放射線科医の間では、互いに読影件数を気にする雰囲気があります。
久しぶりに同僚に出会った時に、「最近一日何件ぐらい読んでるの」と聞くのは、放射線科医にとって時候の挨拶のようなものです。
件数の話をする時、多く読影をしている者ほど「おお、すごいですね」と称賛されます。
もちろん、素朴に「読影が早ければ早いほど良い」とまでは思ってないでしょうけれど、読影をサクサクこなすことに対し、憧れや尊敬の気持ちを抱く文化があるのは否めないところがあります。
加えて、画像診断管理加算の要件もあるので、現実問題として「早く読むこと」が推奨されがちです。
なので、文化的にも制度的にも、読影が遅く、読影件数が少ない者が罪悪感を抱きやすい構造が存在しています。
この読影が遅い人について。
確かに本人の能力不足や努力不足の場合もあるでしょうけれど、必ずしもそうでもないのだろうなあとも思うのです。
ちょうど読んでいる書籍に、関連する話がありまして。
おもしろい話しましょうか、絵ってねえ、たとえばセザンヌでも誰でも長いことかかって絵を描いてるでしょ? 下手な絵描きっていうのはすぐ絵ってできちゃうんだよ。あんなには描いてはいられないんですよ。ということはねえ、あの人達が見てるものを僕達は見てないわけ、あの人達が見えてるものは違うんですよ。だからあんだけ一生懸命描いてるんですよね。自分に本当に見えてるものを本当に出そうと思って。僕達にはじつに浅はかなものしか見えてないからすぐにできちゃうわけ。
『黒澤明、宮崎駿、北野武――日本の三人の演出家』(ロッキング・オン)
古賀史健『取材、執筆、推敲 書く人の教科書』p53 ダイヤモンド社 より孫引き
この引用は、黒澤明監督のインタビューとのことですが、おっしゃる通り、おもしろいことを言われてると思います。
凡人ほど、たいして「ものが見えてない」から、早く描きあがる。
一方、すぐれた「目」を持つ者ほど「見えてしまうから」、それを描くのに時間を要するのだと。
これは、読影にも言えるのではないでしょうか。
読影が早いこと。それ自体は悪いことではありません。
ただ、あくまでそれは、「よく見て」、「よく書けている」という等しい条件であればこそです。
もし、たいして「ものが見えてない」がために早く書き上がってるだけであれば、それは良いこととは言えないでしょう。
対して、読影が遅い人。
それが「よく見えてしまって」、それを「よく書こう」とした結果ならば、仕方がないことではないでしょうか。
こう考えると、読影件数や読影スピードだけで、互いを評価したり、ましてや制度上で金銭的インセンティブをつけることは危険なように思えてなりません。
それは、よい「目」を持つ者に逆風を吹かせるのと同義だからです。
もちろん、本心から「読影件数だけで放射線科医を評してる」と考える放射線科医はまずいないと思います。
ただ、「読影件数トーク」や「読影が遅いことへの自責の念」がしばしば聞かれる現状を見るに、ついうっかり無意識のうちに「読影件数で放射線科医を評する」ことを肯定してしまっていないか、業界全体として注意すべきなのではないかと思うのです。
その注意を怠って、「目」がすぐれている者が虐げられたり、肩身が狭い思いをするようなことはあってはならないでしょう。
ですので、「件数トーク」でお互いを値踏みするのもほどほどに。
以上です。ご清読ありがとうございました。
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