おはようこんにちはこんばんは、江草です。
今日は日常生活でふと思ったことをエッセイ的に。
今日、買い出しで出かけていた時、前を行く小さいお子さんが変わった動きをしてたんです。
なんというか、下を見ながらぎこちなく足を出していく感じで。
親御さんが「はやくいくよー」的に呼びつけてますけど、本人は必死で何かと向き合っててる表情。
江草はなんとはなしにその様子をぼんやりと観察してたんですが、まもなく「なるほどな」とピンと来ました。
要は彼女は「歩道のタイルの境界線を踏んだら負けゲーム」をやってるんです。
子どもの頃、誰しもやったことありますよね。類似のゲームの「横断歩道の線から落ちたら負けゲーム」なんてのも、おそらく全員経験済みではないでしょうか。
大人目線ではそれが何に役に立つでもないし普通に歩いた方が楽に決まってるのですが、彼女はわざわざそうしたルールを設けて道を歩んでいるのです。
なぜそんなことをするのかは最終的には本人しか分からないですけれど、自分の子供の頃の記憶も踏まえて考えると、単純に「自分でルールを設けてその制限の上で攻略してみる」行為が楽しいんですよね。
まさにそういう「遊び」というか「ゲーム」なんです。
「鬼ごっこ」でも「かくれんぼ」でも、数多あるテレビゲームでもそうなんですけど、遊びってのはルールがつきものです。
手順が決まっていたり、禁止事項が決まっていたり、勝敗の基準が決まっていたり、けっこうルールでがんじがらめです。
「がんじがらめのルール」と聞くと、大人的には楽しく無さそうな響きです。
でも、一方の子どもたちはルールでがんじがらめの上で楽しそうに遊んでいるわけです。
なんなら冒頭のお子さんのようにルールがないところに自分自身でルールを追加しちゃったりするぐらいです。
つまり、子どもの世界では、「ルールがあるから楽しくない」どころか、「楽しむためにルールが設けられてる」んですよね。
この違い、面白いなあと思うんですよ。
「ルール」を明らかに楽しんでる子どもたちと、「ルール」と聞くとめまいや吐き気を催しそうになる大人たちはいったい何が違うんでしょう。
江草が思うのは「ルールをコントロールできているか」と「ルールにコントロールされているか」の違いなのかなと。
タイルの境界線を踏まないように歩いていた彼女は、自分でルールを設けて自分でそのルールを守るように決めたわけで、誰にもそのルールを強制されていません。飽きたらそのルールを守るのをいつでも止めることができるわけで、ルールに対して創造主であり支配者です。
「鬼ごっこ」や「かくれんぼ」もそうで、「ゲーム中はそのルールに従う」とみな自分自身で決断して「やるやる~!」と参加表明するわけで、自分自身の意思決定の範囲内にルールが収まっています。
一方の大人社会では、あれやこれやのルールが外からどんどん降り掛かってきます。
専門医制度の複雑なルールや理不尽な僻地勤務要請もそうですし、院内や医局のローカルルールや、税金や社会保険料の納付義務などなど、外部から守るように要求されているルールで大人たちはまさにがんじがらめです。
飽きたからといってそのルールを捨てることはできず、嫌でも守らねばならない大人たちは、「ルールに支配されてる」と言えるでしょう。
もちろん、社会の秩序安寧のためにはルールは必要です。子どもたちと違い、社会維持のための能力を持ち、かつ、その責任を担っている大人たちはルールを守ることを甘受せねばならないのは仕方ないことでしょう。
しかし、子どもたちの様子を見ていると、本来「ルール」という存在は、上手く付き合えば、楽しいとまでは言えなくてもそこまで苦痛に感じるものでないはずではと、江草は思うのです。
そもそもからして、この社会の「ルール」というものは、今の民主主義社会の仕組み上においては自分たちが創造主であり支配者であったはずです。
創造主であり支配者なのであれば、子どもたちがそうであるように、ほんとうならルールと私たちは良い付き合いができるはずなのではないでしょうか。
にもかかわらず、少なくない大人たちがルールにがんじがらめになり息苦しさや怒りを覚えている現状というのは、「国民がルールの創造主であり支配者である」という民主主義社会の前提がおかしくなっていることを示唆している気がしてなりません。
「ルールに支配される」のではなく、「ルールと遊ぶ」子どもたちのような生き方を、いくらばかりか取り戻せたら、もう少しみんなが楽しい社会になるんじゃないかなと夢想した今日の昼下がりでした。
以上です。ご清読ありがとうございました。
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