インスタント民意の功罪

街の人々のイラスト政治

メロンダウト氏のこちらの記事を読んで。

正義のありか、主体の消滅、第三者的方法論、あちら側とこちら側 - メロンダウト
いかにして人は救済されるべきか いかにして加害者は罰せられるべきか いかにして被害者は守られるべきか あらゆる議論に通底しているのがこのような「裁断」となっている。犯罪の被害者になった方、ハラスメントに遭われた方、弱者男性女性、貧困、被災者 悲劇に遭われた方々に供給されるのは救済及び加害者への「応報」であるというのがこ...

善悪や正義、こうあるべきだという判断は第三者によってなされるべきものとして考えられている。しかし僕達はそれによって「正義を手放してしまっている」のではないだろうか?あるいは第三者の権力が大きくなりすぎたのではないだろうか?

正義のありか、主体の消滅、第三者的方法論、あちら側とこちら側

なかなか興味深い着眼点だなあと思って、勝手に江草もこのあたりの話を考えてみました。

メロンダウト氏の観点と噛み合ってるかは怪しいのですが、ブレスト的にとりあえず話を引き伸ばしてみるぐらいのつもりです。

うまく構造化されてるわけでもなく、定まった結論がある話でもないですが、あしからず。

 

 

さて、自分の正しさの証明を第三者に委ねると聞いて、なんとなく子どもの頃を思い出しました。

子どもの頃って「先生に言ってやろ!」とか「先生がダメって言ってましたぁ~」とかが人気のパワーワードでしたよね。

あれって、まさしく先生という第三者が正義の装置として成り立ってたことを示してる気がします。

子どもですから、まだ理論だった話というのも難しく、たとえ正しく自分の主張を論証したとしても、子ども同士では「言論」よりも「力」による支配の方が遥かに優位なので、だいたい「ごちゃごちゃうるせえ」と無視されて終わりですよね。

だから、理屈も説明でき、絶対的な権力者であり、中立的とされる「先生」が自然と引き合いに出されたのでしょう。

 

ただ、「先生」を持ち出されて不利になった子どもの側にも有名な言い返しがあるなあと。

それは、

「いつもお前、先生、先生って先生に頼ってばかりだな。先生が死ねって言ったらお前死ぬんか?」

というもの。

これは正義を先生に委託するばかりで自分自身の正義を抱いてないことに対する批判と言えます。

この批判が有効かどうかは、「自分自身の正義を抱いてないこと」に恥ずかしさや後ろめたさを感じるかどうかにかかってるわけですが、どうもそれが今や大人の世界でも失われてきてるのではないか、というのがメロンダウトさんの訴えてる危機感の一つなのかなと。

 

 

「先生」に頼る正義が、権威に頼る正義とすれば、「みんな」に頼る正義は数に頼る正義と言えます。

「先生に言ってやろ」とともに、「みんなもそう思うよね」が有力な手法になりつつあるのが今のSNS時代なのでしょう。

すなわち、「多数派の独裁」が強まってきたと。

 

民主主義社会では、多数決が民主主義的決定の手法として大きな地位を占めているのは違いありません。

しかし、「多数決=民主主義」というのはよくある誤解です。

多数決だったらなんでもいいとなれば、多数派は最初から強行採決してしまえば、簡単に自分の良いように政治的決定を動かすことができます。

これがいわゆる「多数派の独裁」です。

 

なので、民主主義社会では、そうした「多数派の独裁」を防ぐべく「少数意見の尊重」や「熟議の徹底」を心がけるよう、そこかしこで注意が促されています。

それだけ大事なことではあるのですが、逆に言えば民主主義社会が陥りやすい明確なピットフォールでもあるわけです。

そして、私たちはそのピットフォールに見事に落ちかけていると。

 

 

民主主義社会の政治制度は、選挙から、国会から、内閣まで、なにもかも手続きが多く複雑で時間がかかる代物です。

これは民主主義的手続きの正当性を担保し、そして「熟議する機会」を十分に保つために、わざと即断即決できないようになってるねらいがあります。

ただ、その副作用として、大衆の政治との間の心理的距離感が広がってしまい、自分が主権者であったり、政治参加しているんだという実感が持ちにくくなってしまってるきらいがあります。

しかも、相次ぐ政界の不祥事や癒着などを見ていると、この複雑な民主主義制度は私たちの武器ではなく、むしろ政治家たちを守るための盾にしか感じられなくなるのも当然ではあるでしょう。

これにより、私たち大衆は次第に政治への無力感を抱き、興味も失っていきました。

 

そこで出てきたのがSNSだったのだと思うのです。

政治家や司法などの「権威」による正義に頼れなくなった大衆に、都合よく有力な武器として現れたのが「数」による正義だったわけです。

「こんなひどいことがありました!みんなも許せないですよね!?」と。

 

有名な例としては保育園落選に怒る「日本死ね」投稿がありますね。

強い口調の投稿でありながら、多くの共感を呼び、またたく間にネット上を席巻しました。

じつのところ江草も保育園問題はなんとかしてほしいと思っていたので、あの投稿には胸がすく思いがしたのを覚えてます。

実際あの投稿により、保育園の問題は脚光を浴び、人々の間に急速に周知され、政治的にも動いたところがあるんですよね。

まさしくインターネットで正義が実現されたのです。

 

とにかく、この正義は極めて「早い」のが特徴です。

政治活動をして、地道に候補者を応援したり、あるいは自身で立候補したり、それでようやく法を動かすのに費やす時間に比べると、瞬間的とも言えます。

現行の民主主義制度がじっくり民意を醸成するのに対し、ほとんど「インスタント民意」です。

 

 

実際、政治の腐敗により現行の民主主義制度において民意が反映されなくなっていたのであれば、その代わりにこうしたSNSのパワーを借りて民意が実現できることはある意味良いことではあるのでしょう。

ただ、これは諸刃の剣で、危険な側面も持ってると思うんですよね。

つまり、「インスタント」すぎるのです。

 

さきほども言ったように、民主主義制度はわざわざ煩雑に冗長に作られてる側面があります。

それは「少数意見の尊重」と「熟議の徹底」という理想のためでした。

うまく行ってるかどうかはさておき、そこを大事にしようという意図があったのは確かです。

 

しかし、一方の「インスタント民意」ではそこがすっ飛ばされます。

瞬間的に多数派が情熱的に正義の裁決を下すことになります。

まさしく「多数派の独裁」と言える状態です。

 

 

もっとも、様々な議題がある中で、誰が「多数派」なのかは入り乱れます。

でも、みなが争うように「多数派」であることばかりを目指す時、「みんなの正義」ばかりを目指す時、「自分自身独自の正義」を持つのはとても難しくなります。

だって、「多数」の前では「1人」なんてあまりに脆弱な存在だからです。

そして、もっと恐ろしいことに、「多数派の正義」を目指すのが良いのだとなれば、「自分自身独自の正義」を持たないことの恥ずかしさや後ろめたさもなくなるでしょう。

 

そうなってくると、

「みんなが良いって言っていた」

「みんなも良いって言ってくれた」

「みんながダメって言っていた」

「みんなもあいつは許されるべきでないと言っていた」

こうしたセリフが当たり前のようになります。

 

あたかも、みんなが子ども時代に戻ったかのように。

 

 

 

 

以上です。ご清読ありがとうございました。

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