> [!NOTE] 過去ブログ記事のアーカイブです おはようこんにちはこんばんは、江草です。 今日は、**「嫌いと言うこと」の扱いの難しさ**について。 ここ数日、ネット上(はてな上)で盛り上がってる論争がありまして。 **「LGBTを嫌う自由はあるのか」**という、いかにもナーバスなところに切り込んだタイトルのエントリから始まり、それに反応する多数のエントリやコメントが行き交う事態となっています。 論争の応酬の中で主要なエントリを列挙しておくと、 [LGBTが嫌いだと口にしたら、差別はよくないと周囲から総攻撃を食らった。おかしい。それこそが差別ではないか。LGBTを差別するつもりはない。存在…](https://anond.hatelabo.jp/20210301102544) [増田の文章の中では、直結させちゃいけないこと、混ぜちゃいけないことが色々と混ざって、飛躍した結論を導いてるけど、社会的少数派を「(内…](https://anond.hatelabo.jp/20210302093544) [なんかブクマ集めてるけど、納得できないわ。 だって現実では、かわいそう..なんかブクマ集めてるけど、納得できないわ。だって現実では、かわいそうランキング(権力勾配認定)でそんなにかわいそうじゃないとされてる…](https://anond.hatelabo.jp/20210302122214) [anond:20210301102544LGBTを嫌う自由はあるのか、に対するb:id:muchonov氏の意見anond:20210302093544について、結論に関しては同意しなくは無いものの、やはり倫…](https://anond.hatelabo.jp/20210302184235) [ご丁寧にありがとうございます。 わたしが嫌いとする根拠が差別的であった..ご丁寧にありがとうございます。わたしが嫌いとする根拠が差別的であったということは指摘されて理解しました。素直に反省しています。ただ、…](https://anond.hatelabo.jp/20210302112759) といったところでしょうか。 大きな流れとしては、 **「LGBTを嫌いと言う行為を攻撃するのも差別ではないか」** という冒頭のエントリに対し、 **「内心で嫌う自由と、嫌いと言う自由は別ものだ」** **「特に、多数派が少数派に対して嫌いと言うことは抑圧に直結するので許されない」** という反論があり、 さらに、その反論に対し、 **「多数派と少数派の線引きが曖昧ではないか」** **「現実にはLGBTよりも公然と嫌いと言われてる対象がある」** **「多数派に嫌いということの逆差別を軽視してるのでは」** **「嫌いと公言できない世の中のデメリットもあるのでは」** といった再反論が出てきて、百家争鳴の状態となっています。 なかなか皆さん色々な視点をお持ちで、興味深い議論だなと思います。 ただ、身も蓋もないことを言ってしまえば、これはすぐに答えが出せるような議論ではないんですよね。 というのは、この複雑に絡み合った議論自体が「差別問題の難しさ」を象徴しているからです。 この議論がネット上ですぐに結論づけられるような単純なものであれば、人類有史以来、「差別問題」がずっと残っているはずもないのです。 もちろん、考えるに値する大事な問題ではあると思いますけれど。 というわけで、この差別の議論について、江草もここで明確な結論を出すことはできません。 ただ、ちょっと整理しておいてもいいかなと思ったのは、再三議論の中で登場している、**「嫌いと言うこと」の含む意味**についてです。 焦点となっている、この「嫌いと言うこと」はなぜここまで賛否が分かれるのでしょうか。 「嫌いと言うこと」を許容すべきとする立場の人は、「言論の自由」をスローガンに「自由に発言できるべき」という価値観を重視していると考えられます。 一方で、「嫌いと言うこと」を制限すべきとする立場の人は、「嫌いと言うこと」の攻撃性、排除性を問題視しているようです。 確かに、「嫌い」と言う、「言うこと」それ自体は「言論の自由を考えれば許してあげないといけないのかな」と感じる反面、「嫌い」という言葉に対して警戒心を抱きたくなる気持ちもわかりますよね。 この相反する気持ちが同時に私たちの心に沸き起こるのは、「嫌い」という言葉が、なかなか厄介な代物だからだと思います。 「嫌いと言うこと」自体はただの発言なので、本来は攻撃や排除の行動そのものではありません。 だから「嫌いと言うけれども攻撃や排除をする意思がない」のであれば、それは自由の範疇ではないか、という考えも一理あるでしょう。 しかし、困ったことに、私たち人類は「嫌いと思った対象」を攻撃したり、排除してきた長い歴史があります。 少なくとも、嫌いな対象と距離を取ろうとはしてしまう本能のようなものはありますよね。 だから「嫌いだけど攻撃や排除する意思はないよ」と言われても、それはそれで経験的に信じがたいし、生存戦略的にも「自分のことを嫌いな人」を信頼するわけにはいかないのですよね。 こうした「嫌いと言う人」に対する不信感は、一種の「嫌いと言う人」の扱いを変える統計的差別なのですが、私たちに本能的に刻み込まれた心理的防衛反応として否応なしに生じてしまうのだと思います。 名言的によく出てくるセリフ――**「私はあなたが嫌いだが、あなたがそれを言う権利は命をかけて守る」**――という態度をとる人が、もし人類史上で多数派であったなら、「嫌いと言うこと」すなわち危険という扱いにはならなかったのかなと思います。 しかし、私たちのような凡庸な人間にとってこのような高潔な態度を徹底するのは難しいのが現実なのですよね。 「嫌いと言う人」に不信感を抱き扱いを変える「統計的差別」は、またもう一段ややこしいジレンマをはらんでいます。 「嫌いと言う人」に対する不信感に基づく「嫌いと言うこと」に対する抑圧行動は、「嫌いと言う人を嫌っている」と言い換えることもできるでしょう。 で、最初のシンプルな「嫌い」に関する構図を * 「嫌いだからといって攻撃や排除すること」は差別 * 「嫌いだけど、その存在は尊重し守ること」は許容 ⠀ と捉えるとしましょう。 この構図については、直観的に私たちの感覚にもあってそうですし、同意される方も多いのではないでしょうか。 しかし、この構図を肯定すると「嫌いと言う人を嫌い」な時に取るべき立場を考える時、 * 「嫌いと言う人を嫌いだからといって攻撃や排除すること」は差別 * 「嫌いと言う人は嫌いだけど、その存在は尊重し守ること」は許容 ⠀ となってしまい、なんだか困ったことになります。 「嫌いだからといって攻撃や排除すること」を差別と捉えて抑制すると、「嫌いと言う人を嫌いだからといって攻撃や排除すること」も同時にできなくなってしまうのです。 これは「寛容のパラドックス」として知られるジレンマの類型です。 冒頭の議論も、この一段目と二段目の「差別」と「許容」のダブルスタンダードをどう処理するか、すなわち「嫌いと言う人」をどう扱うか、という難題を取り扱っていると考えることができるでしょう。 と、このように見てきて、「嫌いと言うこと」に対する扱いがなかなかに厄介で難しいことには、共感していただけたのではないでしょうか。 冒頭の差別問題の議論を含め、一筋縄ではいかない問題です。 ただ、今回の話も踏まえて一つ言えることは、「嫌いと言うこと」が含む「攻撃的な意味」に、私達は自覚的であるべきではないかということです。 嫌いと言う側が「嫌いだけど存在は尊重してるよ」と心底思っていたとしても、相手側にはそれを知るよしもありません。 ですので、確かに自分にとっては不本意ではあるものの、相手から「自分を攻撃・排除しようとしている」と受け取られてもやむを得ないのが現状です。 「嫌いだと言うこと」が「攻撃的」と思われかねないリスクをもった行動であることは認識しておかないと、自分にとっても不本意な結果に終わるでしょうから、注意するにこしたことはないのではないでしょうか。 で、かくいう江草も、わりと気兼ねなくバンバン人の「批判をする」癖があるので、マズいんですよね。 本来「批判すること」はクリティカル・シンキング的に、むしろ社会としても大事にすべきことの一つです。少なくとも江草はそういう信念を持っています。 しかし、「批判すること」も「嫌いと言うこと」と同様に、大変残念ではありますが、わりと「攻撃的な行為」として社会通念上受け取られてることは否めない事実でしょう。 なので、「批判すること」が副反応的に持ってしまう「攻撃的な含意」についても、ほんと注意しないといけないなと常々感じております。 自戒をこめて。 以上です。ご清読ありがとうございました。 #バックアップ/江草令ブログ/2021年/3月