中年男性と少女[1]少年の可能性もありえますが、便宜上、少女で表記していきますにおける真剣恋愛と性交を想定した本多議員の発言が炎上しています。
[2]2021/06/30リンク切れ確認。魚拓に置き換え
江草自身、議論の概要を聞いた印象では、性交同意年齢がどうも低いと感じるので、多くの人と同じく同意年齢の引き上げに賛同しています。
議員の言うような、中年男性と少女との真剣恋愛が絶対に存在しないとは言えないものの[3] … Continue reading、それでも引き上げるメリットがデメリットを上回るように思います。
といっても、正直言ってこの法律議論の周辺事情や歴史的経緯の知識には疎いので、主張内容の是非についてはやんわりとした個人的印象しか語るのが難しいです。
で、今回はこの「主張内容の是非」についてではなく、「議論の中でこの発言が出ることの是非」についての話です。
今回の問題においては、いわゆる「メタクリティカル・シンキング」という視点でも議論を眺めることが大事だと思います。
そのあたりについて説明していきます。
議論の場で発言することを擁護する意見もある
江草の観測範囲では、多くの人が議員の発言を「ありえないことだ」として非難しています。
しかし、一方で「法律の議論をする時に不快な意見が出ることはありえるし、それは容認しないといけない」と、議員が発言する権利そのものについては擁護する意見も少なくありません。
これはあくまで「少女との性交を認めよう」という意見ではなく、「中年男性と少女の真剣恋愛」のような仮定の話は、たとえ不快もしくは愚かなものであっても議論の場で提示することは権利として認めないといけないのでは、という意見になります。
(↓発言行為そのものは擁護する意見の一例)

発言の自由の尊重
実際、議論の場における「発言の自由」は古くから重要視されています。
たとえば、19世紀の自由主義の偉人ミルの『自由論』でも、どんな意見であっても意見表明は尊重するべきと主張されています。
このような〔意見表明を抑圧する〕権力は、世論に逆らって行使する場合と同じように、世論に沿って行使する場合でも有害であり、あるいはいっそう有害である。一人以外の全員が同じ意見で、その一人だけが反対の意見だったとしても、その一人を他の全員で沈黙させるのは不当なことである。その一人が権力を持ち、それによって他の全員を沈黙させるのが不当なのと同じである。
岩波文庫 J.S.ミル『自由論』p42
また、名言の
「私は、あなたの言うことに反対だ。だが、あなたがそれを言う権利を、命にかえても守ろう。」
というのも有名です[4]どうも、ヴォルテールの発言とも、違うとも、そもそも改変がひどいとも言われてる曰く付きの名言ですが。
つまり、「発言の自由」の尊重という文脈から考えれば、発言する権利は認めた上で議論の場で正々堂々と反論すれば良いのだということになります。
だから発言することそのものを咎めたり、ましてや議員辞職まで求めるのはやりすぎだというわけです。
「議論をしない風土」への批判
こうした発言の自由を尊重する意義としてよく言われるのが、発言の自由を認めないとアンタッチャブルな聖域を作ることになり、自由な議論の風土が崩壊するという懸念です。
たとえば、ちょうど先日も日本オリンピック委員会の山口理事がインタビュー記事の中で「委員会の会議の中でオリンピック中止の議論が全くなされてないこと」を批判されていました。
これは日本という国の縮図ですね。きっと議論したくないんですよ。
もしかしたら、(私の言うことに)賛同している人もいるのかもしれない。だから逆に議論したくないのかもしれない。国民と開催の是非について議論して、その先に中止の結論があったら困るから。
この思考がダメなんです。いろいろな分野で日本が世界の中で競っていくときに、「議論したら負けるから議論しない」では、結局、やる前から負けている。今が、そのことに気付くチャンスだと思う。
Newsweek-山口香JOC理事「今回の五輪は危険でアンフェア(不公平)なものになる」
ここでまさしく山口理事は「議論をしない風土」を批判していると言えます。
発言の自由はクリティカル・シンキングの真髄
このように、あくまで聖域は作らず、必要とあらば適宜議題に上げて自由な発言をもって吟味するべきだというのは、クリティカル・シンキング[5]日本語で言えば「批判的思考」になります。の真髄ではあります。
今回の問題で「発言することは否定してはいけない」という意見の方は、おそらくは、こうした発言の自由や、自由な議論の風土を尊重したいとする人たちが多いと思います[6]ただし、印象論にすぎませんが。
その意味で言えば、江草も自称クリティカル・シンカーですので、不快あるいは愚かな発言であっても議論で出現することには寛容でありたいと思う一人ではあります。
だから、今回の件についても議員の発言内容に賛同はしないし、同意年齢引き上げもやむを得ないと思う立場でありつつ、同時に議員が発言する権利そのものは認めてあげたいという複雑な心境になっています。
そしてメタクリティカル・シンキングへ
さて、ややこしいのはここからです。
「クリティカル・シンキングが大事」という主張に対しては、「だからといって何でも議論に上げるべきなのか」「何でも議論に上げてよいと言えるのか」と、それはそれでさらなる議論が存在しているのです。
クリティカル・シンキング自体の是非および適用すべき範囲を考えるこの議論は「メタクリティカル・シンキング」とも呼ばれます。
江草手持ちの本では『科学技術をよく考える―クリティカルシンキング練習帳』に詳しい説明があります。(良書なのでオススメです)
たとえば、この本では「原爆投下の是非を論じることの正当性」というテーマを考える章が用意されています。
恐れ多くも江草の拙い言葉で一言でまとめちゃいますが、
- 「原爆は戦争の早期集結のためにやむをえなかった」という主張を改めて吟味する議論が必要だ、という立場
- 原爆のような絶対的な恐ろしい経験の是非を議論すること自体、被爆者の体験を矮小化するもので許されない、という立場
といった、賛否双方の論証を丁寧に描いています[7]あまり適切なまとめでないかもしれませんが、今回の本題ではないところなので、細かいところはご容赦ください。
詳細まではここではご紹介できませんが、実にどちらも互いに引けを取らない説得力がある論証が提示されており、一筋縄ではいきません。
もちろん、この本自体は賛否どちらが正しいという判断は下しません。
ただ、あなたはこの議論に対しどう意見するのか、という大変ハードな課題をひたすら考えさせられるわけです。
このように、議論に上げること自体の是非を議論するのが「メタクリティカル・シンキング」になります。
どこまで議論に上げていいのか
翻って、議員の発言の問題です。
今回の議員の発言行為そのものに怒りの声を上げてる方々は、このメタクリティカル・シンキングの文脈でいえば、「そもそもそんな恐ろしい仮定を議論に上げること自体がおかしい」と考える立場と言えるでしょう[8]もちろん、本当はもっと複雑で多様な意見の集合体と思いますが、話の都合上ちょっと雑な分け方ですみません。
一方、今回の議員の発言ぐらいは議論の中で出るのも仕方ないと思う人であっても、「ではどんなに過激な意見であっても自分は許せるのだろうか」と自問自答することは一つ試す意義があると思います。
これはあくまで例ですが、
「少女の同意なんてそもそもいらないのでは」とか、
「子どもは大人に従えばいいのだ。少女の権利など何ら認める必要はない」とか、
恐ろしい過激な意見はいくらでも想定できるわけです。
ですから、「これも議論のためだから」でどこまでも許されるのかというのは、確かに考えるべき課題になるでしょう。
どこまでもは許されないとしたら、「ではどこまでなら許されるのか」「その基準の理由は何か」と、いくらでも考えることは尽きません。
この難しさを考えれば、「議論の文脈から大きく逸脱した意見」は時にどうしても発言行為そのものが批判されうるというのは仕方がないとは言えるでしょう。
もちろん、「今回の議員の発言が議論の文脈から外れたものかどうか」もまた論点にはなりえます。
ただ、少なくとも現実として、逸脱した意見を言う時には相当の慎重さや丁寧さ、そして覚悟が必要ではあるのではないでしょうか。
クリティカル・シンキングは議論好きのためのものかもしれない
そもそも、クリティカル・シンキングの励行を主張するのは、実のところ議論が好きであったり、議論が得意な者の言い分とも言えます。
世の中には議論が嫌いな人も、議論が苦手な人も当然います。
それは仕方ないことですし、責められるべきことでもないでしょう。
もとより議論をしなくても、人は誰もが個人の価値観を主張することが許されています。
それを引っ張り出して「議論しろ」とばかり言うクリティカル・シンキング至上主義は、傲慢さを持ち得るところはあるのです。
クリティカル・シンキングそのものも価値中立的ではないかもしれない
また、内容によって議論すべきかどうかの判断が変わるのだとすれば、クリティカル・シンキングそのものも価値中立的ではないと言えるかもしれません。
そもそも人は何でもかんでも疑ってみるわけにもいかないので、その人にとって違和感がなく当たり前と思っているものにはわざわざクリティカル・シンキングの目線を向けません。
逆に言えば、その人にとって確信度が低いと感じられたもの、疑う重要度が高いと思われるものから議論をしようとします。
だから、「何を議論するか」という判断自体、その人の価値観から独立しておらず、価値中立的ではありえないわけです。
そういう意味で、発言内容の是非の判断と、発言する行為自体の是非の判断との間には複雑な関係性があります。
理屈の上では、問題の枠組みが異なるので、一見独立の問題のようであります。
しかし、実際には良くも悪くも、個人の価値観の深部でそれらは複雑に絡み合ってるものなのではないでしょうか。
それでも健全な議論のあり方と発言の自由を考えたい
さて、今回、発言行為そのものを擁護するクリティカル・シンキング的発想にも、さらにメタクリティカル・シンキング的な議論があることをお話してきました。
すなわち、なんでも議論をすればいい、なんでも発言の自由が許される、ということ自体にも議論があるわけです。
ただ、それでも気にかけて欲しいことは、今回の議員の発言行為そのものを擁護していることは、発言内容そのものを擁護していることとはやはり意味が異なるということです。
確かに「議論内の自由な発言は許すべき」とする意見を持つ者は、多くの人が感じているほどの憤りを共有できていないのかもしれません。
その点は、実のところ個人の潜在的な価値観と厳密には無関係ではないでしょう。
ですが、それは別に「議員の発言内容に賛同しているから」ではなく、あくまで「発言の自由や議論の文化を守りたいという点に個人的に強い想いを持っているから」だと思うのです。
発言の自由は、歴史上、それこそ凄惨な無数の事件を経て、大変な苦労をして人類が勝ち取ってきたものです。
そうした悲劇を繰り返したくないという想いから、性犯罪というこれまた筆舌に尽くしがたい悲劇の防止との狭間で、ジレンマに揺れながらも、発言の自由についてこだわり考えることもまた大事なのではないか、と江草は思うのです。
以上です。ご清読ありがとうございました。
脚注
↑1 | 少年の可能性もありえますが、便宜上、少女で表記していきます |
---|---|
↑2 | 2021/06/30リンク切れ確認。魚拓に置き換え |
↑3 | 現実にありえる具体的なシチュエーションを想像しているわけではなく、存在しないことの絶対的な証明はいわゆる「悪魔の証明」なので不可能だ、という理論上での意味になります |
↑4 | どうも、ヴォルテールの発言とも、違うとも、そもそも改変がひどいとも言われてる曰く付きの名言ですが |
↑5 | 日本語で言えば「批判的思考」になります。 |
↑6 | ただし、印象論にすぎませんが |
↑7 | あまり適切なまとめでないかもしれませんが、今回の本題ではないところなので、細かいところはご容赦ください |
↑8 | もちろん、本当はもっと複雑で多様な意見の集合体と思いますが、話の都合上ちょっと雑な分け方ですみません |
コメント