おはようこんにちはこんばんは、江草です。
今日は、京大のオンライン公開講義”立ち止まって、考える”2ndシーズンの科学哲学分野、伊勢田先生の「科学哲学の観点からみたコロナをめぐる言説」と題する講義の第一回を見たので感想を記しまするよ。
“立ち止まって、考える”って何ぞ
“立ち止まって、考える”って何よ、という人もいるかと思うので、江草の感想の前に軽くご紹介を。
“立ち止まって、考える”というのは京都大学の人社未来形発信ユニット主催のオンライン公開講義のプロジェクト名です。
公式の趣旨としては、こんな感じです。
本講義シリーズではコロナパンデミックを共通テーマに据え、社会学・科学哲学・美学など様々な人文社会科学分野の教授陣が授業を展開します。YouTubeライブのチャット機能を通じて受講者とともにコロナパンデミックを論ずることで、新たな時代を生きるためのヒントとなる「座標軸」を社会に提供します。
【オンライン公開講義】”立ち止まって、考える” シーズン2
昨夏のシーズン1も面白かったのですが、今回シーズン2をやるということで、江草はワクワクしながら待っていたのです。
特に今回は個人的に少しお世話になったこともある伊勢田先生の科学哲学の講義ということで、大変楽しみにしておりました。
伊勢田先生の講義は全2回で題名は「科学哲学の観点からみたコロナをめぐる言説」です。
今回のコロナ禍で、専門家やそうでない方の科学的言説が飛び交ってるのが日常になりましたが、それを科学哲学の専門家の伊勢田先生がどう見ているのか、大変注目です。
今回は第1回を視聴しましたので、その江草的感想になります。
↓アーカイブはこちらです。
講義のポイントまとめ
視聴した感想を、結論から言うと、やー、さすがほんと面白いです。
相変わらずお茶目な話し方で、フフってなることもしばしばでした。
分かりやすくも当然ながら大変深いお話をされてますので、単純に提示するのはよくないと思いつつも、今回の講義のポイントは先生ご自身がスライドに示されていた以下の2点に集約されると思います。
- 科学的言明の二層構造
- ほどよい懐疑主義の重要性
それぞれのポイントに対して、個人的な振り返りも兼ねてコメントしていきます。
科学的言明の二層構造
まず1つ目のポイントの「科学的言明の二層構造」というのは、科学的な文脈での発言や書かれる言葉は「内容のレイヤー」と「注意書きのレイヤー」の2つに分かれるよということです。
これは、恥ずかしながらあまり意識したことがなかったのですが、言い得て妙で、非常に面白い整理だなあと感じました。
内容のレイヤー
「内容のレイヤー」は「○○は△△だ」などの主張内容そのものを指すレイヤーです。
これは日常言語でも共通して存在しているレイヤーです。
注意書きのレイヤー
「注意書きのレイヤー」はその主張内容の確度や信憑性、守備範囲、制約条件などのレイヤーです。
日常言語でも存在しないわけではないですが[1]関西弁の「知らんけど」は注意書きのレイヤーにあたるというたとえは面白かったです、特に科学的言明では重視されるレイヤーです。
その内容が仮説段階なのか、数多くの実験で実証されているのか、また、どういう対象についての主張なのか、どういう前提条件下における主張なのか、といった、確度や前提をはっきりさせておくのが科学的言明の基本というわけです。
「注意書きのレイヤー」に注意
伊勢田先生もおっしゃってた通り、普段、科学的言明っぽい主張を見た時は、この「注意書きのレイヤー」に注意するのがよさそうです。
「コロナは○○だ!」などと言い切るばかりで、どれぐらいの確度で言ってるのか、前提条件は何なのかが曖昧なままの主張は、科学的言明の作法にのっとってないので、警戒して見るのが得策というわけです。
また、専門家同士で一見矛盾して見える主張も、こうした前提条件の違いによる違いであって、実は矛盾してないこともしばしばあるという、伊勢田先生のご指摘も、確かになと思います。
その前提条件の違いに気をつけずに、結論の文面通りで受け取ってしまうと、混乱したり、分断したり、自分に都合の言い結論だけ選ぶことになりかねません。
ほどよい懐疑主義の重要性
もう1つのポイントが「ほどよい懐疑主義の重要性」です。
「ほどよい懐疑主義」とは
「ほどよい懐疑主義」とは「『確度』だなんて曖昧なことを言うなんてけしからん。科学は実験などで証明された確実に正しいもののみを主張するべきだ」という主張や、「科学の特徴は徹底的に疑うことだ」などという主張に対して、伊勢田先生が考えるオススメの科学スタンスを示した言葉です。
「正しいものであるべき」は確実さに偏りすぎ、「徹底的に疑うべき」は懐疑主義に偏りすぎというわけです。
実証実験が困難で確実さが徹底できない分野や状況もありますし、徹底的に疑おうと思えばいつまでもいくらでも永遠に疑い続けることができるので科学の営み自体が成立しなくなりますからね。
「日常生活ではほとんど疑わず」で、「科学ではほどよい懐疑主義」で、「哲学ではわりと懐疑主義」で、というスタンスが良いんじゃないかという伊勢田先生の整理は分かりやすいです。
「ほどよい懐疑主義」を守りたい
この「ほどよい懐疑主義」はほんとに大事なスタンスなんですよね。ただ、江草もそれを気持ちの上では志しつつも、しばしば逸脱してしまうことがあるので、反省至極なところです。
江草は熱くなるとちょっとばかし「懐疑主義」が強くなりがちな傾向がありまして。
ディスカッションしていても、疑いすぎるあまり、いつの間にか違う問題設定の考察にずれていって、妻によく怒られています。
たとえば「玉ねぎが要るから買ってきて欲しい」と頼んだ時に、
「玉ねぎは何のために必要なんだ」
「カレー用だよ」
「なるほど。しかし、そもそもカレーに玉ねぎは必要だろうか」
と展開したら、まあ、「うるせえ、黙って玉ねぎ買ってこい」って思いますよね[2]分かりやすくあえて極端な想定を示してるので、現実ではさすがに江草もここまでの蛮行はしてないと思ってますが……。
そんなわけで、適切な議論を行ったり、方針を定めるためには、その場の文脈を大事にして、「ほどよく疑う」スタンスは大事なのです。
今のは日常生活の例ですが、科学的文脈の時でも、少々江草は行き過ぎちゃってる時がある自覚はないでもないので、常々反省しております。
ただ、今回のコロナ禍においては、江草以外の人でも、確実さにこだわりすぎたり、あるいは疑いすぎたりしてる例はままあるように感じますので、確かに今一度みんなで「ほどよい懐疑主義」に注意すべきなのかなあと講義を聞いていて思いました。
次回も楽しみです
と、江草のどうでもいい小話も含みつつ、伊勢田先生の講義1回目を振り返ってみました。
やはり、こうして整理して考える機会があるのはとても良いですね。
皆さんも、お時間を見つけてぜひぜひご覧くださいません。
次回の第二回の講義も楽しみです。
以上です。ご清読ありがとうございました。
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