「医療崩壊するから自粛するのが当然」と言い切るのは難しい

医療スタッフのイラスト社会

三度目の緊急事態宣言となり、コロナ禍の出口が見えないためか、「命」と「活動制限」を天秤にかける議論(言い争い?)を見かけることがまた増えてきました。

 

 

で、議論の中で、こうした「医療崩壊するから自粛は当然だ」という意見をしばしば見受けます。

同じ医療者として、気持ちは分かります。医療崩壊なんて見たくないですからね。

しかし、申し訳ないのですが、それでも、「医療崩壊するから自粛は当然だ」と強い主張を行うのは難しいと考えます。

 

こう言うと、「自粛に反対」という意味に聞こえるかもですが、そうではありません。個人的には自粛に賛成しています。

ただ、同時に、「自粛が絶対的に正しい」と言い切ることもできないのではないか、と思ってもいるのです。

 

ちょうど昨日の記事で「仕事」について書きましたけれど、人は命や健康だけでなく、仕事だったり、人間関係だったり、お金だったり、様々なことに価値を見出します。

それらの価値は単純に比較できないし、しばしば衝突します。

というより、世の中に起きてるほとんどすべての問題は、こうした比較が困難な価値の衝突(ジレンマ)と言うべきかもしれません。

「仕事と私どちらを取るの?」というフレーズが有名なのは、これが私たちが常に悩むジレンマの象徴だからでしょう。

価値の衝突に関しては、比較や計算ができない以上、あくまで明確な解はないのです。 

こうした比較不可能な価値の衝突において「こちらの価値を選んで当然だ」という態度をとるのは、言わば「思考停止」ではないでしょうか[1]もっとも、同様の理由で、「自粛をする必要は当然ない」という断定的主張についても、「思考停止」と言わざるを得ませんが

 

「医学的に正しい」「科学的に正しい」という言葉はよく使われます。

しかし、つまりそれは「医学的、科学的な文脈の範囲で正しい」という意味であり、「医学や科学の文脈の外では必ずしも正しいと言い切れないことがある」と自ら認めていることに他なりません。

いわゆる「トランスサイエンス問題」は、「科学の文脈」が「科学以外の文脈」と遭遇し、そうした「正しいこと」が不明瞭になる場面の最たるものでしょう。

 

コロナ禍における自粛の問題は、医療の範囲に留まらない社会全体の価値に及ぶ大問題で、まさしく「一大トランスサイエンス問題」です。

医療者にとって「医療の文脈」を最重要に思う気持ちは分かります。

しかし、それでも、こうしたあまりにも大きすぎる問題を「医療の文脈」の枠内での議論に押し込めるのは適切なやり方ではないでしょう。

建設的な対話や議論のためには、「医療の文脈」の他にあまたある「相手の文脈」にすり合わせる努力がどうしても必要になるのです[2]もちろん、相手側も「医療の文脈」にすり合わせる必要があります

 

つまるところ、こうした解の出せない価値の衝突に対しては、解が出せない以上、ただ永遠に問い続けるしかないのだと思います。

道を外れずに運転するためにはハンドルを握りしめ操作し続けなくてはいけないのに似ています。

どちらかが正解ということにすれば楽ですけれども、それは片方の大事な価値を盲目的に投げ捨てることを意味します。

それはハンドルから手を放すような、危険で乱暴なことのように江草は思うのです[3]とはいえ、実は「思考停止し盲目的になるのも仕方ない」と諦める議論も可能です。「メタクリティカルシンキング問題」などと呼ばれます

 

だから、ちょっとムッと感じるかもしれませんが、こうした「自粛する必要はあるのか」という根本的な問いが出てくることはむしろ社会にとって健全なことだと思います。

もちろん、それに賛同する必要はないですけれど、その重要な問いそのものについては、医療者であっても、誰であっても、真摯に考えなければならないことではないでしょうか。

 

 

以上です。ご清読ありがとうございました。

 

脚注

脚注
1 もっとも、同様の理由で、「自粛をする必要は当然ない」という断定的主張についても、「思考停止」と言わざるを得ませんが
2 もちろん、相手側も「医療の文脈」にすり合わせる必要があります
3 とはいえ、実は「思考停止し盲目的になるのも仕方ない」と諦める議論も可能です。「メタクリティカルシンキング問題」などと呼ばれます

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