「聞いてもらえた」が足りてない

コーヒータイムのイラスト社会

おはようこんにちはこんばんは、江草です。

今日は「聞いてもらえた」不足という社会の難題について。

 

とある公開倫理審議会を聞いていて感じたこと

とある公開倫理審議会を拝見する機会がありまして。

非常に難しい倫理課題を扱っていた会で、江草も頭を悩ませながら聞かせていただきました。

多様な意見が出る中で、医師や学会の無責任さを責めるような非常に厳しい意見もしばしば見られたのが印象的です。「五体満足で知能にも恵まれ親に教育費を出してもらったあなた達に何が分かるのか」といったほんとにキツイ言葉もありました。

 

こうした「当事者でもない人に偉そうに決められたくない。自分たちで決めたい」という切実な意見を聞いていて、江草は個人的に感じたことがありまして。

それは、その医師や学会に対する不信感に似た気持ちというのは、もしかすると、「自分の意見が聞いてもらえてない」「見捨てられてる」「無視されてる」といった、「聞いてもらえた」感の不足が背景にあるのではないかということです。

というのも、こうした厳しい倫理課題の領域に限らず、とかく全般に今の社会は「聞いてくれた」感が不足していると見られるからです。

 

「発信」と「聞く」の非対称性

たとえば、今や大SNS時代です。

「フォロワー」や「いいね」、「チャンネル登録者」が欲しい人たちで溢れかえっています[1]江草自身もtwitterやブログをやってるので、あてはまっちゃうのですが

それはつまり、あくまで自分が発信側で、「自分の話を聞いてもらいたい人」がたくさんいるということになります。

ただ、「フォロワー」や「いいね」、「チャンネル登録者」が増えるには、当然ながら「聞いてくれる人」が必要です。

 

しかし、ここで「発信」と「聞く」の非対称性が問題になります。

「発信」は一度に多数の人に向けて同時に行うことができます。tweetした瞬間に万単位の「いいね」をゲットする人だって居るでしょう。

一方で「聞くこと」は多数を相手にすることはできません。聖徳太子(厩戸皇子)でさえ10人の声を聞くのが精一杯で、「発信」と違って万単位の人の声を聞くことは誰にもできません。

このように、「発信」は効率的にできるけれど、「聞く」の方は地道に少人数を相手に、なんなら1人ずつじっくり対峙していかないと実行できない地道な作業であるという対照的な違いがあるのです。

 

市場原理や効率性と相性が悪い「聞く」という行為

しかも、この「聞く」という行為は、打算でなく親身に聞く態度が伴って始めて成立します。

たとえ市場原理に則って、お金を払って「聞いてもらった」としても味気なさが出てしまい、対価なく聞いてもらう経験とは別ものになってしまうのです。[2] … Continue reading

 

また、「聞く」という行為には目に見える成果がないので、「効率性」の概念とも相性が非常に悪いです。

実際、自由市場だけでなく、診療報酬制度でさえも「聞く」という行為は軽視されています。

診療報酬制度は限られた医療資源の中でやりくりするために、効率性も見据えて、実施した「診療行為」や「検査」単位で価格を決定せざるを得ないシステムになっており、じっくり診察で時間をかけて聞いたとしても報酬として評価されないのです。

その上、たとえ報酬にこだわらなかったとしても、どうしても忙しい臨床現場では「聞く」ことにかける時間は限られていて、誰かの話を聞けば、その分誰かの話を聞く時間がなくなるという、ゼロサムゲームのジレンマにも陥っています。

 

このように、市場原理や効率主義が行き渡った現代社会では「聞いてもらえる」経験が非常に貴重なものとなっているのです。

 

「聞く」行為の強みを知ってる人たち

貴重な「聞いてもらえる」経験ですが、それでいて、誰しもそれなしでは生きられない不可欠な本能的な欲求です。

そのためか、その貴重な機会を惜しみなく提供してくれた「聞いてくれた人」に対しては、人は熱く感謝し、強い信頼を寄せる傾向があります。 

そうした「聞く行為」の強みを知って利用している人達も、社会の中には少なからずいるように思います。

 

例えば、政治家

彼らがコロナ禍の中でも会食がやめられないのは、「会って聞くこと」の力を捨てられないからだろうと思います。

 

また、いわゆる「ニセ医学屋」もそうでしょう。

科学的根拠が薄弱でも彼らに信頼を置く患者さんが後を絶たないのはその「聞く行為」への注力があると江草は睨んでます。

 

そして、もはや犯罪ですが詐欺師も典型でしょうね。

最初親身に聞くことで、相手の信頼を勝ち得て、そしてスッと奪うわけです。

 

「よく聞く力」が欲しい

コロナワクチンを忌避する人が少なくないのではという疑念から、医療者からの「正しい発信を」と叫ばれて久しい昨今。

ですが、こうした「聞いてもらえた経験」の稀有さと、それを求める人の心と、「聞く力」の威力を鑑みると、「正しいことを発信する」だけではなく、どうやって「よく聞いてあげられるか」を考えることも大事なんじゃないかと思うのです。

もちろん、先に指摘した通り、「聞く」ことの難しさも同時にある中で、一筋縄にはいかない課題ではあるのですが、着実な「よく聞く力」の向上は地味ながらも多くの問題解決につながるのではないでしょうか。

 

以上です。ご清読ありがとうございました。

脚注

脚注
1 江草自身もtwitterやブログをやってるので、あてはまっちゃうのですが
2 一部の水商売は対価をもらいながら「聞く」を成立させてるお仕事のようですが、対価をもらいつつも、話し手にその打算感を感じさせないスキルが求められるのでしょう

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