岩田先生の独学批判を考える

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おはようこんにちはこんばんは、江草です。

今日は、岩田先生の一連の独学批判ツイートが興味深かったので、その感想を。

 

岩田先生の独学批判

岩田健太郎先生による独学批判の一連のツイートを拝見しました。

 

 

厳密には関連性は記述されていませんが、東南アジアでの氷摂取の安全性についての議論相手となった高山義浩先生の資質を問う話から高じたものと思われます。

 

 

「独学批判」のものだけでも、わりと長いツイートスレッドです。

面倒ながらも見ていただくのが間違い無いのですが、勝手ながら江草の言葉でざっくり岩田先生の主張の概要をまとめますと。

 

  • 独学者はほとんどが自信家なので「無知の知」がない
  • 独学の怖さを知るものだけが独学で大成できるが、そんな人は少ない
  • 今感染症界の重鎮になってるような人物はちゃんと「無知の知」を恐れたため、独学を避け積極的に研修を志したものだ
  • 自分も無知だったが、研修や指導の賜物で、自分の無知を痛感し、正しく恐怖できるようになった
  • 独学者は「知らない」と認めたがらないあまり「聞くこと」ができず、論点をずらす「ご飯論法」を頻用する
  • 「知らないこと」を自覚するのが研究の起点なので、学位などの業績は「無知の知」を自覚してる証拠となりうる

 

と、だいたいこんなところかと思います。

 

大きな対立構図として、

自信家で「無知を知」を自覚してないため、大成できない独学者たち

vs

謙虚で「無知の知」を自覚しており、熱心に研修を受けた業界の重鎮たち

というものが見えてきます。

 

岩田先生の論の疑問点

確かに、同意できる部分も多いのですが、少々妥当かどうか疑問が残る論の運びに感じました。

備忘録的に疑問点をいくつか列挙しておきます。

 

独学者に自信家が多いのは本当か

まず、論の前提となっている「独学者に自信家が多い」のは本当かという点。

確かに、事実上業界を追われた「がんもどき」の先生とか、一部、まずいかなと思われる方はいらっしゃいますが、本当は世の中は「謙虚な独学者」が大半なのに、そういう「自信家の独学者」ばかり悪目立ちやすいバイアスがある可能性もあるわけです。

独学でも学ぼうと思える人は、自分の今の知に満足しない学習意欲が旺盛な人物です。その意味からは、「自分の知に限界があること」を知っており自信家ではない可能性が高いとも考えることはできるはずです。

なので、実際にバイアスを排除した上で、独学者を一覧してみないことには「独学者に自信家が多い」と簡単に結論付けられない気がします。

実際、今回の話の「自信家」として暗に想定されていると思われる高山先生の物腰は自信家というよりは、むしろ謙虚にさえ見えます。

せめて、高山先生以外の実例があると論の説得力が増すのではと思います。

 

専門研修を受けた「非独学者」に自信家が少ないのは本当か

逆に、「非独学者には自信家が少ない」のは本当かという点。

「専門家は独善的になりにくい」のは本当か、と言いかえた方が分かりやすいでしょうか。

 

岩田先生の例示されている感染症界の重鎮の先生方は確かに謙虚な方ばかりなのかもしれません。

しかし、専門家の傲慢さを批判する言説は古今東西数多く見られますし、専門家集団が独善的な判断に陥るグループシンクの事例も枚挙に暇がありません。

それこそ各所のコメントなどを見ていても、非独学者である岩田先生ご自身の今回の一連の姿勢自体が「自信家」「傲慢」という評価を受けているようにもお見受けします。

専門家は「無知の知」を自覚している者が多い、と主張するにはもう少し丁寧な論証が必要となるのではないでしょうか。

 

「大成」=「業界の重鎮」?

「独学者は大成できない」と言う場合の「大成」の定義も少々疑問があります。

具体的な定義はスレッド内では示されていませんが、「非独学者」の側の記述から見ると、「指導医」になったり、「部長」になったり、「感染症界の重鎮」になることを、「大成」と指しているように推測されます。

 

ただ、そうなると、これは循環論法的な評価基準ではないでしょうか。

指導医や部長や、業界の重鎮になるといった、地位を与えられるには、その条件としてその業界の一員になること、すなわち「非独学者」になることが求められるのは、周知の慣習です。

そうすると、「大成」するには「非独学者であること」が必要条件として内包されてることになるので、独学者は原理的に大成できないことになります。

もちろん優秀すぎる人物に関しては例外があるかもしれませんので、厳密な話ではないですが、独学者がもともとからして圧倒的不利な評価方法とは言えるでしょう。

ですので、「独学者」と「非独学者」をちゃんと比較するのであれば、「業界内の地位」のような偏った指標ではなく、どちらにとっても有利にならない本質的な評価基準を設けないとフェアではないように思います。

 

独善を回避することは「独学者」「非独学者」の共通の課題なのでは

と、これらの疑問点を踏まえた上で江草自身の個人的な印象を述べますと。

 

「無知の知」を自覚してないことによる独善は、独学者だけの課題ではなく、非独学者の専門家にとっても注意すべき共通課題ではないでしょうか。

 

確かに独学者は、すぐに聞ける相手がいないことから、間違った学びをしていても気づきにくいおそれがありますので、自信過剰になって独善に陥らないような心がけは間違いなく必要でしょう。

だから、独学者も機会を見て、専門家に尋ねたり、少しでも研修する機会を探ることはやはり大事なことだと思います。

 

一方で、業界の研修等を通して学ぶ非独学者は、周りに聞ける相手がいることから、そういう意味での独善は避けやすいでしょう。

しかし、非独学者もまた、逆に業界そのものが閉鎖的になって、独善に陥らないように注意が必要です。

業界の独善を避けるためには業界を外から俯瞰してみる視点や機会を持つことが重要です。

その意味で言えば、業界外の独学者はメタな視点を与えてくれる、むしろ貴重でありがたい存在ではないでしょうか。

 

このように、お互いにお互いを頼ることで得られるメリットが大きいのですから、独学者vs非独学者の対立構造に持ち込むのは得策ではなく、お互いに相手を尊重し協働する方向性で考えていく方が良いと、江草は思います。

 

ちなみに、独学者のバイブルとして話題になった「独学大全」でも第11章のあたりで、独学者の独善を避けることの大切さとその方法については強調されています。

Amazon.co.jp: 独学大全――絶対に「学ぶこと」をあきらめたくない人のための55の技法 eBook : 読書猿: 本
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これを見ても、やはり「独学者=自信家」と断定してしまうのは乱暴ではないかなと感じます。

 

以上です。ご清読ありがとうございました。

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