磯野氏×大脇氏対談「緊急事態の〈ノーマル〉とは?いまいかに他者と関わり生活するか」を見たよ

会話のイラスト医療

おはようこんにちはこんばんは、江草です。

今日は、磯野真穂氏と大脇幸志郎氏の対談「緊急事態の〈ノーマル〉とは?いまいかに他者と関わり生活するか」を視聴したので、その感想です。

 

緊急事態の〈ノーマル〉とは? いまいかに他者と関わり生活するか
どうしたら情報や他者の目から生活をまもれますか? 他者だけでなく、無意識に自分を監視しかねない環境下で、 〈ふつう〉はまだ保てますか、取り戻せますか? 「緊急」と「不要... powered by Peatix : More than a ticket.

 

 

現代医療を俯瞰するお二人の待望の対談

医師だけど出版社やMEDLEY勤務歴がある異色の経歴の大脇幸志郎氏、医療自体が研究対象と言える医療人類学者の磯野真穂氏。

 

江草も以前お二人の著書を読んでいるのですが、どちらも大変面白く刺激的な本でした。

それぞれのご著書から分かるように、まさしく現代医療を俯瞰して問い直すお二人と言えます。

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江草の私見では、大脇氏はEBM周りの知識量が半端なく、量的研究に精通しているタイプ、磯野氏はフィールドワークを介した質的研究に造詣が深いタイプ、ととらえています。

テーマが共通していてアプローチが少しずつ異なるこのお二人。

二人がつながったら何か起こりそうな気がする、と江草は前々から思っていたので、まさしくそれが実現した待望の対談だったと言えます。

 

で、今回の対談のテーマは「大切な命とは?」というものだったようですが、観たところ正直そのお題にはあまり縛られてなかったですね。笑

もとより、今回の対談が扱うのは明確な答えが出るはずもない難題ではあるので、テーマにこだわらず、それこそラインを描くように展開されるお話だったのは、これで良かったと思います。

江草も視聴しながら、色々と頭の中をかき混ぜてもらった感じがして、エキサイティングな体験でした。

 

興味深かった話のピックアップ

対談の内容全部をまとめることはできないですし、してはならないようなのでしませんが、興味深かったいくつかの話の感想を列挙してみます。

 

統計が前提とする「個人」と「人類」の概念

今や医療の主力の武器となっている統計。

実はその統計の前提には「個人」と「人類」の両概念が確立していることが必要ではないかという指摘が、面白かったです。

 

たとえば、「自分」や「あなた」の境界が曖昧で、なんなら時々「磯野」が「大脇」になったり戻ったりすることもできる、ととらえられていた時代や地域もあったとのこと。

なんとも現代日本人の私たちには想像もできない世界観ですが、確かにそのように個人の境目がないとなると、個人を「1人」と数えることができず、統計を取ることができませんよね。

 

また、「人類」の概念も統計では不可欠と。

「イスラエルの2000人」を対象とした研究と聞いて違和感なく自分たちにその研究を適応できるのは、「私たちは共通の人類である」という認識があってこそと。

実際、「自分たちの部族以外は人間でさえない」という認識をする部族は存在するそうですし、歴史的に見れば「よそ者は人でさえない」という感覚は無数にあったでしょう。

これまた現代日本人の私たちからすると、とんでもない感覚ではありますが、逆に言うと「人類」という共通認識を私たちが自然と持てていることの不思議さを感じますね。

 

これらの「個人」と「人類」の概念の確立の不可欠性を顧みると、統計というのは「集団と個人が類似していること」をかなり強く前提として置いてることが見て取れますね。

まるでどの部分を拡大しても縮小しても、同じ形が続いているフラクタル図形のような印象があります。

しかし、個人はもちろんそのような完全な集団の縮図ではないので、何か削ぎ落とされてものがあるはずで、それが気がかりなところではあります。

 

エクスペリエンスファー、エクスペリエンスニアー

また、対談内で紹介された「エクスペリエンスファー」、「エクスペリエンスニアー」という言葉。初耳でしたが、とても現状の問題にフィットする概念と感じました。

「あぶら」という言葉であれば私たちの日常でイメージできる「エクスペリエンスニアー」な存在だけれども、「不飽和脂肪酸」などの専門知的に掘り下げられ細分化された言葉は、もはや私たちの日常界ではイメージできない「エクスペリエンスファー」な存在となっていると。

そして、今の医療は細分化された専門用語があふれかえっていて、患者はもちろん医師たちにとっても「エクスペリエンスファー」な存在と化してきているという指摘。

 

これはほんと、その通りだなあと思います。

現代は、あまりにも高度に専門分化が進みすぎて、もはや専門家自身でさえもブラックボックスなところが多くなりすぎている気がします。

いわゆる「サイロエフェクト」にも近く、医療界だけの問題ではなさそうですが、様々なものごとが、どんどん私たちの実感や経験から離れていって、不可知なものどころか、不可感なものになってきつつあることには、江草も危機感を抱いています。

 

大脇氏が指摘されていた通り、とにかく細分化して、掘り下げて、やたらと解像度を上げた特異的な専門用語を作り続けることの社会的意義やコスパを考えねばならないのかもしれません。

 

「不勉強だ」「現場を知らない」で黙らせられる

医療を俯瞰した目線で問い直していると、「不勉強だ」「現場を知らない」という批判に多数出会うという話も耳が痛かったですね。

それを言われてしまうと非医療者としては黙らざるを得ない、と。

 

これはまあ、時々みかけるけれど、感心しない光景だなと、江草も感じています。

 

これらの批判の言葉は、さきほどの専門用語のような細かいことを知っているもの勝ち、専門的な現場を知ってるもの勝ち、というわけで、要は専門家が絶対勝てる言葉なんですよね。

 

その意味で言えば「非専門家側しか知らないこと」だって同様に必ず存在するはずなのです。

でも、それを無視あるいは軽視して、専門用語や現場を知ってることを、暗黙のうちに上位に持ちあげて無理やり専門家の土俵に持ち込んでしまうのは、外部者と対話する上では小狡いやり方であることは否めないでしょう。

言ってしまえば、要は「よそ者と対話する気はない、出ていけ」と言っているようなものに江草には聞こえます。

 

エビデンスや専門家が個人の人生に急に侵入してくる息苦しさ

で、はっきり明示されてるものではありませんが、今回の対談が全体として浮かび上がらせた問題は「エビデンスや専門家が個人の人生に急に侵入してくる息苦しさ」なのかなと。

言い換えると、いつのまにか「個人の人生の文脈や歴史の重み」を医療が取りこぼしてしまっている、と。

患者という「ディテールのある1人1人の人間」に向き合ってるはずだった医療が、なんだかちょっと道から逸れてきていないか、という警鐘と江草はとらえました。

 

磯野氏が語ってらっしゃった「専門家とはいえ赤の他人が人生の重要決定の場面に重要人物として急に登場することへの違和感」の話が象徴的でした。

人生の大事なことは人間関係の歴史のある人々とともに時間をかけて決めていきたい、と。

医療従事者としては寂しいところですが、現実の医療現場では、確かにそういう「急な登場感」は否めないですよね。

まさしく専門家が「本人の経験的実感を欠いてるけど信じざるを得ない存在」すなわちエクスペリエンスファーな存在として描き出されてる場面かと思います。

 

かかりつけ医制度や、総合診療医制度が、なんとかそういう「急な登場感」を避けるための施策として進んでいるのだとは思いますが、今のところあまりうまく浸透している印象はないですし、ほんとに頭の痛い課題だなと感じます。

 

 

正しいエビデンスであっても起きるジレンマ

ここからは対談の視聴を経て、江草が勝手にどんどん連想し想起した内容ですが。

 

それにしても、つくづく悩ましいのは、具体と抽象、客観と主観の切り替えやバランス取りの難しさだなあと。

 

データや統計解析でできた集団を対象とした客観的で抽象的なエビデンスを、「n=1」の3文字では到底表し切ることのできない濃密な人生や、歴史や文化に基づいた複雑で主観的な価値観を抱えた、現に目の前にいる1人の人間に対して、どう適応するべきか。

両方バランスよく取り入れましょうというのが優等生的な模範的な解答ではあるのでしょう。

しかし、それがめちゃんこ難しいので、どうも私達は両極端に走りやすいんですよね。

 

個人がエビデンスから逸れることを極端に嫌う全体主義的医療になるか、主流派のエビデンスを根こそぎ無視していわゆる「ニセ医学」に走るか。

そういう両極に吸い寄せられやすい性質が、どうも見て取れるように感じます。

 

「ニセ医学」の問題の方ももちろん重要な課題ではあるのですが、今回の対談で指摘されたのは前者の課題ですね。

 

実のところ、医師も患者も、盲目的にエビデンスに従おうと思ってる人なんてほとんどおらず、多くの人は価値観や経験もちゃんと踏まえて方針を決定していきたいと思っている、と思うんですよ。

それこそ本来のEBMの精神ですしね。

でも、どうしてエビデンスに従うことに吸い込まれてしまうのか。

 

それは、エビデンスに従わない決定をする場合、診察室内の医師と患者の二者でない、外部の第三者たちにその決定の妥当性を説明することが極めて難しいからなんじゃないかなと、江草は考えてます。

つまり、本人たちだけでなく、社会の他の人たちにも納得させられるような決定をしなくてはいけない、そういった社会的責任がひそかに大きくなってしまったことが背景にあるのかなと。

 

仮にエビデンスに従ってない治療方針が決定された場合に、それがエビデンスを知っていた上であえて従ってないのか、エビデンスを知らないから従ってないのか、外部からは分かりにくいのです。

 

基本的に患者側はエビデンスを知らない存在として見られていますので、医師が患者に適切に十分にエビデンスを説明し、患者自身も適切に十分にそのエビデンスを理解した、という証拠や手続きが要求されることになり、これが非常に大変なんですよね。

しかも、どんなに医師が説明を十分にしていても、どんなに患者が十分に理解していたとしても、外部からは「説明が不十分だったに違いない」「理解ができていないに違いない」といくらでも無限に疑うことができてしまうわけです。

 

この多大な労力を費やしたり、外部からの疑いの視線をはねのけるよりは、シンプルにエビデンスに従う方が両者とも楽なので、よほど強い想いを抱いてない限り、ついつい「エビデンス」に吸い込まれてしまうのだろうと推測します。

で、この「よほど強い想い」というのは、得てして「エビデンス不信」「医療不信」なわけで、それはそれで今度は逆サイドの「ニセ医学」に吸い込まれてしまうんでしょう。

 

さらに、この問題が厄介なのは、「エビデンスが間違ってることもあるから、エビデンスに従うばかりはよくない」という話ではないことなんですよね。

言い換えると、この問題の本質は「エビデンスの真偽」ではないということです。

そのエビデンスが、研究デザインも適切でデータの不正や抜けもなく全くもって完璧で正しい研究を根拠としていても起きる問題だ、ということには注意しないといけないと感じてます。

 

エビデンスがいくら間違いのないものであったとしても、個人にとって、そのエビデンスが正しいか間違っているかを、一個人の経験の範囲内で実感することがもはや不可能となってきています。

すなわち、エビデンスがエクスペリエンスファーな存在になりすぎて、その意義を人間の肌触りがあるものとして実感できなくなっているわけです。

全く実感がわかないエビデンスに対峙するという、医療現場の日常風景が、ほとんど「そのエビデンス」を、もしくは「そのエビデンスを告げる医師」を、信じるか否か、という、言ってみれば「信仰の問題」にどんどん近づいていっている恐ろしさがここにはあります。

 

さて、どうしたものでしょうか。

 

 

と、いつのまにか、江草の勝手な語りになってしまいましたけれども。

このように色々な考えを巡らせるきっかけとなった、この対談は、期待通り大変面白いものでした。

また、同じような企画があれば、是非観たいなと思っております。

  

以上です。ご清読ありがとうございました。

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