おはようこんにちはこんばんは、江草です。
今日は、ブログ記事等々の「タイトル」について。
タイトルつけるのめんどくさい
なんとかかんとか、江草は毎日ブログ更新を続けられています。
記事を書くこと自体は大分慣れてきたのですが、毎度どうしても悩むのが「タイトル」なんですよね。
「ブログを読んでもらうにはタイトルが9割!」などと言われるブログ業界ですから、タイトルが大事なのは分かってはいるんです。
ただ、いざタイトルをつける段になると、うまくつけられない、……というかいっそめんどくさいんですよね。
「我ながら色々考えて書いたのに、これを一言で表せるもんか!」と思ってしまうんです。
アート作品にも「無題」は多い
たとえば美術館に行った時など、アート作品にも「無題」のもの多いじゃないですか。
江草ごときと一緒にしては怒られてしまうかもしれませんが、アート作品にああして「無題」とつけるのも、そういう「この作品を一言で表せるもんか!」という作者の気持ちがこめられているような気がしてなりません。
タイトルという「要約」「抽象化」の強制
「タイトルをつける」という行為がどうしてこう難しいのかと言うと、本当はもっと複雑でこみあった代物を、一言で要約するという、「抽象化」を強制させられるからなんですよね。
ブログ記事のようなもともと文章で構成されてるものならまだしも、アート作品であれば文字1つたりとも含まれてない場合さえ多いわけですから、それを「抽象化の権化」たる「タイトル」として文字を使って一言で表わせというのは確かに暴力的でさえあります。
人は自分でもとらえきれてないものを伝えたい時がある
江草はブログを「ログ」として毎日更新するようにしているので、どちらかというと自分の中でも考えがまとまりきってないモヤモヤとした状態で書くことが多いのです。
それをそのままの状態で、書き綴る段には、本当に思いのまま書けばいいのでいいのですが、最後「タイトル」になると急に難しくなるのです。
だって頭の中のモヤモヤとしてものを、(多少は人が読める程度にはまとめるとはいえ)モヤモヤとした状態で出力しただけなのですから、それを「はい、一言で!」というのは、そりゃ難しい話でしょう。
それができたらモヤモヤしてないですもん。
やっぱり、人はそうした自分でもとらえきれてないものを伝えたい時があるんだと思うんですよ。
普段の日常会話でも、「じゃあここまでの話を一言で要約して」といちいち言われたらやってられないじゃないですか。
「要約なくそのまま思いを発していい」というのはすごく気楽なんですよね。
twitterが気楽な理由
そう考えると、twitterが気楽に書けるのは、タイトルがいちいち要らないからだと分かります。
いわゆる手軽なSNSとして主要な地位を占めるまでなったわけも分かります。
一方、ブログ記事はその存在意義を示すためにはどうしても「ワンクリック」いただいて読んでいただかないといけない以上、キャッチーな「タイトル」が求められすぎるんですよね。
そのタイトル付けの重さが少しめんどくさいのは事実です。
ただ、江草はtwitterの140文字制限では伝えられないことは多く、ある程度複雑な問題の検討にはかなり無理があると思ってますので、やはり今後ともブログ記事で考察等々を頑張って行く所存です。
「タイトル付け」に慣れて、なんとか乗り切れるようになる日がいつか来ることを期待しています。
以上です。ご清読ありがとうございました。
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