今日も今日とてネット上[1]ここ数日は特に「はてな」界隈が熱くなってますでのリベラル論争が白熱していますね。
一概に明確な正解が出せない難しい問題、かつ、それぞれの立場で危機感を持ってる方が少なくない問題であることから、致し方ないところではあります。
さて、今回は、こうしたネット上のリベラル論争で、誤ったロジックをよく見かけるので、それをちょっと指摘しておきます。
「リベラルは自分たちの正義を押し付けてる」というリベラル批判
最近の論争のトレンドは、いわゆる「反リベラル派」からの、「リベラルは自分たちの正義を押し付けてる」とするリベラル批判です。
「ポリティカル・コレクトネス」、「キャンセル・カルチャー」はもはや横暴の域に達しているというのが彼らの主張です。
いわゆる「リベラル」は、個人の多様性と自由を尊重しているはずなのに、「ポリティカル・コレクトネス」の錦の御旗の下に、個人を排除する動きを容認するのはその価値観に矛盾してないか、というのが彼らの主張の骨子です。
最終的な主張の是非はさておき、理屈の構造としては筋は一応通ってます。
簡単に言えば「リベラルは言ってることとやってることが違うじゃないか」というわけですね。
この批判に対しては「リベラル」は丁寧に反論する必要があるでしょう。
「お前達こそ正義を押し付けてるじゃないか」と返すのは妥当ではない
で、今回ひとつ取り上げたいのは、この批判に対する誤った反論です。わりとよく見かけるので、注意喚起として指摘しておきます。
「リベラルは自分たちの正義を押し付けてる」という批判に対して、「反リベラルのお前たちこそ正義を押し付けてるじゃないか」と言い返してしまう人がいるのですが、残念ながらこれは妥当な反論になりません。
なぜなら彼らは「反リベラル」なので「リベラル」と共通の価値観を持っているとは限らないからです。
言ってしまえば、彼らは「正義を押し付けるのはアリだ」と思ってるのかもしれません。
「正義を押し付けるのはアリ」と思ってる人に「正義を押し付けてるじゃないか」と批判しても効果はないですよね[2]また彼らは、同時に現行の「リベラル的ポリティカル・コレクトネス」が正義ではないとも思っているでしょう。
「正義を押し付けてもよい」と思っている彼らが、なぜ「正義を押し付けてること」をもって「リベラル」を批判できるかと言えば、「リベラル」は「正義を個人に押し付けないこと」をモットーにしてるはずだという前提があるからです。
「リベラル」は「正義を押し付けない」と言いながら、それと同時に「リベラル」が称賛している「ポリティカル・コレクトネス」は「正義の押しつけ」でしかないから、内部で矛盾してるのではという批判構造です。
ここで「反ポリコレ派」の価値観自体は話に出てきてないことに留意しましょう。
あくまで、彼らの「正義を押し付けてる」批判は、「リベラル」の内的妥当性――つまり内部で矛盾してるんじゃないのか――を突く批判の論理構造なので、その言葉をそのまま「反リベラル」にそっくり切り返しても妥当な反論にはならないのです。
言われたから、そのまま「お前もな」と言い返したくなるのは気持ちは分かるのですが、誤った反論をすると逆に相手の主張を支援するだけですので、注意しましょう。
「リベラル」特有のディフェンス理論
というわけで、「正義を押し付けてる」批判に対しては、「ポリティカル・コレクトネス」や「キャンセル・カルチャー」の運動は「リベラル」の価値観と矛盾しているものではないと、丁寧に反論するのが王道と言えるでしょう。
典型的には、「他の個人の自由と尊厳を脅かす個人」を排除するのは、総合的には「個人の自由と尊厳」を尊重する方向に社会を進める効果があるので、「個人に正義を押し付けない」とするリベラルの価値観と矛盾しないと主張するものでしょうか。
実を言うと、ここから先の議論が厄介で混迷を深める入り口なのですが[3]「底なし沼」並に深いので、今回は深追いしません、とりあえずシンプルな正統派スタンスはこんなところでしょう。
ところで、その他に「リベラル」特有の面白いディフェンス方法もあります。
いわば「個人の自由と多様性」に基づく反論です。
たとえば、こんな調子です。(架空の人物に語らせましょう)
――なるほど確かに、一部の「ポリティカル・コレクトネス」や「キャンセル・カルチャー」は行き過ぎもあるかもしれない。しかし、それをもってして一足飛びに「リベラル」を批判されても困る。
なぜなら、そうした行き過ぎた動きをした人々は、あくまで「リベラリスト」の中でも誤ってやりすぎてしまった人々であり、彼らを「リベラル」の代表とみなすのは無理があるからだ。
そもそも、御存知の通り、「リベラル」は個人の自由と多様性を重視している価値観である。そうした突出した言動をする人々がいくらか生じてしまうのは、不可避なことであり、ある程度は仕方のないことという認識である。
彼らはたまたま誤ってしまったのかもしれないし、言ってみればそもそも「真のリベラリスト」ではなかったのかもしれない。
だから、彼らは「リベラル」の代表ではないのである。
批判するにしても、そのような突出してしまった人々ひとりひとりに対して個々に批判対象にするべきで、「リベラル」全体を十把一絡げにして批判の対象にするのは妥当ではない。
そもそも「リベラル」などという言葉は便宜上使われてるだけの言葉に過ぎない。その言葉をもってして、いわゆる「リベラル」的な価値観に支持をしている(もちろんその支持の程度も多様だが)多様な個人全ての特性を十分に表してるものではない。
名前がないと不便なこともある。「リベラル」とは、そういう意味であくまで仕方なく用いている曖昧な表現の言葉にすぎない、という認識で用いてもらいたい。
したがって、一部の過激な言動をする者がいたからといって、他のいわゆる「リベラリスト」全員への批判には援用できないのである。
「リベラルは正義を押し付けてる」と批判されても、その「リベラル」とは具体的に誰のことなのか、と問い返すことになる。批判の対象に「わたし」が含まれるのであれば、具体的に「わたし」の言動を指摘するべきだ。そして、もし仮に「わたし」の言動に問題があったからといって、その他のいわゆる「リベラリスト達」に対する批判にもならないことも承知して欲しい。
とまあ、こんな感じです。架空の人物の発言ですが、なかなかめんどくさい反論ですよね。
詭弁すれすれの小狡い理屈ではあるのですが、一応「リベラルは正義を押し付けてる」批判に対する回答にはなっています。
内部の矛盾の指摘に対し、「リベラル」特有の「個人の自由と多様性」の前提を持ち出して、「個人は自由で多様だから仕方ない」「その一部の事象をもってして全体を批判することはできない」と矛盾を回避するディフェンス方法です。
端的に言えば、「個人」と「集団的カテゴリー」を結びつけることを拒否する論法と言えます。
なお、「そういう突出した人々は『真のリベラリスト』ではないのだ」という論法は、「真のスコットランド人」の詭弁[4]参考:wikipedia-論証ではないかと思われるかもしれません。これについては「真のスコットランド人の詭弁」とは質的に異なる部分があり、回避されると考えます。
「リベラリスト」は個人の主観的な思想に基づくもので、客観的で明確な定義を与えられる「スコットランド人」と異なり、曖昧で流動的な定義にならざるを得ません。
したがって、「リベラリスト」と言えるのかは、各個人の言動からぼんやりと類推するぐらいしかできないので、後から「彼はリベラリストではなさそうだ」と言うのも、あながちズルとは言えないのです。
その上、「リベラル」が「リベラリスト」というカテゴリーで個人をレッテル貼りすること自体、懐疑的な立場であると推測される以上、いずれにせよ、この点をつついてもあまり有効ではないでしょう。
あくまで内的妥当性のディフェンスに過ぎない
さて、このディフェンス方法をわざわざ長々と紹介したのは、類型の論法を誤って用いているケースを見かけたからです。
確かに、この「個人の自由と多様性」に頼った論法は、有効なディフェンスなのですが、あくまで「内部の矛盾を指摘された時」のディフェンスとしての意味しかないという点に注意が必要です。
つまり、「リベラルの内部に矛盾はない」という主張には用いることはできるけれど、「リベラルの思想は他の思想よりも優れている」だったり、「あなたたちもリベラルの思想を支持するべきだ」だったり、あるいは「あなたたちの考えは間違っている」だったり、非支持者を説得する主張には用いることはできません。
なぜなら、この論法は「個人は自由で多様である」という「リベラル的な前提」があってこそ成り立つのですが、非支持者の人たちがその前提を共有してるとは限らないからです。
「リベラル」に懐疑的な人たちを相手に、「『リベラル』の前提から考えると、この結論が言える」と言っても、「いやだから、我々はその『リベラル』の前提がおかしいんじゃないの、という話をしてるのですが」と首を傾げられるだけです。
具体的には、たとえば、この記事がこの誤謬を犯しています。
弱者男性論者たちの議論の問題点は、「女性」という属性(もしくは集団)に統計的・平均的に備わっている傾向の責任を、個人としての女性たちに負わせようとする、ということにある。「だれと結婚するか」という選択は個人に委ねられるべきことであり、実際に現代の社会では婚姻の自由は基本的人権として保障されている。
「フェミニズム叩き」「女性叩き」で溜飲を下げても、決して「幸せにはなれない」理由

全体として丁寧になされた論考記事と思うのですが、ここがいかんせん「論点先取」となっています。
細かい点では異なりますが、この記事は、さきほどのディフェンス論法と同類の、「個人」と「集団的カテゴリー」を結びつけることを拒否する論法の構造を取ってます。それによって(いわゆる「反リベラル派」と想定している)「弱者男性論者」を批判しています。
しかし、この「個人」と「集団的カテゴリー」を結びつけることを拒否するのは、「個人の自由と多様性」を前提とした「リベラル価値観」ならでは、であることを忘れてはいけません。
なのに、この記事では、「反リベラル派」の主張を批判するために、まず彼らが(少なくとも完全には)合意してないであろう[5]なにせ、反リベラルですので「リベラル的前提」を置いてしまっています。
これは、「論点先取」と言われる典型的な誤謬になります。
具体的に言えば、「(弱者男性問題などの事例を提示した上で~)もはや『リベラル』の言う個人の自由の尊重は限界が来ているので、『リベラル的価値観』を緩和して女性に下方婚させるべきだ」という「反リベラル派」の主張に対して、「個人の自由は尊重されるべきだから、彼女たちの選択を尊重すべきだ」と、言い返してるようなものです。
相手にしているのは、その反論の前提である「個人の自由の尊重」そのものを疑っている人々なのですから、これは何も説得力を持っていません。
きちんと反論するなら、もっと低レイヤーの議論を意識して、「なぜ個人の自由を尊重するべきなのか」「どの程度、自由を尊重するべきなのか」から丁寧に提示せねばならないのです[6] … Continue reading。
このように、「個人の自由と多様性」を前提とした「個人」と「集団的カテゴリー」を結びつけることを拒否する論法は、あくまで「リベラル」の内的妥当性のディフェンスにしか用いることはできません。
ですから、いわばオフェンス的に、安易に「前提を共有しない他者」に適用してはいけないのです。
他にも、こちらも同じような誤謬が多用されてる好例です。
女性が上昇婚するのはどう考えても個人の自由
(中略)
だからと言ってそんなリベラリズムの原則に反していたり複数の問題がごっちゃになっていたりする雑な主張なんて支持できません。
リベラル派男性として「弱者男性論」に賛同できない理由

これもまさしく「リベラルを疑ってる意見」に対して「リベラルが正しいから正しい」と言ってるだけの論理構造になってるのはお分かりいただけるかと思います。
共通基盤を確認しないと議論は成り立たない
さて、こうして長々と誤謬についての話をしてきたのは、「リベラル」批判をするためではありません。むしろ江草は「リベラル」支持派です[7]自称ですし、もはや信じてもらえないかもしれませんが……。
しかし、さすがに少なくない「リベラル派」の方々の自説擁護の論法が短絡的にすぎ、それに伴う不毛な議論を見てられなくなったのです。
これは「リベラル派」にかかわらず「反リベラル派」も同様ですが、議論をする時には、お互いに相手の「主張の前提」を確認しあわないと、建設的な議論は成り立ちません。
これらの誤謬論法に見られるように、「自説の正しさ」を前提として出発する議論では絶対に噛み合うことはなく、不毛な議論にしかなりません。
本当にお互いに社会を良くしたいと考えているのであれば、お互いの価値観のもっと奥深くを探る対話が不可欠です。
「個人の自由と多様性を尊重するべき」、それはそうでしょう。江草も同感です。
しかしでは「なぜ個人の自由と多様性を尊重するべきなのか」、そうしたメタな視点まで掘り下げて、ようやく異なる価値観を抱く人たちと向き合うことができるようになります。
もちろん、この掘り下げる作業は、非常に難解で複雑で骨が折れる作業です。
というより、人類総出で「まだ作業の途中」とも言える世界的な一大プロジェクトです。
途方すぎて、大変すぎて諦めたくなる気持ちは分かります。
ですが、決して手を抜いてはいけないところなのです。
もしお互いに、こうした作業が面倒だからと放り出して、「自説の前提が正しいから正しいのだ」論に終始するのであれば、それはどちらも「自分の正当性」を誇示したいだけで、「社会のことなどどうでもいい」と考えている証左ではないでしょうか。
江草としては、そうでないことを願っています。
以上です。ご清読ありがとうございました。
脚注
↑1 | ここ数日は特に「はてな」界隈が熱くなってます |
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↑2 | また彼らは、同時に現行の「リベラル的ポリティカル・コレクトネス」が正義ではないとも思っているでしょう |
↑3 | 「底なし沼」並に深いので、今回は深追いしません |
↑4 | 参考:wikipedia-論証 |
↑5 | なにせ、反リベラルですので |
↑6 | 一応記事では、憲法にも謳われる「基本的人権」を論拠として挙げていますが、論敵が護憲派であるとも限りませんし、基本的人権の存在を前提とした上であっても、「コロナ禍の自粛問題」しかり、社会の現実運用として自由がどこまで認められるかは常に議論になりうることは明らかでしょう |
↑7 | 自称ですし、もはや信じてもらえないかもしれませんが…… |
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