尊厳の毀損や、社会の連帯の欠如について強く警鐘を鳴らしています。 江草も感想記事を書いています。 [[マイケル・サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か?』感想文]] ただ、よくよく考えてみると、問題の本体は「メリトクラシー」(meritocracy; 能力主義、功績主義)ではなく「メトリクラシー」(metricracy; 測定主義)なのではないかと思い至りました。 なお、「メトリクラシー」とは「測定」の意味を持つ”metri-“をもじった江草の勝手な造語です。「メリト」ではなく「メトリ」です。 ここでいう測定とは、曖昧な感覚的評価で済まさずに、きっちり数値化しようとすることを指してます。 事実、メリトクラシーには測定という行為が欠かせません。 能力や功績に基づいて序列を組むには、まず能力や功績を比較できるように客観的指標で表さないといけません。すなわち測定しないといけません。 指標は、多くの場合厳密さを求めて可能な限り比例尺度に落とし込むことを目指しますが、序列を組むためだけなら順序尺度や、なんなら名義尺度でも十分でしょう。 メリトクラシーの文脈では、分かりやすい明確な指標で、みなが欲しがったり憧れたりする対象を序列化します。 指標として分かりやすいのは年収です。序列はもちろん、絶対的な差も明瞭に可視化されます。 学歴もそうです。お金のように差の厳密な計算はできませんが、大学の偏差値だったり、ランキングだったりがご丁寧にも用意されていて、大学の序列を可視化するのに余念がない世の中です。 Amazonや食べログのレビューの星の数もそうでしょう。主観的評価を基本とする他なく、本来分かりにくいはずの「商品やお店の質」を、比較検討できるように数値化しています。主観的評価をわざわざ客観的数値に変換しているわけです。 もちろん、こうした測定行為は悪いことばかりとは言えません。 時に偏見や錯覚に陥る私たちの直感を客観的数値として測定して冷静に分析することで、私たちの勘違いやミスを防ぐ効果があります。 特に、主観を排し客観的観察を重視する科学研究の文脈では、測定は非常に重要な地位を占めています。 ただ、今、問題としているメトリクラシー(測定主義)は、人間をも数値化、序列化する文脈に放り込んでしまっています。 趣味でやってるスポーツやゲームで点数や順位が出る程度ならまだしも、万人それぞれの人生を左右するレベルで、入学試験などの「人間の測定」が社会にとって強力な地位を占めるようになっています。 これに伴って生じている、数値に表れない個人の細かい特性や、歴史、文脈がまるっと無視されてしまう傾向が、世の中の息苦しさの原因の一つではないでしょうか。 いわゆる「競争の敗者」が憤るのも、「敗者になったことへの怒り」というよりも、こうした非人間的メトリクラシーがまかり通っていることに対する「人間としての義憤」も多分に含まれてるように感じます。 また、学歴競争以外でも、メトリクラシー(測定主義)の問題と言えるものがあります。 たとえば、人類学者の磯野真穂氏は、人々がカロリー計算や体重増減を気にするあまり、人間的な食文化を喪失してしまってることを指摘されています。 > 数で表されたものは、客観的で中立的なものと考えられ、それゆえに説得力を持ちます。ですが実際はそんなことはありません。何かが数えられるときそこには管理という独特な目線が入り込み、その目線の出所には、管理者が何を重要視し、何を軽視するかという管理側の世界観があるのです。 > > 磯野真穂.ダイエット幻想 ──やせること、愛されること(ちくまプリマー新書)(Kindleの位置No.1137-1139).筑摩書房.Kindle版. > ダイエットはその魔力が現れる場所の一つです。変身願望を元に、数値目標を設定して開始されるダイエットは、食べ方と暮らし方の大幅な変更を要請します。そしてその変更の仕方が適切かどうかは、体重や体脂肪率、筋組成といった数値で判断され、もし問題がある場合にはさらなる変更が要請されます。すると目の前の食べ物が自分の好きなものか、嫌いなものか、おいしいのか、そうでないのか、食べ物を共有している人々との時間を楽しんでいるかなど、そういった食べることの文脈はどうでもいいものに変わります。 > > 磯野真穂.ダイエット幻想 ──やせること、愛されること(ちくまプリマー新書)(Kindleの位置No.1201-1206).筑摩書房.Kindle版. こうした食文化への影響も考えると、メトリクラシー(測定主義)は、メリトクラシー(能力主義、功績主義)の問題よりも、さらに深く大きな問題のように思えてなりません。 少なくとも、何でもかんでも数値化して比較してしまう社会のメトリクラシー的なクセについてはもっと注意を払われるべきなのではないでしょうか。 以上です。ご清読ありがとうございました。 #バックアップ/江草令ブログ/2021年/5月