おはようこんにちはこんばんは、江草です。
今日は、「全体のキャパシティが有限であることって忘れられがちだよね」というお話を。
ついつい言ってしまう解決策
「この問題を広く知ってもらいたい」
「情報をうのみにせず自分の頭で考えるべき」
「この内容は義務教育に入れるべき」
何かしらの問題が議論される時に、よく聞くフレーズですよね。
江草自身も普段からついつい言ってしまうフレーズなのですが[1]なんなら、昨日の記事でも使っていたような・・・、最近「この解決策には限界もあるよね」と、反省しています。
「全体のキャパシティは有限」という忘れられがちな現実
そう思ったのはある本がきっかけです。

こちらの「誰の健康が優先されるのか――医療資源の倫理学」という本。
まだ読みかけですが、序盤から鋭い示唆を受けたので印象に残っているのです。
長い箇所で引用が難しかったので、勝手ながら江草の言葉でその主旨をまとめますと。
「医療資源をどう優先順位を付けて配給するか」の課題に対し「お金をつぎこんで医療資源の不足を根絶すべき」という主張がよく出ることについて、この本は、その主張に一理あることを認めつつも「あらゆるものをあらゆるところでいつでも提供することはできない以上、結局は医療資源の希少性の問題が絶対にどこかで生じるので、配給のジレンマからは逃れられない」とピシャリと指摘されているのです。
江草は、わりと医療キャパシティ拡大論者なのですが、これには「痛いところをつかれたなあ」と感心させられました。
冷静に考えれば当たり前といえば当たり前なのですが、「全体のキャパシティはどうしたって有限」という現実は、個別の課題を検討している時には、つい忘れがちなんですよね。
キャパシティの拡大や効率アップはもちろん大切
この本も言ってる通り、キャパシティの拡大や効率アップを図ること自体はもちろん大切です。
無駄は省いたほうがいいし、工夫できることの模索は何であれ必要でしょう。
ですので、別にキャパシティの拡大を言ってはダメという意味ではありません。
有限のキャパシティ内でどう回すかの課題から逃れることはできない
ただ、いくら向上心が大切といっても、なんでもかんでも無限にできるわけではないことからは目をそむけてはいけないわけです。
どこかで絶対に「有限のキャパシティ内でどう回すか」という課題に私たちは直面せざるを得ないのです。
知的努力に依存する解決策の問題点
で、冒頭に戻って、「この問題を広く知ってもらいたい」、「情報をうのみにせず自分の頭で考えるべき」、「この内容は義務教育に入れるべき」といった定番のフレーズたち。
「全体のキャパシティ」の観点から考えると、これらの解決策の問題点が見えてきます。
代わりに何を諦めるのか
たとえば、「この問題を広く知ってもらいたい」とは言うものの、いくら向上を図ったとしても、人が知識を集める能力には限界があります。
しかも「この問題を広く知ってもらいたい」と言われてる問題は世の中に山のようにあり、しかも今なお増え続けています。
もはや「知ってもらいたい問題」同士が衝突し、渋滞している状況と言えるでしょう。
この無数にある問題を全て知ることは不可能な以上、「この問題を広く知ってもらいたい」と言う時、「では代わりにどの問題が知られることを諦めるべきか」というジレンマが発生するのは避けられません。
同様に「自分の頭で考えるべき」もそうです。思考する時間や余力は無限ではないのですから、「この問題を考える代わりに何を考えるのを諦めるべきか」という難題がついて回ります。
「義務教育に入れるべき」も同じです。教師のキャパシティや、カリキュラムの枠も有限なのですから、「この内容を教える代わりに何を教えるのを諦めるべきか」となります。
苦手な人もいる
また、「知るべき」「考えるべき」「学ぶべき」という解決策は、個人の知的活動のキャパシティを理想化しているおそれもあります。
人間は多様です。知識を得たり、考えたり、学んだり、といった知的活動が苦手という人が世の中に居ることを忘れてはいけません。
あまりに個人の知的活動の能力や努力に頼る解決策は、人間の知的活動の得手不得手が様々であることを無視した案ではないでしょうか。
個人の努力に依存しない仕組み作りが要るのでは
ついついやってしまう気持ちは分かるのですが、極論すれば、そうした「個人の知的活動のキャパシティの拡大の努力」だけを主張する解決策は、今現実にある「有限なキャパシティの中でどうするか」という課題を先延ばしし、見ないようにしているだけとも言えます。
残念ながら、見ないようにしたところで、消えてなくなるわけではないので、その課題についても忘れずに考えなくてはなりません[2]いえ、分かってはいるのですが、ここでは仕方なしに「考えなくてはなりません」が出ざるを得ず……。
何度も言いますが、知ったり、考えたり、学んだり、といった能動的な努力の大事さを否定しているものではありません。
しかし、有限なキャパシティの中でどうにかしなくてはいけない現実を直視するならば、そうした努力に依存しない仕組み作りもまた必要なのではないでしょうか。
たとえば、生物の行動も、なんでもかんでも知的活動で処理するわけではありません。
ある程度は、脊髄反射だったり、自律神経系で自動でコントロールしたり、無意識的にうまくいくような仕組みを備えています。
知的活動のキャパシティが貴重で有限であることを見越した、生物進化の知恵と言えます。
だから、私たちの社会の様々な問題についても、知ってもらわずとも、考えてもらわずとも、学んでもらわずとも、いつのまにかある程度うまくいってしまうような、そんな仕組み作りを検討してみてもいいのではないかと思うのです。
もちろん、それはそれで難しい作業ですし、社会のキャパシティも使うのですけれど、現実の問題に目を背けない解決案としてやってみる価値、いくらかのキャパシティを割く価値はあるのではないでしょうか。
以上です。ご清読ありがとうございました。
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