「無駄な受診」をする患者さんを批判する風潮について

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おはようこんにちはこんばんは、江草です。

今日は、「無駄な受診」をする患者さんを批判する風潮に対して苦言を呈してみます。

「無駄な受診」をする患者さんを批判する風潮

時折、医療者には、「無駄な受診」をする患者さんを批判する風潮が見られます。

日中から症状があったのに深夜に受診したり、軽すぎる症状で受診したり、不安な気持ちからドクターショッピングしたり、日頃から不摂生であったり、そうした患者さんが批判の対象になる傾向があります。

対応する現場の人間の気持ちとしては分かる

実際、直接対応する現場の人間の気持ちとしては共感します。

専門家目線で見れば必要性が低い、妥当性が低い受診の対応に追われると、「この忙しい時になんでこんなことで」と思うのは当然です。

放射線科医だって「無駄」な依頼にはイラッとしますしね。

誰しも生身の人間ですから、ついイラッとしてしまう、その気持ちを否定するわけではありません。

 

批判の矛先が違う

しかし、気持ちに共感はしつつも、その批判の矛先を患者さんに向けるのは誤ってることをあえて指摘させていただきます。

批判すべきは患者さんではないんです。

患者さんのせいではない

そもそも「無駄な受診かどうか」を患者さんが判断できるでしょうか。

専門家視点からは容易に「無駄」と判断できるかもしれませんが、患者さんは素人です。

例えば、救急部に患者さんの病状の緊急度を判断するトリアージナースが居る場合がありますが、そういう方もちゃんと訓練を積んでる専門家のはずです。それに準ずる「どういう時にどういう症状だったら受診するのが適切か」という判断は、素人には荷が重い高度な意思決定と言えるでしょう。

それとも、「素人でもそれぐらいの判断はできるようになれ」と要求するのでしょうか。

確かに、中には勉強して専門家顔負けの知識量や判断力を持ってる患者さんはいらっしゃるでしょう。しかし、あまねく人々にそれを要求するのは酷というものです。そうした必ず一定数は存在する「十分な知識や判断力を持つことができない人たち」を切り捨てるような「賢い患者像」を押し付けることには江草は反対です。

だいたい、多くの医師が普段から世にはびこる怪しい医療情報に対し警鐘をならし、「素人の意見は聞かず専門家の意見を聞きましょう」と日々訴えています。それなのに、受診の要否の判断についての話になった途端、急に素人に「賢い判断」を要求するのはダブルスタンダードと言われても仕方ないでしょう。

多忙で余裕がない医療体制や社会の問題

患者さんを批判するのが誤ってるというのなら、何を批判すればいいのでしょうか。

本当に批判すべきは、多忙で余裕がない医療現場の体制と江草は考えます。

受診の要否が自身で判断できないのですから、「受診したい」と感じた患者さんが受診してくるのは仕方がありません。

そうした患者さんを受け入れる余裕を作ってこれてない、国の医療体制作りをまずは批判するべきでしょう。

また、仕事があるなどで時間外にしか受診してこない患者さんに対する否定的意見も多いですが、これも同様に、時間外にしか受診することができないような多忙で余裕がない社会になってしまってることからまずは批判するべきです。

 

「無駄な受診」をする患者さんも受け入れられるキャパシティが必要

そもそもからして医療には「無駄な受診」をする患者さんも受け入れられるぐらいのキャパシティが必要です。

キャパシティがないからコロナ禍でもすぐ医療が逼迫した

今回のコロナ禍でも医療のキャパシティの余裕がもともとからなかったために、早々に医療逼迫に至った可能性が指摘されています。

江草も先日の記事でキャパシティの重要性には触れました。

考えてみれば当たり前のことですが、火事がない時も消防署はありますし、紛争がない時も自衛隊はいます。平時から余裕がないと安全保障はできないのです。

「日本のコロナ対策論議に根本的に欠けているもの」の記事に欠けているもの
「行動制限措置を導入する前に半年間の猶予期間があったのだから医療体制を整備しておくべきだった」という主張への批判記事です。

 

医療経済学者の二木先生も同様のことをおっしゃってます。

効率一辺倒で余裕のない地域医療構想のスタンスが見直され、様々な大災害にも迅速に対応する「医療安全保障」という視点から、各都道府県および全国で、ある程度余裕を持った病床計画が立てられるようになると思います。

医療界には「弱い追い風」 医療経済学者が新型コロナの影響を前向きに捉えるわけ
新型コロナウイルスへの対応で、医療現場も大きな影響を受けました。100年に一度とも言われるこの疫病のインパクトはどれほどあったのか。医療経済学者の二木立さんは意外にも前向きな評価をしています。

 

「無駄」というのは「余裕」の裏返しです。

「無駄」を受け入れられるぐらいのキャパシティがなくては、いざという時の備えはできないのです。

「患者誘発受診」は対応できてしかるべき

応召義務の条項が法的に設けられていることから見ても、患者さんの受診ニーズは基本的には満たされるべきというのが、この国の医療の基本方針であることは間違いないでしょう。

同じニーズでも、医療費の無駄使いだとして「医師誘発需要[1]患者さんには必要な検査や治療が分からないのを良いことに、医師が無駄な検査や投薬などを半ば強引に勧めることで生まれる需要」についてはよく批判されます[2]まず医師誘発需要というものが本当に存在してるかどうかも議論があります。確かに、医師は専門家ですし、無駄な医療行為かどうかはしっかり判断できる存在と見なされますから、医師自身の「無駄な行為」については批判を受けるのは仕方ないでしょう。

しかし、自身でそうした無駄かどうかを判断できない患者さんは別です。

医師誘発需要と違って、患者さんの判断で発生するいわば「患者誘発受診」は、たとえ医師目線では「無駄」であったとしても、医療体制として対応できてしかるべきと思います。

 

医療費抑制を前提としてもやはり患者さんのせいではない

なお、ここまでの説明ですと、おそらく「医療費に限界があるから仕方ないでしょ」といった医療費抑制の視点からの反論が出るだろうと思います。

医療費自体の限界をどう考えるかについても私見があるのですが、長くなるのでそれはまた別の機会にするとしまして。

もし仮に仰せの通り、医療費抑制を前提としましょう。でも、それでもやはり「無駄な受診」は患者さんのせいではありません。

医療費の限界の理屈はあくまで医療体制側の論理であって、「受診要否の判断能力はないけど、受診したくて、受診できるのだから、受診した患者さん」には知る由もない関係のない話です。

「医療費を無駄遣いしない賢い患者」でなかったことを怒るのだとしても、まずは「賢い患者」を育てるのは専門家集団たる医療界の責任です。先に、そうした「賢い患者」の育成が十分に行えなかった医療界の啓発活動の不甲斐なさを責めるべきで、患者さんを批判するのはお門違いです。自分の教え方が悪いのに生徒に怒る教師のような理不尽さがあります。

もしどうしても医療費を抑制したいなら、「お金」がないことを恨みながら、そもそも患者さんが容易に受診できないように粛々とアクセス制限の体制を築くしかありません[3]これは現実にそうなりつつありますが。医療費の限界からそうした不便を強いることについて患者さんに申し訳ない気持ちを抱くことはあっても、患者さんを批判するのはやはり妥当ではないでしょう。

 

【まとめ】「無駄な受診」をも受け入れられる余裕を

と、「無駄な受診」をする患者さんを批判する風潮に私見を述べさせていただきました。

多忙な中、「無駄な受診」を直に対応しなくてはいけない現場スタッフとしてイラッとする気持ちは分かります。しかし、そうイラッとした気持ちを抱くのも「多忙で余裕がないから」ではないでしょうか。

まずもって批判するべきは受診の要否を判断する責任能力のない患者さんではなく、そうした患者さんを受け入れることができない医療体制の余裕のなさです[4]なお、過酷な現場で日々なんとか踏ん張って対応している現場スタッフたちももちろん称賛されこそすれ、批判されるいわれはありません

医療費抑制のためにアクセスを制限していくのも一意見として尊重はしますが、江草としてはそうした「無駄な受診」をも受け入れられる余裕が医療にはあってほしいと考えます。

 

以上です。ご清読ありがとうございました。

脚注

脚注
1 患者さんには必要な検査や治療が分からないのを良いことに、医師が無駄な検査や投薬などを半ば強引に勧めることで生まれる需要
2 まず医師誘発需要というものが本当に存在してるかどうかも議論があります
3 これは現実にそうなりつつありますが。
4 なお、過酷な現場で日々なんとか踏ん張って対応している現場スタッフたちももちろん称賛されこそすれ、批判されるいわれはありません

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