おはようこんにちはこんばんは、江草です。
今日は時々聞く「自由の履き違え」というワードについて物申したいと思います。
自由を履き違えてる?
「世の中、自由を履き違えている人が多い。他人に不快感を与えるのは自由ではない、自分勝手と言うんだ」
こんな小言的な発言を時々耳にします[1]実例が見たい方は「自由の履き違え」でググッてみてください。多分それっぽいのはあります。
確かに傍若無人な振る舞いをする人を見て、江草も不快感を抱くことはしばしばあります。
ただ、それは「その人の自由」を理解した上での不快感であって、「やめてほしいな」とは思いつつも「不快感を与えるような振る舞いは自由とは言えない」とは思いません。
法に触れるような行動でない限りは、不快感を与えるような行動をしたからといって、必ずしもそれが「自由を履き違えてる」とはならないのです。
そもそも自由とは
そもそも自由というのは何でしょう。
まあ、ほんと言うととてつもなく深い哲学的議論を要しますが、とりあえずここはしがないブログ記事なのでざっくりいきましょう。
ひとまず、自由の意味を「自分で自分の行動を選択できること」とおくのは、おそらく多くの人が同意できる範囲の定義ではないでしょうか。
とすると、自由が認められている場においては、「自分で自分の行動を選択すること」は犯罪レベルでない限りは許容されているはずです[2] … Continue reading。
人に快い感情を与える行動のみ許されてたら自由ではなく他由
しかし、ここで「他人に不快感の有無」を自由の条件に掲げるとどうなるでしょうか。
「他人に不快感を抱かれるかどうか」は、確率の上下はある程度できるとしても基本的に自分ではコントロールできません。
なのに、他人に不快感を抱かれたとたんに「アウト!」「それは自由ではなく自分勝手です」と言われるとなると、それは自由と言えるでしょうか。
自分でコントロールできず、結局他人の気持ちにコントロールされているのですから、それは自由ではなく他由でしかないでしょう。
自由を履き違えてると言う人が自由を履き違えてる
「他人に不快感を与えること」が法律上禁止されていれば、自由を制限する条件として妥当ではありえるでしょう。
しかし、当然ながら他人に不快感を与えることなく生きていける人なんて一人たりともいません。したがって、「他人に不快感を与えただけでは犯罪ではない」のは明白です[3]もちろん悪質なものならそれ用に特別に設けられた法律はあるでしょうが、不快感を与えた行為全てが違法ではないのは明らかです。
法律への抵触がないにもかかわらず「他人に不快感を与えること」を「それは自由ではなく自分勝手である」と妨げるのであれば、「自分で自分の行動を選択すること」を実質上認めてないのですから、それはそもそも「自由を認めない立場」に過ぎません。
ならば最初から「私は自由を認めない」と主張すればよいのであって、一見「自由を認めてる」風の「自由を履き違えてる」という言い方はおかしいのです。
すなわち「自由を履き違えてる」と言う人の方が、自由を履き違えてるのです[4]もちろん、議論の文脈によるので全員なはずはないですが、ここは文章表現のアヤとして形上、断言させてください。
ムカつく人がいない社会は自由じゃない社会
誰しも他人に不快感を与えずに生きることはできない以上、自分から見てムカつく人がいない社会は自分にとっては快適かもしれませんが、その他大勢にとって、まずもって自由じゃない社会です。
自分を中心に回ってる社会が理想と思ってる方にとってはそれでいいかもしれませんが、本当に自由を愛してる方にとっては、それはディストピアな社会でしかないでしょう。
もちろん、ムカつく人はほんとムカつきます。その気持ちは分かります。
しかし、そういう人がいることこそが自由社会が健全に動いてる証拠とも考えることはできるのです。
「不快だけど、それが自由なのは分かってる。でも不快だ」そんななんとも噛み切れない態度でしか、残念ながら自由な社会は維持できません。
正直なところ、江草自身、「自由の履き違え」についてちょっとムッとする文章を読んでしまったので、こうして記事をしたためているのだったりします。
でも、そんな自由を履き違えた「自由の履き違え」を言うのも自由だと分かってます。
そこが違います。
以上です。ご清読ありがとうございました。
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