> [!NOTE] 過去ブログ記事のアーカイブです ダイアン・コイル著『GDP――〈小さくて大きな数字〉の歴史』読みました。 [GDP――〈小さくて大きな数字〉の歴史](https://amzn.to/3zz5Cqa) 最も有名な経済指標と言える「GDP(国内総生産)」の意義と限界をその誕生と改変の歴史を踏まえながら解説してくれている本です。 経済学者でなくとも私たちがGDPにまつわる話を聞かない日はありません。 経済成長率(GDPの成長率)の上下に世界中が一喜一憂したり、生産性(1人当りGDP)を上げるためにはどうしたらいいかで激論が交わされたり、GDPに対する医療費の高さが問題視されたり、今こそ脱成長(GDPの成長を求めない方針)が良いんじゃないかと叫ばれたりします。 今回のコロナ禍においても「GDPを維持しながら感染者を抑える方法はないのか」と医療者側からも進んでGDPに配慮する声も聞かれました。 しかし、これだけ重要な指標として存在感を示している「GDP」、そもそもいったい何者なのか皆さんは説明できるでしょうか。 GDPが何者で、どうして重要視されてるのか分からなければ、なぜ成長率を気にしないといけないかも、なぜ生産性を上げないといけないかも、なぜ医療費が上がるとダメなのかも、なぜ脱成長じゃダメなのかも分からないはずです。 とかく社会的に大事な問題に関わっている指標ですから、「なんとなく大事そうだから」ではマズイですよね。 改めて考えるとよく知らないこの「GDP」にスポットライトを当てて丁寧に解説してくれるのが本書です。 本論部分が150ページ弱しかなくコンパクトでありながら、「GDPとはどういう存在なのか」のイメージがよくつかめる大変な良書でした。 一般読者を想定されてか、ありがたいことに数式もほとんど出ませんし、初出の専門用語には解説を加えてくれるので読みやすいです。 こう言うと「こんな150ページ足らずの、しかも数式も出ない本でGDPが理解できるはずがない」という疑問もあるかもしれません。 その疑問はごもっともです。 ただ、この本はその批判には当たりません。 なぜなら本書は「GDPを理解した」と言うための本というよりは、「GDPがいかに複雑怪奇でよく分からない代物であるか」を理解するための本というのがふさわしいからです。 たとえば、本書内でも「GDPを理解するのがいかに難しいか」が強調されています。 > これほどの内容を細部まで理解している専門家はごく一握りだ。つまり世の中のほとんどの人は日々目にしているGDPがどうやってできているかを完全には理解していない。GDPについて語っている経済専門家を含めてである。 > > ダイアン・コイル『GDP――〈小さくて大きな数字〉の歴史』 p31 従って、本書を読むことの意義は「GDPを理解すること」ではなく、私たちの頭の中のGDPのイメージが「絶対視すべき神聖な魔法の数字」から「非常に人間くさく利点も欠点も併せ持った人工的な数字」に変わることにあると言えます。 実際、本書が指摘しているGDPの問題点は、多くの人々の持つGDPの「強固な指標のイメージ」を覆すものでしょう。 GDPはもともと現実の生産物の量を図るために発明されました。だから当初の素朴なGDPの定義のままだと軍事費はただの支出になり、金融はほとんどGDPに貢献しません。 しかし、「軍事費を有用に見せたいから」、「金融は大事なはずだから」と、いわば「大人の事情」で軍事費や金融業に有利なGDP算定方法に改定されていく歴史が本書につまびらかに記されています。 > 政府にしてみれば、既存の国民所得の額から国防費を差し引くのは、戦争が民間の消費支出に大きな犠牲を強いるという誤った印象を与える行為だ。独裁的な君主が戦争のために税金を徴収するというイメージはまずい。あくまでも民主的に、人々の所得を集めて公共サービスと社会保障を提供するのでなくてはならない。政府支出を経済から差し引くのではなく加えるという考え方には、こうした民主的な政府というイメージへの移行を助ける意味合いもあった。 > > ダイアン・コイル『GDP――〈小さくて大きな数字〉の歴史』 p23 > このマニュアルが書かれた時点では、銀行が経済の価値を減らすなどあり得ないことに思えた。そこで専門家たちは、金融仲介の儲けをなんとかして計測する方法を見つけようとした。そうして広まったのが、「金融サービスは経済の架空の領域でマイナスのアウトプットを出している」という考え方である。もはやわけのわからない世界だ。 > > ダイアン・コイル『GDP――〈小さくて大きな数字〉の歴史』 p105 もちろん、複雑な経済を測定するためには、もともとの生産物量しか測定できないGDPが素朴すぎたとも言えるでしょう。 しかし、こうした紆余曲折ある改変の歴史を追っていくと、あくまでGDPとは人為的に構築された不安定な概念であることが明白です。少なくとも絶対視すべき存在ではないでしょう。 GDPが「抽象的、不確実、人工的な概念であること」は本書でも再三強調されています。 > GDP比較データはたしかに有益な情報を与えてくれる。だが、そこには不確実な要素が多分に含まれていることをけっして忘れてはならない。 > > *ダイアン・コイル『GDP――〈小さくて大きな数字〉の歴史』 p*61 > 各国の数十年にわたるGDPデータは経済理論や経済政策の基盤としてあまりに広く使われているため、私たちはGDPという実体がどこかに存在し、必要なのは測定の精度を上げることだというような錯覚に陥っている。だが測定の対象がただの概念にすぎない以上、正確な測定などというものは本来ありえない。もともと自然界に存在するものを発見して測定するのとはわけがちがうのだ。 > > *ダイアン・コイル『GDP――〈小さくて大きな数字〉の歴史』 p*145 このように、GDPは「絶対視すべき神聖な魔法の数字」ではなく「非常に人間くさく利点も欠点も併せ持った人工的な数字」 なのです。 あいまいでうつろいやすく、矛盾も抱えた存在。 まるで人間そのものを見ているかのようです。 また、GDPは総合的にも避けがたい問題点を有してますが、より個別の問題点も指摘されています。 たとえば、経済の複雑化に対応できていないことです。 今や世の中には多種多様な商品があふれていますが、GDPは量を測定するのは得意でも、種類の豊富さや質の評価は苦手です。 > たとえば食器のことを考えてみてほしい。ナイフとフォークとスプーンをつくったとしても、スプーンばかり三つつくったとしても、GDPでは同じ数字になる。便利だろうと不便だろうと、GDPはただ数を数えることしかしない。 > GDPは世の中に存在する製品の多様化を捉えられないので、経済成長を過小評価している。 > > *ダイアン・コイル『GDP――〈小さくて大きな数字〉の歴史』 p130* つまり、様々な種類の商品があって自分の都合や好みによって選択できることに私たちは「豊かさ」を感じますが、GDPではその「豊かさ」は捉えられないのです。 さらに、GDPはイノベーションや無形資産を捉えることも苦手であると指摘されています。 > それに関連して、完全にデジタルな製品やサービスの価値をどう扱うかという問題もある。たとえばインターネット上の音楽や検索エンジン、アプリケーション、クラウドソーシングによる辞書やソフトウェア。無料で提供されているものも多く、GDPの数字にうまく反映されない。エリク・ブリニョルフソンとアダム・ソーンダースは、ロバート・ソローの有名な言葉にかけてこう表現している。「情報化時代の影響はいたるところに見られるが、GDP統計だけは別だ」。 > > *ダイアン・コイル『GDP――〈小さくて大きな数字〉の歴史』 p13*6 時にネット上なんかでも「ITやイノベーションの推進で経済成長を進めよう!」とか、逆の「ITやイノベーションは経済成長に貢献してない!」などの意見を見ることがあります。 この一見相反する意見はどちらも「GDPという経済成長の指標が、ITやイノベーションの功績を反映している」という前提を置いてる点で共通しています。 しかし、そもそもGDPがITやイノベーションの功績を適切に測定できないのだとしたら、いったい何の議論をしているか分からなくなるでしょう。 極端に言えば、それはいわば、ダイエットの推進の是非を議論しようとしてる時に、なぜか体重計ではなく身長計を持ち出すようなものです。 「身長が伸びてないのはダイエットが足りないことの証拠だ。もっとダイエットを推進するべきだ!」 「ダイエットを推進しても身長が伸びてないじゃないか。ダイエットは意味がない!」 この議論を聞いたら「身長でもめてどうすんの。まずふたりとも落ち着こ!」ってなりますよね。 ほんとうにそれがみんなが関心があるはずの「体重」をきちんと測定できるものなのかどうかを確認して初めて測定結果を踏まえた議論が成り立つのですから。 もちろん、このたとえはあくまで極端なものです。実際には「ダイエットと身長」の関係性ほどに、「イノベーションとGDP」の関係性が薄いとは言えないと思います。 しかし、少なくとも「GDPはイノベーションの測定が苦手」というのは確かでしょうから、限界の存在を意識し、解釈には慎重になるべきとは言えるでしょう。 そして、さらなる重大な問題がGDPが「サービス業やインフォーマル経済」を測定するのが苦手であることです。 具体的に言えば、接客やケア職の仕事や、専業主婦などの賃金が発生しない家庭内労働の評価をGDPはうまくできないということになります。 > 生産性とは文字どおり、生産物に関する言葉だ。どれだけのインプットをもとに、どれだけのアウトプットを出したかが問題になる。サービス業で主なインプットといえば、従業員がその仕事をするのに費やした時間だろう。ではたとえば、教師のアウトプットとは何か。卒業させた生徒数、1年を終えたときの成績、その後の生徒たちの学歴、それとも卒業後の生涯賃金?あるいは生徒たちが大人になったとき、学校で学んだことをもとに仕事と家庭を充実させ、音楽やスポーツも楽しんで生きることがかどうか?また看護師の生産性は、1日に接する患者の数で決まるのか、それとも患者の病状に対する貢献度を測らなくてはならないのか?美容師の生産性はヘアカットの件数で決まるのかそれともカット技術や店の雰囲気によって高い料金をとれる人のほうが生産性が高いのか? > > *ダイアン・コイル『GDP――〈小さくて大きな数字〉の歴史』 p*90 もともと「モノの生産量」を測るために発明されたGDPは、「サービス」を測ることを想定されていませんでした。 その後の試行錯誤で「サービス」が測れるようにGDPに改良が加えられたわけですが、それでもこのように「そもそもサービス業のアウトプットとは何か」といういわば哲学的な課題が処理できないままです。 このあたりは、江草も一応医師なので思うところがあります。 日本では国民皆保険制度によって医療行為の隅々まで価格が定められています。 ですが、「医療行為の質を測る」のが極めて難しいという現実により、この価格設定が妥当かどうか、常に議論が巻き起こっています。 直観的に多くの医療者が「重要で難しい」と感じる仕事が案外報酬が低かったり、逆に「必要性も低く簡単」と感じる仕事の報酬が高かったりします。 また、報酬の基準が変わったことによって、医療行為の量ばかりが重視され、質がおざなりになる風潮が出ることもよく指摘されるところです。 こうした経験も踏まえ医療行為に限らず、GDPで「サービス業の成果」が適切に測定できてるとは考えにくいと以前から感じていました。 本書での「GDPはサービス業を測定するのが苦手」という指摘は、江草の直観を補強してくれたと言えます。 一方の、家庭内労働などのインフォーマル経済の扱いについての問題も重大です。 > 一方、ほとんどお金のやりとりが発生しないために、生産の境界から締め出されている経済活動もある。家庭内生産や自家生産と呼ばれるものだ。 > > (中略) > > なぜこうした無償の家庭内労働が経済にカウントされず、お金を出して家事を依頼したときだけGDPに含まれるかというと、主な理由は測定が難しいからである。いや、「難しい」という表現は正しくない。多くの経済データと同じように、統計調査をすればいい話だ。だが国の統計機関はこの分野を放置している。そこには、家事労働が主に女性の労働だからという理由もあるのだろう。 > > (中略) > > 人々が労働に費やす合計時間の半分以上は無償労働なのだ。2001年のイギリスを例に挙げれば、こうした無償労働を同種の仕事の賃金をもとにお金に換算した場合、国民生産の値が従来の1.85倍にまでふくらむ計算になる。国によって数字に差はあるけれど、その重要度は変わらない。これほど大きな活動が、慣習的にそして恣意的に、正式なGDPデータから除外されているのである。 > > *ダイアン・コイル『GDP――〈小さくて大きな数字〉の歴史』 p*114-115 ときに有志により「家事の対価として本来もらえるべき収入」の算出が試みられることがあります。 往々にして高い額がはじき出されるためもあってか、そうした試みに対しては毎度嘲笑する意見が少なくありません。 しかし、算出された額そのものの妥当性はさておき、それを算出する行為自体は重要な問題提起と言えます。 それは、私たちにとって「生産的な仕事」「重要な仕事」とは何か、という問いを思い出させてくれるからです。 たとえば、本書でも紹介されてるパラドックスですが、「雇っていたハウスキーパーと結婚して家事を担わせた途端、まったく現実の行為は同じにもかかわらずGDPは下がる」ということが知られています。 同様の例として、各家庭で面倒を見ていた子どもを交換して互いにベビーシッター業をしあうことでもGDPが上がります。 こうした「数字のアヤ」があるにもかかわらず、「GDPに貢献してないから家庭内労働は意味がない」というのは危うい考え方です。 つまり、「家庭内労働をGDPの測定対象に入れてないだけ」なのに、それを忘れて「家庭内労働はGDPに貢献していない」というのは妥当なロジックではないのです。 要は、ハナから「測定対象に値する仕事」と思ってないだけなんですよね。 色々議論が巻き起こるテーマではありますが、少なくとも、こうした「GDPの盲点」は、家事と賃金労働の関係性を考える上で、忘れてはならない重要ポイントと言えるでしょう。 もうひとつGDPの課題を簡単に紹介しておくと、最近トレンドになってる「持続可能性」の問題があります。 GDPは過去から現在の経済のことは評価できるけれど未来のことは評価できないという限界が指摘されています。 つまり、現在の経済成長が、実は未来の経済成長を引き換えにしている場合に、GDPではその未来の経済の損失は計測できず、ただ単純に経済が好調かのように見えることになります。 これは重大な問題であるとして、本書はGDPの算出方法の見直しで早急に対応するべきであると主張されています。 決して完璧にはなりえないものの、あくまで経済の現状を把握するために作られた指標であるGDPですから、経済損失の未来への先送りは無視できない要素でしょう。 それを把握しなければ、いくらでも未来の利益を前借りする自転車操業を許すことになるのですから。 むしろ、この把握を今まで忘れてたからこそ、持続可能性の問題が肥大化したとも言えそうです。 この持続可能性の要素も考慮したGDPがどのように生まれ変わるのか楽しみではありますね。 ただし、以上に見てきたように多々の問題があるからといって、GDPが無用の指標であるとか、時代遅れな存在になったというわけではありません。 このことは本書がとくに強調しているところです。 たとえば、GDPに変わる指標として、幸福を測る指標などが提示されていますが、これらもかなり問題があるんですよね。 「幸福」という概念は「生産量」以上に主観的なので、それこそよっぽど恣意的な指標になりやすいです。 それに、歴史上の経済学者たちの不断かつ膨大な努力によって、GDPもできる限り経済の現状をうまく表せる指標になるように大切に育まれてきたことは間違いありません。 完璧ではないまでも、やっぱり優秀で便利な指標ではあることを忘れてはならないでしょう。 民主主義を語ったチャーチルの名言を江草が勝手にもじって言えば「GDPは最悪の経済指標だ。GDP以外の全指標を除けば」といったところでしょうか。 ですから、そもそもの問題は、GDPの是非ではなく、GDPは豊かさを測る指標ではないのにあたかもそうであるかのように絶対視されてしまってることなのです。 > ただし忘れないでほしいだが、そもそもGDPで測られるのは生活の豊かさではない。経済学者は以前から、そこを混同しないように自戒し、人々にもそう呼びかけてきた。 > > (中略) > > だがそうした忠告にもかかわらず、経済学者や政治家を見ていると、GDPと福祉をあまり区別していないという印象を受けることが多い。政治家が目指すべきは人々の生活をよくすることであって、GDPの数値を伸ばすことではないはずだ。 > > *ダイアン・コイル『GDP――〈小さくて大きな数字〉の歴史』 p*119 > 一方、とくに意識しておいてほしいのは、GDPと豊かさが別物であるということだ。経済の変化によって、GDPと人々の豊かさとの隔たりは以前よりも大きくなった。商品の多様化とカスタマイズはますます進み、クリエイティブな職業では仕事と遊びの境界線が薄れてきている。こうした変化が意味するのは、GDPが人々の豊かさを十分に捉えられなくなりつつあるということだ。 > > *ダイアン・コイル『GDP――〈小さくて大きな数字〉の歴史』 p*147 「20世紀でもっとも偉大な発明のひとつ」とも称されるGDPは、確かに重要な存在です。 しかし、発明品である以上それは人類に資する道具であり続けるべきであって、逆に人類が仕える神託であってはならないでしょう。 「日本の経済成長率が低い。それみたことか!」 「生産性を高めるためにイノベーションを!」 「GDP比医療費の高騰が著しい。医療費削減待ったなしだ!」 「GDPは無意味だから脱成長だ!」 などの大きな叫び声はよく聞こえますが、これらの意見は果たして「GDPが何者か」という前提を踏まえたものでしょうか? 人類が上手に使うべきただの発明品に、逆に振り回されてしまってはいないでしょうか? ――GDPの数字は絶対ではなく、一方で限界があるからといって無用というわけでもない。 本書 **『GDP――〈小さくて大きな数字〉の歴史』** は、私たちの優れた発明品「GDP」と今後もうまく付き合っていき、経済のことをよく考えるために必携の前提知識を提供してくれる優れた一冊であると思います。 以上です。ご清読ありがとうございました。 #バックアップ/江草令ブログ/2021年/8月