「見えない多様性」に思いを馳せる

街の人々のイラスト社会

「多様性を尊重しよう」と言われて久しいですけれど、なんとなく世の中、目に見える多様性ばかり注目されてる気がするんですよね。[1]目に見えないものは注目できるわけないので、語義矛盾ではあるのですが

具体的に言えば、男性か女性かとか、人種がどうだとか、ある程度パッと見で見分けがつくカテゴリーばかり意識されてる気がするのです。

 

もちろん、男女差別や人種差別を肯定しているわけではありません。

男女差別や人種差別を排除するのは前提です。

しかし、男女差別や人種差別が無くなった程度では、まだまだ「多様性の尊重」には達してないのではと思うのです。

本当に多様性が大事と思うならば、「目に見えない多様性」も忘れてはいけません。

 

 

 

こう言われても「目に見えない多様性」ってなんじゃらほいと思われるかもしれません。

医学を例に説明します。 

実は医学の世界ではこの「目に見えない多様性」の概念は常識なんです。

 

たとえば、なにか臨床研究をするとしましょう。

ここに2つのやせ薬AとBがあったとしてどちらがやせる効果が高いか確かめようと思ったとします。

 

とりあえず、適当に人を集めてきて、適当に半分ずつ2つのグループに分けて、グループ1にはAを、グループ2にはBを投与して体重減少の成績を比べるのはどうでしょう。

すると、「いやいや、グループ1にばかり体重が重い人が多いじゃないか。最初からやせてる人が多いグループ2の体重は落ちにくいだろうから、これではグループ1が有利なんじゃないか」と早速ツッコミが入ります。

 

仕方がないので、両グループの体重をそろえました。

これでどうでしょう。

すると、「いやいや、グループ2には男性が多いじゃないか。もしBの薬が男性に効きにくい薬だったら不利になる」とまたツッコミです。

 

めんどうですが、両グループの性別もそろえましょう。

これで文句ないでしょう。

すると、「いやいや、グループ1には糖尿病の人が多いじゃないか。もしAの薬が糖尿病の人には効きにくい薬だったら不利になる」とまたまたツッコミがやってきます。

 

本気を出して、情報として分かってる範囲で両グループの性質をがんばってそろえました。

今度こそ許してもらえるでしょうか。

すると、「いやいや、見た目上は一緒に見えても、見えない因子が結果に影響している可能性もあるだろ。全員の全てを知り尽くしてるわけではないだろう?」ときちゃうんです。

もはや意地悪かと思われるかもしれませんが、医学の世界では大マジなんです、これが。

 

見えてる要素を可能な限り一致させても、それでもなお未知の要素が異なるかもしれない。

厳密に言えばそうなってしまうんですね。

 

実際、臨床研究では、こうした「人々の未知の因子」すなわち「見えない多様性」にかなり気を回しています。

必要な場合には適宜、「見えない因子」の差をもそろえることができるけれど大変な手間のかかる「ランダム化」という手法を用います。たとえば、新薬の承認には普通「ランダム化」を用いた厳格な研究結果が求められます。

また、各研究の事情によって「ランダム化」ができない場合や、しない場合であっても、研究者は「研究の限界」として論文の最後に「見えない因子の影響が隠れている可能性は否定できてない」などと記し、決して「見えない因子」のことを無視しません。

 

このような「見えない因子」にひたすらに注意を払う研究の作法は、「まだ自分たちには見えてないこと、知らないこともあるはずだ」という人類の謙虚さの現れと言えます。

あえてもっとスピリチュアルに言えば「不可視あるいは不可知なもの」へ人類が抱いている畏敬の念の象徴でもあるでしょう。

  

臨床研究の話をする回ではないので、医学っぽい話はここまでにしますけれど、「見えない多様性」というのが無視できない存在感をはなってるのは何となく伝わったでしょうか。

 

 

 

ひるがえって、世の中の議論です。

特に日本では男女差別の議論がよくもめます。

 

ジェンダーの問題。確かに大事です。大いに議論されるべきだと思います。

 

でも、いきおい話のフォーカスがなんでもかんでもその「男女」の二分割での話にばかり留まりすぎてることが多いように感じます。

 

ほんといえば、男性だって色々、女性だって色々で、それぞれに隠れた見えない多様性があるはずなのです。

それなのに、「男はー」「女はー」などと、いつの間にかそれぞれを均質な集団かのように扱っちゃってないでしょうか。

 

男女で二分するなんて2種類です。多様性には程遠いでしょう。

仮にLGBTQを入れてもまだ両手で数えるほどです[2]といいつつ、男女の生物学的性別の概念とあくまで別種の概念なのでそもそも混ぜられませんが。全然足りないでしょう。

なにせ人類の人数は何十億もいるんですから。

 

 

「見えないなら無い」――そう思いこまない知恵と謙虚さは、人類はすでに持っているはずです。

 

ほんといえば「カテゴリーで説明しきれるはず」という感覚、それさえ傲慢です。

便宜上、カテゴリー化やステレオタイプ的対応もしないと社会がスムーズに進まないから仕方なく使っているだけなのです。

あくまで、この「仕方なさ」を忘れちゃいけません。

 

 

まとめます。

パッと見で分かるカテゴリーにばかりこだわって「見えない多様性」に注意を払わずにいるうちは「多様性の尊重」なんていつまでたっても到達できないと思います。

もちろん、パッと見で分かるカテゴリーでの偏りさえ気にしないようでは話になりません。

でも、だからといってパッと見で分かるカテゴリーだけそろえればいいわけでもないのです。

本当に「多様性を尊重する」と言うならば、その段階は当然越えつつ、医学における「ランダム化」のように、「見えない多様性」を「見えないまま」で尊重しようという強い意志が最終的には求められるのではないでしょうか。

 

 

以上です。ご清読ありがとうございました。

 

脚注

脚注
1 目に見えないものは注目できるわけないので、語義矛盾ではあるのですが
2 といいつつ、男女の生物学的性別の概念とあくまで別種の概念なのでそもそも混ぜられませんが

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