> [!NOTE] 過去ブログ記事のアーカイブです 最近本屋に立ち寄ったら、斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』始め、資本主義の限界を説く本が大集合したコーナーができていて驚きました。 さながら脱資本主義フェアです。 我々の資本主義に暗雲が立ち込めてるなあと、実感した出来事でした。 で、今日はそうした脱資本主義本の一角、アーロン・バスターニ著『ラグジュアリーコミュニズム』を紹介します。 [ラグジュアリーコミュニズム | アーロン・バスターニ, 橋本 智弘 |本 | 通販 | Amazon](https://amzn.to/3tnYv6m) これ、なかなか面白かったので、オススメです。 書籍のタイトルにもなっている「ラグジュアリーコミュニズム」という言葉は実際にはもう少し長い名前です。 “Fully Automated Luxury Communism”. 略して”FALC”です。 日本語訳では「完全自動のラグジュアリーコミュニズム」と称されてます。 後半はそのままカタカナになってるだけなので、勝手に意訳すれば「完全自動のぜいたくな共産主義」となるでしょうか。 この「ラグジュアリーコミュニズム」。ざっくり言えば、「完全自動」の部分がAIで労働力が置き換えられること、「ラグジュアリー」の部分が技術革新に伴い各種資源やエネルギー、なんなら寿命まで「余る」こと、を指しています。 情報革命で労働力も、エネルギーも、資源も余る見通しが立ったのだから、今こそ「欠乏」を前提とする「資本主義」とくに「新自由主義」と決別し、次の社会制度にふさわしいこの「ラグジュアリーコミュニズム」に乗り換えるべきというのが、本書の主張になります。 まさかそんな労働力や資源が余ったりするの、と思われるでしょう。 でもたとえば労働力については「AIで仕事が奪われるかも」という技術的失業の懸念は実際よく聞かれていますよね。 これは裏を返せば「労働力が余る」ということを示唆しているのではないでしょうか。つまり、私たち自身その「余剰」の気配を感じ取ってはいるはずです。 また、労働力以外についても、著者のバスターニは、「エネルギー」「資源」「健康」「食糧」と章を分けて、それぞれ最新技術革新の具体的事例を紐解きながら、十分に「ラグジュアリー」が実現可能であると説いています。 実際に面白い事例が多いです。 たとえば資源対策で取り上げられているのが「小惑星からレアメタルを採掘する」という驚きの手法です。 小惑星には人類の必要量を大幅に上回る膨大な埋蔵量があると見込まれているらしく、実際に「小惑星からの採掘」を目的とする企業も生まれてるそうです。 なかなかロマンはありますよね[^1]。 で、こうした労働力やエネルギー、資源が有り余る「ラグジュアリー」な状態には資本主義は向いていないとします。 なぜなら資本主義は「欠乏」を前提としているシステムなので、資本主義存続のために無理やり「欠乏」を作り出すことになるだけだから。 たとえば、小惑星から豊富な資源が得られるとしても、価格崩壊されては困るからと採掘制限をわざわざかけて「欠乏」を維持するのが資本主義の論理になります。 別に小惑星の資源という想像上の話でなくとも、豊作すぎた野菜をわざわざ捨てるなどといった「欠乏」を維持するしぐさは私たちも日常見聞きしているはずです。 実際には「ラグジュアリー」になれるのに、この調子ではいつまでたっても「欠乏」のままになってしまいます。 だから「ポスト欠乏」の時代、これからは「ラグジュアリーコミュニズム」だと。 地球環境には配慮しつつも、働くのを機械に任せて、豊富な資源をもとに、より人間的な活動に専念する。 確かに正直魅力的なお誘いではあります。 ただ、著者の主張には、各所に疑問点や気になるところはあります。 たとえば、当の書籍の「解説」でさえ指摘されていますが、技術革新によって何でもかんでも「ラグジュアリー」になるという著者の見立ては、さすがに楽観的すぎるのではと。 『人新世の「資本論」』で有名になった脱資本主義論者の雄、斎藤幸平氏も、技術革新で問題を解決しようという、いわゆる「加速主義」については悲観的な立場を示しています。 著者のバスターニと対照的です。 もっとも、バスターニは、「資本主義の代案がそもそも想像すらできない」という「資本主義リアリズム」に万人が浸かってしまってる状態をまずどうにかすべきと考えているようなので、「対案」はある程度楽観的に魅力的に描かないと大衆を牽引することはできないとしているのでしょう。 あくまで、ひとつ社会が目指す方向としての提示ということであれば、全体に論理だった説明で、具体的事例も挙げてますし、本書の「ラグジュアリーコミュニズム」の考え方もそれなりに説得力はあると思います。 確かにまるで「夢物語」といえど、夢がないと人は動かないのも事実です。 こうした楽観的で魅力的な代案の提示は 現状の打破のきっかけとして評価できると感じます。 しかし、斎藤幸平氏もそうなのですが、脱資本主義を語る時に、「コミュニズム」とか「マルクス」からは離れられないもんなのでしょうか。 実際、思想として一理あったり、先見の明があったのかもしれないですけれど、「コミュニズム」や「マルクス」といった言葉には、さすがに前世紀の社会主義国家の失敗のスティグマが強すぎて、かえって大衆の拒否感を生じさせるだけの気がします[^2]。 共産主義の復権を図るよりも、資本主義と共産主義のそれぞれの長所と短所を省みて、アウフヘーベンした「新たな主義」としてぶちあげる方が、新しい時代にふさわしいように思うのですが。 以上です。ご清読ありがとうございました。 #バックアップ/江草令ブログ/2021年/5月 [^1]: なお、他についても軽く説明しておくと、エネルギーは太陽光発電システムの低コスト化、健康は遺伝子編集技術、食糧は合成肉技術など、を著者は「ラグジュアリー」に至る根拠としています [^2]: なお、前世紀の共産主義の失敗については、著者バスターニは、必要な技術革新が無い状態での共産主義は時期尚早でそもそも不可能であったと判断しています。今は情報革命で共産主義がようやく可能になったのだと。