> [!NOTE] 過去ブログ記事のアーカイブです
妻より「正論を語るだけでは読者の共感は得られないよ」という正論をいただいて、絶賛ションボリ中の江草です。こんばんは。
そういう作風なんだよぉ、と言い訳したいところですが、グッとこらえて貴重なご意見として今後取り入れようと思います。
しかし、なぜ「正論だけではダメ」なのでしょう。
「正論」がその名の通り正しいなら、みな共感し自然と受け入れられるはずなのではないでしょうか。
今日は、その理由をションボリ頭で考えてみました。
まず、人は誰しも「正しくありたい」と思ってる存在です。
「盗人にも三分の理あり」と言いますし、なんだかんだ誰もが正しさを求めています。
しかし、それと同時に、人はどうしたって完璧じゃない存在です。
みなうすうす「正しくない自分」があることに気づいています。
正しくありたいけど正しくあれない矛盾。その辛さ。
そうしたものをみな自然と抱えながら生きています。
飲茶氏の哲学小説『正義の教室』に登場する「倫理さん」がまさしくそういう役回りでしたね。
[正義の教室 善く生きるための哲学入門 | 飲茶 |本 | 通販 | Amazon](https://amzn.to/3IYsW7y)
さて、そうした「正しくありたいけど正しくあれない辛さ」を、「正論」はくみとってくれません。
「正論」はただひたすら理詰めで矛盾を暴き立てるだけで、聞く者は「正しくない自分の姿」を強制的に思い起こさせられることになります。
それはまさに不快そのものの体験になるでしょう。
だから、そうした辛さを十分にくみとってからでないと、共通の視座に立ってからでないと、そして「自分の中の矛盾」に対峙する勇気を共に抱けてからでないと、誰も「正論セイヤー」の話なんて聞きたくないのは至極当然のことなのだと思います。
実際、かの偉大な哲学者ソクラテスを描いた『プラトン対話篇』も「正論」の難しさをあぶり出してるように思います。
ソクラテスがただひたすら正論で対話相手を追い込んでいく様は、読者にとって胸がすく爽快な経験です。
しかし、同時に胸がしめつけられる辛い感覚も抱かせます。
こうした矛盾した体験が起きるのは、読者がソクラテスに「正しくありたい自分」という美しい理想を見るのと同時に、対話相手にも「正しくあれない自分」という醜い現実を見てしまうからなのでしょう。
いわば『プラトン対話篇』において「正論」の美醜の両面性を読者は体験するのです。
とはいえ、そうした「正しくあれない」という辛さを尊重しないといけないとなると、みんなに耳が痛い正論を論じることのハードルがグッと上がります。
むしろ「正論」を王道的に論じようとするならば、情緒的な表現は排されるものですから、二律背反に近いところもあります。
なので、つまるところ、多くの人に「正論」を届けるためには、「ただ論じる」のは諦めて「物語化」や「エンタメ化」が必要になるように思われます。
おそらくは、先日の千葉雅也氏のつぶやきもまさにそういうことなのでしょう。
> もはや、哲学的に本当に大事な問題意識を示すと攻撃を受けるから、文学で言うしかなくなってきている感じもあって、だから文学的仕事に比重が移ってるのかもと思う。
>
> — 千葉雅也『ツイッター哲学』発売 (@masayachiba) [April 30, 2021](https://twitter.com/masayachiba/status/1387958298494701568?ref_src=twsrc%5Etfw)
その目で見てみると、先の飲茶氏の『正義の教室』しかり、朝井リョウ氏の新作小説『正欲』しかり、古くは『聖書』なんかも、物語による「正論」を提示した成功例と言えるように思うのです。
「正論」は誰にとっても耳に痛いものだからこそ、「物語」という摩擦を減らす潤滑油が有効なのでしょう。
誰もが人間不信、疑心暗鬼になりつつある、この「分断」の時代。
良い方向に進もうとする「正論」も、馬耳東風では意味がありません。
そんな今こそ必要なのは「正論」を隠し味にした「優れた物語」なのかもしれません。
以上です。ご清読ありがとうございました。
(↓過去関連記事です)
[[権力者にとって哲学者は脅威であるけれど対処も容易い]]
プラトン対話篇の感想文として、権力者と哲学者の関係性にまつわる人間社会のちょっと悲しい現実を記述した記事。
[[朝井リョウ『正欲』感想文~「多様性」と「正しさ」の相性の悪さ~]]
朝井リョウ氏の小説『正欲』の読書感想文です。傑作と思います。
#バックアップ/江草令ブログ/2021年/5月