妻より「正論を語るだけでは読者の共感は得られないよ」という正論をいただいて、絶賛ションボリ中の江草です。こんばんは。
そういう作風なんだよぉ、と言い訳したいところですが、グッとこらえて貴重なご意見として今後取り入れようと思います。
しかし、なぜ「正論だけではダメ」なのでしょう。
「正論」がその名の通り正しいなら、みな共感し自然と受け入れられるはずなのではないでしょうか。
今日は、その理由をションボリ頭で考えてみました。
まず、人は誰しも「正しくありたい」と思ってる存在です。
「盗人にも三分の理あり」と言いますし、なんだかんだ誰もが正しさを求めています。
しかし、それと同時に、人はどうしたって完璧じゃない存在です。
みなうすうす「正しくない自分」があることに気づいています。
正しくありたいけど正しくあれない矛盾。その辛さ。
そうしたものをみな自然と抱えながら生きています。
飲茶氏の哲学小説『正義の教室』に登場する「倫理さん」がまさしくそういう役回りでしたね。
さて、そうした「正しくありたいけど正しくあれない辛さ」を、「正論」はくみとってくれません。
「正論」はただひたすら理詰めで矛盾を暴き立てるだけで、聞く者は「正しくない自分の姿」を強制的に思い起こさせられることになります。
それはまさに不快そのものの体験になるでしょう。
だから、そうした辛さを十分にくみとってからでないと、共通の視座に立ってからでないと、そして「自分の中の矛盾」に対峙する勇気を共に抱けてからでないと、誰も「正論セイヤー」の話なんて聞きたくないのは至極当然のことなのだと思います。
実際、かの偉大な哲学者ソクラテスを描いた『プラトン対話篇』も「正論」の難しさをあぶり出してるように思います。
ソクラテスがただひたすら正論で対話相手を追い込んでいく様は、読者にとって胸がすく爽快な経験です。
しかし、同時に胸がしめつけられる辛い感覚も抱かせます。
こうした矛盾した体験が起きるのは、読者がソクラテスに「正しくありたい自分」という美しい理想を見るのと同時に、対話相手にも「正しくあれない自分」という醜い現実を見てしまうからなのでしょう。
いわば『プラトン対話篇』において「正論」の美醜の両面性を読者は体験するのです。
とはいえ、そうした「正しくあれない」という辛さを尊重しないといけないとなると、みんなに耳が痛い正論を論じることのハードルがグッと上がります。
むしろ「正論」を王道的に論じようとするならば、情緒的な表現は排されるものですから、二律背反に近いところもあります。
なので、つまるところ、多くの人に「正論」を届けるためには、「ただ論じる」のは諦めて「物語化」や「エンタメ化」が必要になるように思われます。
おそらくは、先日の千葉雅也氏のつぶやきもまさにそういうことなのでしょう。
その目で見てみると、先の飲茶氏の『正義の教室』しかり、朝井リョウ氏の新作小説『正欲』しかり、古くは『聖書』なんかも、物語による「正論」を提示した成功例と言えるように思うのです。
「正論」は誰にとっても耳に痛いものだからこそ、「物語」という摩擦を減らす潤滑油が有効なのでしょう。
誰もが人間不信、疑心暗鬼になりつつある、この「分断」の時代。
良い方向に進もうとする「正論」も、馬耳東風では意味がありません。
そんな今こそ必要なのは「正論」を隠し味にした「優れた物語」なのかもしれません。
以上です。ご清読ありがとうございました。
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