おはようこんにちはこんばんは、江草です。
今日は、コロナ禍で最近頻発している議論の構図について少し整理してみます。
「命か自由か」の議論
2度目の緊急事態宣言が出た昨今ですが、1度目の緊急事態宣言と少しコロナ対策の議論の様子が異なってきているのを感じます。
目立ってきたのが「命か自由か」の対立の議論です。
「いのちだいじに」モードだった第一次緊急事態宣言
1度目の頃は、コロナ禍もまだ急性期だったのと、コロナという敵そのものの情報が不明な点だらけだったこともあり、まずは皆「いのちをだいじに」モードで構えていた印象です。
もちろん、当時から「経済を回せ派」など、緊急事態宣言はやりすぎだったという意見も見られてはいましたが、「まずは感染対策だ」という意見が圧倒的だったように思います。その証拠に、1度目の緊急事態宣言の頃は、ほんとに街中の人出も稀になってましたね。
この頃は、まず「どうやったらコロナを抑えられるのか」「かかったらどうなっちゃうのか」「生活必需品は欠乏しないのか」などの「生きるか死ぬか」の議論が注目の的で、よくもわるくも「自由についてはある程度我慢しないと仕方ない」という空気でした。
「自粛の緩み」が出てきた第二次緊急事態宣言
しかし、今回の第二次緊急事態宣言時点では、まず街の様子から違います。
人出は多いし、なんならまだまだ会食やお茶をしてる姿だって容易に見つけられます。
こうしたいわゆる「自粛の緩み」は、コロナという敵の情報もある程度は分かってきたこと[1]分かった上でも極めて厄介な敵でしたが、コロナ対策があまりにも長期間で先行き不透明になってきたことで、さすがに皆の自粛の忍耐にも限界が来たからと考えられます。
つまり「もう自粛自粛は限界だよ、ある程度自由にさせてよ」という空気が生まれたわけです。
そして巻き起こる「自由」と「命」の対立
この「自粛の緩み」については、人命第一の精神で感染拡大防止が最優先の人からすると当然許せない風潮ですから、最近では「ちゃんと自粛して会食を控えて!」と「自粛の緩み」を非難している声を聞かない日はないぐらいです。
一方で、最近では比較的若い人を中心に「もう自由がほしいよ」という意見も、たびたびバズるようになってきました。

こちらは「今まで自粛頑張ってきたけれど、感謝もあまりされないし、お金ももらえないし、どちらかというと若いからコロナのリスクも低いわけで、そろそろ自粛したくなくなってきた」という投稿です[2] … Continue reading。
「自分個人としては自粛するコストとベネフィットのバランスが取れてるように感じないのに本当に自由にしちゃいけないのか」と、感染対策第一主義の痛いところを突いた投稿で、賛否両論を集めながら、そこそこのバズをしています。
https://anond.hatelabo.jp/20210112214313[3]後日、リンク切れになってしまいました
一方のこちらは「下っ端の医師[4]自称なので割り引いて見ないといけませんが」の方の投稿で、コロナ患者対応に頑張ってきたけど、感謝されてる感も少ないし、報酬も良くなるわけでもないし、「もうどうにでもなれ」と自暴自棄の気持ちが出てきたことを表明されています。
これも「みんなの健康のために」と滅私奉公して自分を犠牲にしてきた医療者が、さすがに見返りがなさすぎて虚しくなってきたという、現在の感染対策第一主義の1つの問題点を突いてると思います。

そしてこちらは、「ミュージカル俳優を目指す若い女性の方」の投稿。
自粛によって、「今」という唯一無二の若い時のチャンスをどんどん奪われてる現状の不安さを訴えられています。
人には「今しかできないこと」「今やりたいこと」がある、という感染対策との両立が難しい、大事な問いを提示されてると思います。
「われに自由を与えよ、しからずんば死を」も人間
医療職をやっていると、命こそが当然最大の価値と思いがちですが、人類の歴史を紐解くと意外とそうでもないんですよね。
アメリカの独立戦争も「われに自由を、しからずんば死を」のスローガンがあったわけですから、自由のためには命を惜しまないのも人間なんです。
最初の緊急事態宣言の時はさすがに反射的に命を大事にしたとしても、今のようにあまりにもコロナ禍による自粛が長期化したならば、上の投稿をされた方々のように命の危険を負ってでも「自由」を求める声が高まるのも、人のさがとして仕方がないところはあると思います。
功利主義と自由主義のバランスをどう取るかという人類永遠の課題
「命か自由か」
江草としては、どっちにも与するのは難しく感じます。
どちらも人にとって極めて大事だからです。
そもそも、これは人類永遠の課題の1つ「功利主義」と「自由主義」のバランスをどう取るかという問題の類型となっており、当然ながら江草ごときに容易に答えがだせるような問いではないのです。
「最大多数の最大幸福」を図る功利主義
それぞれをめちゃんこ簡単に紹介しておくと。
ざっくり言えば、「最大多数の最大幸福」を図るのが功利主義です。
コロナ禍においては、「このまま感染予防をしないと多くの人命が失われるから、全体の利益を考えると今のうちに自粛しておくべきですよ」という解釈をする傾向があります。
医療崩壊して多数の命を失うことを恐れ、自粛の徹底を呼びかける人は、どちらかと言うと功利主義的なフェーズに入ってると思います。
「個人の意思」を尊重する自由主義
一方で、自由主義は「個人の意思」を尊重します。極論その行動によって、本人の命を失うリスクがあろうと、他の人の命が失われるリスクがあろうと[5]ここは本当は繊細な議論があるところですが、少なくとも「直接的な他人への危害でない範囲で」などの注釈が付きます、個人が「そうしたい」という意思をまずは尊重することになります。
「感染拡大リスクがあるのは分かるけど、今は今しかないのだから、ある程度やりたいことをやらせてもらう」と言う人は、どちらかと言うと自由主義寄りなフェーズに入っています。
先程の投稿の方々が代表例ですね。
どちらが正しいと決めつけないことが大事
当然ながら、完全に功利主義な人も、完全に自由主義な人もいません。
それぞれの人の中で、なんとかごまかしながら両者の折り合いをつけてやっているのです。
しかし、これもまた当然ながら、人によってどちらをどれぐらい重視するかは多彩ですし、また、置かれてる状況や環境も異なるので、今のコロナ禍の現状で、「どちらの発想に寄るか」は人によってまちまちになるわけです。
なので、今の現状で、「命」を優先する人と「自由」を優先する人が同時に発生することは何らおかしいことではなく、極論、どちらも正しいとさえ言えます。
だからこそ、どちらが正しいとか決めつけて対立するのではなく、どちらも大事でありながらどう社会全体として折り合いをつけるか、お互いに敬意を払いながらしっかり話し合う必要があると江草は思います。
月並みな結論ですが、やっぱりそれしかないのだと感じます。
以上です。ご清読ありがとうございました。
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